ここ数日「コロナ騒動は自然発生的に起こった感染症であり、人間が意図的に起こした政治的なものなんてものは、話にならない陰謀論だ」という人と対話を重ねてみた。
なぜそう信じるかというと、科学に基づいた根拠からだと、その人は言った。
科学に基づいた根拠があるから信じる…
いいえ、それは違うと私は言いたい。
信じるから科学に基づいた根拠があると思うのだ。
逆。
コロナ騒動であれ、情報の何を信じるかであれ、宗教であれ、
信じる信じないを語る時、人は必ずその理由を言いたがる。
何故そう思うかという、理屈に夢中になる。
科学的な根拠があるから。
それはかくかくしかじかコレであるから。
言っていることに矛盾がないから。
信頼できるから。
あの人が言うから。
私は何も妄信しているのではない。
ちゃんとその理屈を考えて、判断して、納得しているゆえなのだと。
或いは、その逆だから信じられないと。
だけど信じられなくなったら、信じた「理由」は何も変わららず存在しているのに、同じ「理由」を見て真逆のことを言う。
(散々見たわ( ̄∇ ̄) )
「理由」に納得して信じたのなら、その「理由」がある限りずっと信じ続けるはずなに、でもそうじゃない。
科学的根拠があるから信じる、統合性があるから信じる、のではなくて、
信じるから科学的根拠がある、統合性があると思うのである。
信じるが先なのである。
これは恋愛に例えるとわかりやすいと思う。
好きになった理由を百万回並べたところで、嫌いになったらその理由こそが冷めた原因になる。
信じることの根拠という、崩れてはいけない鉄壁の「それが」
そうでしょ?
好きになるのに理由はない、ということは上手く言い当てていると思う。
信じることって恋愛と同じで、心を預けることである。
その発端?正体?は、感情だと私は思う。
私はよく、何に限らず「なぜ信じるのか?」と訊かれたら「心に入ってきたから」と言って、これを明瞭な基準にしている。(たまにバカにされるけど)
これが突き詰めた結果、最も、混じりけのない適格な答えと思うからである。
科学的にね(笑)