以前、S問題で「いつも」という記事を書いた。
要は「MCされた」「騙された」という書き込みはいっぱいあるけど、「私がMCした」「私が騙した」という声は全くない。
それと同じようなことが、以下、ゲートルを巻いたのは? - 珈琲一杯分の話でも紹介した丹波万作の「戦争責任者の問題」にあるので改めて転載します。👇
「多くの人が、今度の戦争でだまされてい たという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたよう な民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば 直ぐにわかることである。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
いくらだますものがいても、だれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど 批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
実際に今回、再び戦争が始まってしまったら、起こっていることが本に書いてある通り、あまりにもそのままでびっくりした。
いくらこんなヘンテコな詐欺を仕掛けられても、騙されなきゃ成り立たないのに、熱心かつ自発的に成り立たせているのは誰でもない、民間の組織だもんね。
組織ぐるみで、熱心にかつ自発的にだます側に協力している人たちがいかに多いことか。
だから敢えて言いたいのです。コレ。
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