遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『若冲の目』  黒川 創  講談社

2023-08-20 17:06:23 | 諸作家作品
 伊藤若冲は心惹かれる絵師の一人である。本書のタイトルに目が止まった。著者は手に取って初めて知った。若冲関連本は順次読み継いでいるのでどんな本かと興味を抱いた。
 若冲ものでは予想外の異色な小説だった。なぜか。ストーリーのベースは現代にあり、現代小説である。登場する主人公が伊藤若冲に執心する要因を持ち、ある事項を明らかにしようと追求する。その視点で伊藤若冲のある局面に鋭く光をあてていく。だが一方で、その主人公は現在の己の中に一種の懊悩、葛藤を抱いている。パラレルにそれにフォーカスが当てられストーリーに織り込まれていく。一種のもどかしさがストーリーを包んでいく。明確なテーマ追跡と事象分析のプロセスの一方で、主人公の模糊としたたゆたう曖昧な現在の心情が交錯していく。一種奇妙な余韻を残す作品だった。 

 本書は「鶏の目」「猫の目」というタイトルの小説2作で構成されている、前者が156ページ、後者が184ページというボリュームなので、中編小説というところか。『群像』(1997年8月号、1998年8月号)に発表され、1999年3月に単行本が刊行されている。

 <鶏の目>
 主人公は京都育ちで、東京の大学に進学し、油絵を描いていたが今は絵を描くことを辞め、フリーライターとなっている女性で木村と称する。若冲は天明8年の大火、「団栗火事」で焼け出された後、晩年を伏見の石峰寺の門前に草庵を結んで住んだ。若冲は石峰寺に五百羅漢像を建立し続けたことで知られる。若冲の墓が石峰寺にある。この頃、若冲は「妹」と称される眞寂尼(/心寂尼)と同居していたという。木村は若冲自身よりも、この心寂尼の存在について、事実を追跡することに関心を抱く。
 木村は、画集『若冲』に採録された文化9年作成「伊藤家過去帳」や伊藤家の遠縁だという安井源六が作成した伊藤家系図を手がかりにし、伊藤家の菩提寺である光蔵寺を訪ねて、過去帳を調べるという作業を始める。若冲作品の収集家である京都の富石さんを訪ね、若冲の石板摺り「乗興舟」他を拝見したときにその助言を受けた。この富石さんがこのストーリーでは黒子的役割として登場する。
 ストーリーは、木村が光蔵寺での伊藤家過去帳記録の探求を行うことが中心に進展していく。さらに富石さんからの便りで、四国讃岐の金刀比羅宮奥書院に若冲作と判明した花の絵200点ばかりの貼付のことを知り、現地を訪れる。この部分、私にはストーリーとしては付け足しのような印象が残った。ここでは白装束の神官が木村に応対する。その拝観の経緯が描写されるのだが、末尾の一文が「その顔は、鶏の目をしていた」である。タイトルは、多分ここに由来するのだろう。

 伊藤家系図の探求とそこに潜む謎の解明というテーマをメイン・ストーリーにしつつ、木村の回想がサブ・ストーリーとして織り込まれていく。18歳まで京都に住んだ折の高校時代の同級生・ヒロミの描く絵と彼女との交流の記憶。東京で絵描きのジャックという愛称の相方との関わりについて。85歳で死んだ祖母との晩年の関わりについて。これらの回想がメイン・ストーリーの間に織り込まれていく。脈絡があるようで、そうでもないような形での挿入。主人公の心の内面の諸相、知的探求心と日常性の同時存在が生み出す模糊とした心理の変化と雰囲気を描こうとしたのだろうか。そのギャップが読者に与える印象・・・・一人の実存する人間の心の動き・・・・。エンディングは唐突。

 序でながら、フィクションなので設定は自由である。しかし、伊藤家の墓が実在する菩提寺は宝蔵寺。本書に記述される伊藤家の家系図は史実通りなのか。ここにも創作上のフィクションが交えてあるのだろうか。たぶん、こちらは判明している資料に基づいているのだろうと思うが・・・どうだろう。その点について資料がなく不詳。

 <猫の目>
 こちらの設定もおもしろい。主人公は複数で移動する。最初と最後の主人公として、東京でIと生活する女性、ヨーコの視点で描かれる。よっちゃんという愛称が出てくる。彼女はIの発案で一緒に内能登の和倉温泉から羽咋への旅に出る。
 ところが、Iが京都まで行こうと言い出した。二人はそこで別れて、主人公はIになる。彼は京都にある小さな美術館の学芸員をしていた。学芸員の時に、特別展「視覚の宇宙-18世紀日本画の新しい流れ」を企画し実現させた。その後、学芸員を辞して、東京に移る。Iが一つの新聞記事に着目して、京都に行く意図を実行したのだ。身勝手な・・・・。そこから、彼は、伊藤若冲の大幅の代表作『動稙綵絵』が全30幅と言われるが、実は他にも実在していたのではないか、という謎の解明に突き進む。Iは、夏目漱石が「一夜」の中に、若冲が描いた「冬蘆群雁図」の描写があり、その絵は実在していたものを見ての記述ではないかと推測する。そこから、『動稙綵絵』が30編に留まらず他にもあったという仮説をIは立てる。それをどのように論証していくかが一つの読ませどころになる。

 だけど、読んでいて、京都に行く必然性がどこにあったのか・・・私には判らなくなって行った。それは、サブストーリーである彼の回顧を鮮明にする舞台装置にすぎないのでは・・・・そんな気がした。ストレートに『動稙綵絵』の実物が所蔵される場所に行く記述、関係者に直に会うという展開が出て来ないのだ。ちょっと不思議な思いに・・・。京都国立博物館に立ち寄る場面は出てくる。だが、それは若冲の絵についての記述はあるが、『動稙綵絵』とは直接には関係しない。
 さらに、夏目漱石が「一夜」に描いた「冬蘆群雁図」のことは、回想の一部として描き込まれているのである。ストーリーの進展がちょっと奇妙な・・・・と感じた。

 ここではサブ・ストーリーのウエイトが大きいと感じる。一つは早紀子という女性についての回想、特別展を企画・実施したときの若冲作品の展示貸し出しを快く承諾してくれたジョーンズさんとの関わりの回想が、織り込まれていく。早紀子とは連絡を取ろうとまでする。これを語る背景としての京都か。
 夏目漱石家の猫の話が出てくる。エピソードとしてはおもしろい。だが、なぜこれが挿入されるのか。

 次の文が出てくる。
「画家の視界は、このとき、猫のものだ。
 若冲は、細部に執着した。それはある定点に立つ視界ではなく、その空間全体を舐めるように接写していく、透明な眼球を通して描かれている。繁みは、葉一枚一枚の病斑まで、緻密に描いた。それ一つひとつの穴から、何かがこちらを見つめている。猫の目。猫の気配は、そのようなものとして、彼の画幅のなか、あちこちに埋まっている。見つめ、見つめられる、この被視の網の目から、逃げられない」(p256)
「牡丹の繁みのなかで、猫の目が動いている」(p282)
「若冲が、猫の目で、こっちを見て絵に描いている」(p330)
 この小説のタイトル「猫の目」はここに由来するようだ。

 若冲の絵の技法などについての記述から学ぶところがいくつもあった。『動物綵絵』についてのIの論考も興味深い。一方で、私には読後にスッキリしない余韻が残る。そこに意図があるなら成功しているといえるのだろう。他の読者の印象記をちょっと検索してみようか・・・・。

 ご一読ありがとうございます。
 
補遺
乗興舟 伊藤若冲 :「和泉市久保惣記念美術館 デジタルミュージアム」
乗興舟 (Happy Improvisations on a Riverboat Journey)1 :「伊藤若冲」
乗興舟 (Happy Improvisations on a Riverboat Journey)2 :「伊藤若冲」
乗興舟 (Happy Improvisations on a Riverboat Journey)3 :「伊藤若冲」
乗興舟 (Happy Improvisations on a Riverboat Journey)4 :「伊藤若冲」
乗興舟 幻の若冲版木が縁側に [連載] :「ARTNE アルトネ」
石峰寺と伊藤若冲  :「石峰寺」
宝蔵寺と伊藤若冲  :「宝蔵寺」
第59話 伊藤若冲 百花図(花丸図) :「金比羅宮美の世界」
 神秘で濃密な絵画空間 武者小路千家官休庵家元後嗣・美術史家・千宗屋
修復終えた伊藤若冲「百花図」公開 緻密な描写がより鮮明に 金刀比羅宮で8日から特別展 香川 YouTube
天才絵師 伊藤若冲の“最晩年の傑作”を貸切で鑑賞! :「そうだ京都、行こう」
[京都 美の鑑賞歩き]第7回~信行寺本堂の天井に描かれた伊藤若冲の傑作が初公開!
               2015/11/3   :「サライ」
群鶏図     :「文化遺産オンライン」
蝦蟇・鉄枴図  :「京都国立博物館」
果蔬涅槃図   :「e國寶」
樹花鳥獣図屏風 :「静岡県立美術館デジタルアーカイブ」
夏目漱石 一夜 :「青空文庫」
夏目漱石 草枕 :「青空文庫」
動植綵絵  :ウィキペディア
若冲展 by ぶらぶら美術・博物館|新発見の真筆・孔雀鳳凰図 :「クラシック音楽とアート」

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