遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『舟を編む』  三浦しをん  光文社

2023-05-16 16:51:34 | 諸作家作品
 辞書とは何か。辞書がどのように編纂されるのか。辞書はどのようなプロセスを経て世に刊行されるのか。株式会社玄武書房の辞書編集部が、十五年余の歳月をかけて『大渡海』と命名する辞書を刊行する経緯を描いたフィクションである。
 本書は、最初、女性ファッション雑誌『CLASSY』(2009年11月号~2011年7月号)に連載され、2011年9月に単行本が刊行された。2015年3月に文庫化されている。

 友人のブログ記事で本書が映画化されていて辞書にまつわる小説と知り、それがきっかけで読んだ。後で調べて、本書は2012年に本屋大賞を受賞。映画化され2013年4月に公開。テレビアニメ化され2016年に放映。ということを知った。

 玄武書房の辞書編集部長荒木公平は、辞書一筋の会社人生を過ごし、松本先生と新しい辞書『大渡海』の刊行を目標としてきた。だが、その荒木にも間近く定年を迎える時期がくる。荒木は社内で、辞書編集業務に情熱を注げる適任者を物色する。荒木は部下の西岡が挙げた名前の人物に会ってみて、その人物に辞書編集担当者の資質を発見する。それが第一営業部馬締光也だった。荒木は馬締を辞書編集部に引き抜く。第一営業部の観点では必ずしも適材ではなかったせいか、人事異動は円滑に進む。
 読者にとっては、荒木と馬締の出会いの場面にまず引きつけられる。馬締のキャラクターが特徴的でおもしろいから。
 馬締の歓迎会の席で、荒木は「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」(p27) 「海を渡るにふさわしい舟を編む。」(p27) と語り、松本先生はその思いをこめて、荒木君とともに新たに刊行する辞書を『大渡海』と名付けたと言う。本書のタイトルは、馬締に語りかけた会話に由来する。
 『大渡海』は、約23万語を予定する中型国語辞典であり、『広辞苑』や『大辞林』と同程度の規模を想定している故に、後発辞書となる。玄武書房内では、辞書刊行は出版社の格を示す重要な側面にもなるが、一方で金喰い虫とみなされていた。金喰い虫という社内他部門の目が、『大渡海』刊行までに紆余曲折を経る要因になっていく。

 荒木が編集部長の時代を前期とすれば、馬締が編集部の中核になり、様々な辞書刊行を行いながら、地道に『大渡海』編纂を推進するのが後期なる。荒木は定年退職後も、明記されていないがいわゆる嘱託社員的な立場になり、『大渡海』編纂に継続して関わりを持ち続けていく。松本先生は『大渡海』の監修者として、馬締との関わりを一層深めていく。

 本書は言わば辞書が誕生するまでの舞台裏を描いて行く。これが読者にとっては辞書が生み出される工程を知ることになる。
 用例採集カードの作成・集積:松本先生の日常生活の一部として点描される。
 編集方針会議:松本先生、荒木、馬締、西岡(後に人事異動で去ることに)で実施
 専門分野ごとの研究者・学者の原稿依頼、原稿への手入れ・修正、
 見出し語の検討:語釈の適切性。用例確認。用例の妥当性。例文作り。
    ⇒用例確認には、アルバイト学生を動員。
 用例確認を終えた原稿への編集方針に従った級数・ルビなどの指示入れ。
 入稿・印刷・校正刷り ⇒校正刷りのチェック ⇒印刷所への戻し ⇒再校
    最低でも五校はチェック作業がくり返される
こういうプロセス、辞書の舞台裏を考える利用者は少ないだろう。私もその一人、辞書の見出し語から、その内容に取り上げられた用例を重宝してきているだけだった。これら辞書作りのステップに絡むエピソードが織り込まれていく。例えば、西岡が馬締への引き継ぎを円滑にするために、日本中世史専門の大学教授の原稿に対する問題点指摘と修正を納得してもらうエピソード。四校時点で発見された見出し語「ちしお[血潮・血汐]」の脱落から始まる「玄武書房地獄の神保町合宿」状況。など、興味深い山場が点描される。

 また、『大渡海』印刷用紙の特注(特別開発)が、一つのサブストーリーとなる。あけぼの製紙の窓口となる宮本と発注元の馬締とのコラボレーションである。用紙開発のキーワードは馬締が口にした「ぬめり感」。
 辞書編纂が転記に入る頃に、入社三年目の岸辺みどりが辞書編集部に異動してくる。「再校を戻す日になって、正字ではない字体が混入していることを発見する、という夢を見た気がします」(p154)と語る馬締に対して、「せいじって、なんですか」と質問を返すという場面から、岸辺みどりの悪戦苦闘が始まる。だが、岸辺は徐々に辞書編纂の流れに主体的に取り組み、己の仕事に意義を見出していく。そして、「ぬめり感」の実現に捲き込まれて行くのだが、それは、岸辺と宮本の間に愛が育まれる契機にもなっていく。一つのサブストーリーが織り込まれていく。

 最大のサブストーリーは馬締光也の恋愛物語。馬締は学生の時から引き続き、春日にある下宿「早雲荘」に住んでいる。家主はタケおばあさん。下宿人は今では馬締だけ。そこに、タケおばあさんの孫「かぐや」が京都から移ってきたのだ。その出会いから、既に馬締は恋に陥っていく。「かぐや」つまり林香具矢は京都で板前修業をしてきて、東京では『梅の実』に勤め板前の修業を続ける。馬締と香具矢が愛を育むサブストーリーが馬締の辞書作りを支える背景として、それとなく自然に織り込まれていく。馬締の恋心を最初に見抜いたのが西岡だった。馬締は香具矢へ便箋15枚分もあるラブレターを書く。真剣かつ滑稽なサブレター。それをまず西岡に見てもらうのだからおもしろい。西岡はそのラブレターのコピーをとり、それをある意図のもとに辞書編集部内に残した。巡り繞って、その秘匿されたラブレターを岸辺みどりが西岡からのメッセージにより、探し出し読むことに・・・・。

 辞書作りという地道な作業のプロセスが、どちらかと言えば淡々とした筆致で進展していく。辞書作りに情熱を傾ける人々の姿、行動が、事態の紆余曲折を含めて、ユーモラスなエピソードを交えながら、辞書刊行を目指して描きこまれていく。
 堅苦しくなく読み進めることができ、辞書作りのプロセスの要はちゃんと押さえられている。勿論辞書作りの問題点の指摘も含む。
 『大渡海』を刊行したこのストーリー末尾近くの、次の記述が、実に心に響く。
    俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、
    豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。
    「まじめ君。明日から早速、『大渡海』の改訂作業をはじめるぞ」
 楽しみながら読み通せる本書は、辞書作り舞台裏話+ラブストーリーである。

 最後に、印象深い文を引用しご紹介したい。
*原稿の執筆者も、専門分野ごとに信頼のおける学者を厳選する。執筆者の名は辞書の巻末に列挙されるので、見るひとが見れば、人選が的確かどうかわかってしまうからだ。執筆者の顔ぶれから、辞書の態度と精度とセンスをある程度測ることができる。 p136
*有限の時間しか持たない人間が、広く深い言葉の海に力を合わせて漕ぎ出していく。こわいけれど、楽しい。やめたくないと思う。真理に迫るために、いつまでだってこの舟に乗りつづけていたい。  p145
*言葉にまつわる不安と希望を実感するからこそ、言葉がいっぱい詰まった辞書を、まじめさんは熱心に作ろうとしているんじゃないだろうか。 p186
*たくさんの言葉を、可能なかぎり正確に集めることは、歪みの少ない鏡を手に入れることだ。歪みが少なければ少ないほど、そこに心を映して相手に差しだしたとき、気持ちや考えが深くはっきりと伝わる。一緒に鏡を覗きこんで、笑ったり泣いたり怒ったりできる。 p186
*まじめさん。『大渡海』は、新しい時代の辞書なんじゃないですか。多数派におもねり、旧弊な思考や感覚にとらわれたままで、日々移ろっていく言葉を、移ろいながらも揺らがぬ言葉の根本の意味を、本当に解釈することができるんですか。 p199
*「その言葉を辞書で引いたひとが、心強く感じるかどうかを想像してみろ」と。p200
*言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するのですね。   p226
*言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟。『大渡海』がそういう辞書になるように、ひきつづき気を引き締めてやっていきましょう。   p226
*だがどうやら、女は本気で「誠実」を最上級の褒め言葉だと思っているらしく、しかもその「誠実」の内実が、「私に対して決して嘘をつかず、私にだけ優しくしてくれる」ことを指していたりする。 p97

 ご一読ありがとうございます。

補遺
舟を編む  :ウィキペディア
ノイタミ  :ウィキペディア
舟を編む :「映画.com」
映画『舟を編む』予告編  YouTube
アニメ「舟を編む」PV #Fune wo Amu #Japanese Anime   YouTube
国語辞典  :ウィキペディア
『広辞苑』『大辞林』『大辞泉』はどう違う? 中型国語辞典徹底比較 :「四次元ことばブログ」
意外と硬派?「比べて愉しい国語辞書ディープな読み方」  :「毎日ことば」
日本語教師のための"正しい"辞書の使い方とその指導   :「no+e」

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