珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

消されたあれこれ

2022-01-27 | コロナ騒動
これは実際の議会でのやり取りである。
(以前、動画の記事も上げたけど、相当に不都合だったらしく削除されてしまった)


最近、対話した人に、この騒動を出すとまるで中国のように削除されてしまうかと言ったら
デマが報道されているのだから致し方ないと考えている」と返された。

消されるのはデマだから?

ごらんの通り、ただの事実である。

それにしても議会で言っていることと、やっていることがなぜこんなにも違うんだろうか?

●「PCR検査の陽性反応=感染証明にはならない」と言っているのに、実際はPCR検査を大々的に行って、陽性反応者を100%コロナ感染者と診断している。

●「無症状感染などない」と言っているのに、無症状の人と同じ空間にいた人を「濃厚接触者」と呼んで隔離している。

●「PCR検査が、本当に新型コロナウイルスを検出している科学論文なんてない」と言いながら、PCR陽性者を以てコロナ患者だと断定している。

全てが矛盾している。

新型コロナウイルスは、武漢で見つかったウイルスの遺伝子配列をもって確定され、その遺伝子配列を基にPCR検査が作られ、ワクチンが製造され、そのワクチンは有効であるということも、土台から崩れてしまう。

それは困る。
だから消す。

まるでガリレオが地動説を唱えても、当時のキリスト教が許さなかったように。

事実も科学も、権力の手にかかると揉み消されるんだから、人を潰すくらいどうってことないのだろうか。

ここ2年で、ワクチンを拒否した大統領が相次いで逝去。

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When it changes

2022-01-27 | 日記
尾身という詐欺師が今さらになって「ステイホームや店を閉めること、外出自粛などは必要はない」とか言い出したけど、そんなことは2020年の最初から言っている人はいる。
その時は、そんなことを言おうものなら絞め殺されそうになっただけで( ̄∇ ̄) 

今必要ないってことは、当時から必要なかったのだ。

しばらくしたら「飲食時は4人以下ならばいい」だとか「黙食すればいい」とか「健康な人もマスク着用さえすれば」ということも、手のひら返し必要ないと言いだしますよ。
症状のある人だけ気をつければいい、という当たり前のことを、叩かれない頃合いを見計らってね。

もちろんそんなものが必要な時なんて一瞬もなかった。

3回目のワクチンは「打って打ってうちまくるしかない」「シャワーのように打ちまくれ」の掛け声もむなしく、パタリと人気がないそうである。
打たないということはいそいそと2回打った人でさえ、3度目は反ワクになったということである。

啖呵を切って断言していたことも時が経てば、人の言うことなんてあっさり変わる。

注射に何が入っていたかとか、政治家がどんなふうに脅されていたかも、分かる日は近い。
その時「そんな陰謀論を言ったら笑われますよ」と言ったその口が、尾身のようにしらじらしく変わるであろう、でもそんな平和な日を夢見ている( ̄∇ ̄) 
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信じること29

2022-01-27 | 思うこと
昨今の注射騒動を、これは前代未聞の怖いウイルスが世界的に蔓延したホンモノのパンデミックであり、
政治家や分科会の人たちは、国民が感染症に罹らないために必死の対策をしているのであり、
そのために効果があるとされるワクチンを、人にここまで薦めるからには当然、自らが打っていないはずはなく、
旗を振っている国会議員が打っていないなどというデマは信じられない。
デマに付き合うほどの精神的余裕は自分にはないので。
「打ってない」というなら納得できるような明瞭な根拠を出してほしい。

と主張する人がおられる。

私は最初はある程度の説明はしてみたものの、信じるという人の前には何を並べても無理だと思った。
どんな動かぬ証拠を出そうと、そんなものは何とでも言える、トリックでも作れると理屈を並べて、絶対に受け入れないからである。

S教団の本部職員が財務を「末端会員にはいろんな詭弁を使って煽りながら自分たちは2万しか出していない」というのは、Sアンチの中では常識であり、真実とされている。
私もそういうもんだろうな思うし、別に驚くことでも疑うこととも思わない。

アンチはその根拠を「これがデマなら、多くの本部職員からクレームのコメントが来てもおかしくないはずだ。 ウソなら公式な否定する証拠や証言が現れない以上、この言説の信ぴょう性は高まってく」と言う。
ならば、国会議員も厚労省職員も、国民には「努力義務」とまで煽りに煽ってながら、自分たちが打ってないという話が、反ワクが都合のいいようにデッチあげたウソであるなら
「それに対するクレームのコメントが来てもおかしくないし、 ウソなら公式な否定する証拠や証言が現れるはず。でもない以上、この言説の信ぴょう性は高まっていく」
全く同じ理屈が成り立つけどね。

内部告発や暴露本なども然りである。
内部告発や暴露があったから事実なのではなくて、信じるから内部告発や暴露本が本当のことを言っていると思うのである。

実際、注射騒動でも内部告発や暴露など幾らでもあるけど、信じない人は「金儲けや売名行為のデマだ」など相手にしない。

信じるというのはそういうことである。

「国会議員も厚労省職員も接種なんかしていない」なんてというデマという人は、じゃあ仮に全員の名簿と接種証明書のような厳然たる証拠を出せば信じるのだろうか。
いいえ、出したところで、今度は「そんなものは幾らでも偽造できるしトリックでも再現できる」とか言い出すでしょうね。
一方で、たった一人のネットの匿名が書き込んだ「本部職員は2万しか出していない」は、職員全員の振り込み明細を確認したわけでも何でもないのに、それは「ウソと思えない人柄が文面から伝わった」とか「多くの人たちの心に刺さった」ゆえ、信ぴょう性があるものだと思う。

「何をもってデマとするか?」  
これは、よく説明できる言説とか、より多くの人が納得する言説などではない。
どんな奇想天外なことでも統合性がないことでも、信じる時は信じる。
デマと判断して信じないものは信じない。
理屈など関係ない。
「より多くの人が受け入れるか」なんて、大勢とか少数も関係ない。

信じることは心を預けることで、デマと思うことは心が受け付けないことを見ると、どうやらその正体は感覚、感情のようなものではないかと私は思う。

信じることの不可思議を私はずっと考えている。
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