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不思議な石

2019年11月01日 | 集落

不思議な形の石が見つかった。中央が顔に見え長い手で子供を抱いているように見える。普通に見ただけでは気づかなかった、微妙な光線の影で強調されると顔型がはっきりと見えてくる。

6月ナラ枯れの木を薪ストーブ用に伐採していた。ツバキ等の灌木と落ち葉に隠れていた。約80年樹齢のナラの木は重いのでチェンソーで倒して運びやすい大きさにチェンソーで切り込んでいた。その時不思議な石に気づいた。チェンソーがキーンと何かと接触した。慌ててエンジンを止めた。落ち葉や土を取り除き掘り起こしたら高さが約55㎝、横幅がそれぞれ約34.5㎝ほどあった変三角の形に見えた。

 

掘り起こした石

後日、不思議な石に興味がわき箒をもって丁寧に土を払いのけた。しかし全容が把握できなかったので自宅に持ち帰り水洗いをしてみようと考えた。重量は約50㌔ほどやや水圧の強いポンプで水洗いをした。かなり強い線がみられる。 人為的なものと見られ、自然にはあり得ない線が描かれている。そして最も興味深いのは下記の部分、中央の顔の見える部分の拡大が次の写真。

左側斜めから陽があたると顔の形がはっきりとする

何かを抱いているように見える。水洗い後しばらくして乾き、微妙な陽の光でその部分が強調されてた。どう見ても「子安観音」にみえる。「子安観音」には二つの要素がある。一つは「 安産や幼児の成長を守護するという観世音菩薩」。二つは「 潜伏キリシタンが礼拝した聖母像」。

左 水洗い直後 右同じ部分乾いた状態(同一のもの)

水洗い直後と水が乾いた同じ石の部分を比較するとより鮮明にわかる。水洗いで手の部分が何か硬い鋭利なもので人為的に描かれている。右の写真になるとはっきりと子供を抱きかかえているように見えてくる。子供を抱きかかえる姿はまさに「子安観音」。さらにこの像から部分の

上部斜め右部分、像の頭部から12㎝にある切れ込みは、不鮮明な「十字」に見える刻みがある。十字部の上部分が短い。横線とした下線は人為的な線にも見える。それともこの石の構造からのものだろうか。それ相当の年月経過で風化したからだろうか。

 十字架 ?

集落には「マリア観音像」が祀られてお堂がある。レプリカは稲庭城「今昔館」に展示されている。

以下は水洗いした直後の石の面。 

水洗い後の側面

 

左 強い線が右肩上がり 石の質が違うように見え描かれた線がある。

左 一部が少し小さい面 右 底辺部分

変三角の一部が小さくなり上部にいくほど細くなる。四角の石というほどのものでもない。右側の部分は底辺で何もない。

 

全体高さ55㎝、横幅平均34.5㎝。中央の像の大きさは22㎝。もしかしたらこの石の中央部が顔に見え、母が子供抱いている姿に似ていると鋭利なもので手を加え抱いている姿にのかもしれない。右上部の十字模様とするとブログ、2018.1.25の「麓の子安観音(マリア観音)考で触れたものと関連してくる。

この石の発見された場所「外坪漆」は、明治以前に我が家の持地になっている山林。昭和51年仲間と「草地改良」事業で新たに林道を造成した場所。重機で表土を押し出して作った道。この石はその際重機で押し出されたのかもしれない。この「外坪漆」にはこの場所から200ⅿほど離れた場所にも不思議な場所がある。ブログ、2009.12.5「坪漆と杉の枝打ち」で触れた。

外坪漆の絵図面

明治の坪漆の絵図面、中央部左よりの部分鍵の形に見える白い部分。我家の山林(明治初期には萱場)の隣地。現在は杉林。鍵形の現場は「祭式」の場所にも見える。この場所の地番は記されてはいない。今回の不思議な石出没地点から約200mの地点。関連性は今のところはっきりしない。この地点付近から「矢じり」等の石器らしきものも出てきている。人家から約1Kⅿのこの附近は、ミステリーにつつまれた場所にに見えてくる。 


川連城址散策記

2019年09月11日 | 村の歴史

川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」のころ、寛治年間(1089~1093)野武士の一団が国見山の中腹に城を築き始めた。当時奥羽一円に威勢を張っていた清原武衡、家衡の一党「梶美作守」が首領。当時陸奥に乱をなす清原一族の平定のため、朝廷の命を受けて東征してきた源義家の大軍に国見の堅城といわれた「梶美作守」の砦(川連城)が無残に敗れた。

廃城となった川連城に長い年月が流れ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。「稲川今昔記 いなかわのむかしっこ」平成12年11月15日刊 佐藤公二郎著引用 

稲川町史昭和59年(1984)3月31日刊によれば「川連城は嘉慶二年(1388)に小野寺左京蔵人道兼・黒滝に城を築いて隠居すと「大舘村創村記」などに見える」。とある。「大舘村創村記」は、享保十六年(1731)川連村より「大舘村分郷」の中に記された一部で、筆者は加藤政貞。(高橋喜右衛門所蔵) 

「戦乱の後、豊臣秀吉の天下統一で太閤検地が天正18年(1590)仙北地方に発せられ、越後の太守、上杉景勝を検地奉行とし、大谷刑部小輔吉継を副使として仙北三郡の検地を10月から開始された。六郷で農民、武士の一揆が起こり、増田、川連等小野寺家の武士、農民ら2千余人が一揆に起こし城に籠ったが上杉景勝一万二千人の軍を率いてこれを討った。一説には川連城主を大将として一揆を起こしたともある。戦いは上杉勢の圧勝で終わり、その後最上義光勢が雄勝郡内に進出、小野寺氏の滅亡ともに川連城に春のよみがえことはなかった」。 稲川町史 引用 

「城郭は三つの郭群の連郭式で、北に五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅五m、基底二mの空濠で遮断される。東に犬走、腰郭が認められる。主郭はこれに南接する東西三〇m、南北六〇mの平坦地で南東隅に二〇m四方の高台を持ち、神明社を祀る」。          

 川連城址城郭図(稲川町史引用) 文字注入筆者

この度、北側の通称「サンザェン(三左衛門)塔婆、マサエン(政右ヱ門)翁の記念碑、天神様のある場所から登る。

 

8月に途中のミズナラの「ナラ枯れ」被害木の伐採作業が行われ、比較的山道が登りやすい。

通称 穴門 

登り始めて間もなく地元で「穴門」と呼ばれているところにつく。古城址全体が約40度前後の山城。この場所は明らかに人の手でS字状に掘り下げられたものと分かる。この穴門は川連城への入り口とされている。

五段帯郭の北端

ミズナラ等の雑木林から間もなく、鬱蒼とした杉林に入ると三つの郭群からなる連郭式の城址、五段の帯郭にたどり着く。その上部の四段の帯郭、約600年前の全て人力作業の難儀さが伝わってくる。この帯郭の右側をさらに進むと約5m高さの四段の帯郭に着く。

 五段帯郭と四段帯郭

五段帯郭と四段帯郭の境目、写真の反対側が二mほど下がって「犬走り」が南側主郭の東側に続いている。ここから主郭まで道らしき姿が見えない。主郭の近くなのでまっすぐに進むこともできる。また四段の帯郭を進むことも可能だ。帯郭の段差はせいぜい二mに満たない。

主郭は東西三十m、南北六十mの平坦地、高さ約五mの南東隅に約二十m四方の高台があって現在神明社がまつられている。

 主郭 

神明社は昭和五十年代の周囲の杉が小さく、集落からもよく見えたが強風で東の呻沢に吹き飛ばされてしまった。現在の神明社は四〇数年前再建されたものだ。呻沢の水の流れは主郭、神明社の高台から約五〇m下にある。沢の上流、水源地付近の湧き水を川連城の主郭に水を持ってきていた。現在では周りの雑木が繁茂し、その水路の跡は見えないが40年ほど前だとはっきりと等高線沿いに水路の形跡は見られた。呻沢は四〇度近い急傾斜、斜面には城址特有のシャガがびっしりと群生している。シャガは川連城隆盛の時代からの植生かもしれない。

主郭から高台の南側に空掘りがある。千本杉の地名がありかつては南西の方角あった三梨城の方向まで道筋があった。享保一六年(1731)の川連村古図には城正面の西側の集落から急坂な道筋が見える。

呻沢は「うなりさわ」という。小野寺道高が戦死した際、その首がうなりを発して転々と沢に落ちていったというところからウナリ沢の地名が生まれたといわれる。国見岳と鍋釣山の間の沢は内沢といい、最深部は集落から3㌔ほどを「オヤシキ」、綱取に「エボシクラサワ」、中心部に「マンゲノコヤ」等呼び名の地名が残っている。この名からかすかに中世の趣が感じられる。

神明社とシャガの群生

神明社に狛狐、一般的には狛狐は稲荷神社が主ともいわれている。地元では川連城址の神社は稲荷大明神社との言い伝えもある。稲川広報の昭和54年3月10号、町の歴史と文化 城下町・川連㈥には通称森コの「明神様、稲荷神社と川連城址の明神様とはご姉妹」との説もある。

神明社 狛狐

神明と字が逆な明神は違いを調べてみると次のような解説があった。「日本の神道の神格一般を指す言葉だが、神明は特にその中でも天照大神をさす」。神明系(天照大神・豊受大神が主祭神)と明神系(神仏習合による仏教用語で神々に対する称号がはじまり。古代は「大神」)とあった。

稲荷神社の狛狐のくわえているものは五穀豊穣を願う稲穂、巻物は知恵の象徴、鍵は米蔵の鍵、玉は宝珠等の4種類といわれる。神明社の狛狐のくわえているものはこれらの⒋種類以外のものに見える。くわえているものを神社関係者等に聞いても今のところ分かっていない。 諸説はあるが川連城の落城は天正19年4月、その後江戸時代のいつ頃神明社が建立されたのか、狛狐のくわえものにこめられた大きな意味があるありはしないか等々興味が尽きない。

国土地理院の地理院地図によれば、川連城址内沢林道の入り口が標高176.7m、穴門付近が209m。五段の帯郭付近が280m、主郭の平らな場所は296m、高台が303mとなっている。住宅ある場所から高低差約120mで主郭部に着く。五段の帯郭、四段の帯郭部、さらに城郭を囲む急斜面は鬱蒼とした杉林になっている。帯郭付近にはびっしりと見事なミズが群生している。

この場所は湯沢市稲川庁舎から直線距離でせいぜい2kmほどの場所。住宅地に近いのだが訪れる人はほとんどいない。鬱蒼とした杉林に囲まれた城址はいつも静まりかえっている。あまりの静寂さに現実から超越した空間さを感じる。ネット検索してみたら秋田県のお薦め中世城郭二〇選に選んでいる方がいた。またユーチューブで平成17年5月10日作成、散策の川連城跡の動画の投稿があった。下記をクリックすると観られる。

https://www.youtube.com/watch?v=uxd-rAiezes

ミズナラ等の雑木林を抜け、杉林に入ると数年前から放置されていた倒木を今回チェンソーで払いのけながら進んだ。途中チェンソーのトラブルで主郭までの倒木整理はできなかった。五段の帯郭をすぎ四段の帯郭付近にはまだ倒木がある。主郭までの歩道の整備は次回の機会に終えたい。

※川連城の築城、小野寺の時代の構築に年月、城主名に資料によって異説がある。      

     


田植えの終わった田んぼ

2019年06月25日 | 地域

2019年田植えが終わり約20日が経過した。順調な気温の推移で田んぼの稲も順調な生育に見える。この頃の気温の高低差が大きく心配なところもある。「春、田圃に稲を植え、秋に実りを収穫する」ことは稲作農家の大きな作業。一つ一つの作業の終わりは次への作業が始まるまでホッとした気分が漂う。田植え作業の終わった田んぼにある種の異常を感じたのはつい最近のことだ。

2年ほど前の6月末、由利本荘の友人と富山の友人宅訪問を企画し、私は奥羽本線経由で秋田に向かい羽越線で新潟に向かった。秋田駅を出発し車窓に田植え後の景色を見て唖然とした。田植え後の田んぼが雑然としていたのに気づいた。現在の田植え作業はすべて機械作業。田植え機が畦畔でターンした場所に稲苗の姿がないのだ。

由利駅から乗車した友人に聞くと近年由利地方で田植えの終わった後田んぼに入り「補植」作業する人はほとんどいないと云う。列車の風景は山形荘内地方に入っても見られた。国道や高速道路側よりも鉄道本線側にこれらの田んぼは多くみられる。

一般的な田植え後の生育情報。左正常、右欠株の圃場

田植え機が入ってきたのは昭和50年の中頃、はじめ歩行型の2条植えから4条植えの機械が入り一気に田植え作業が捗った。育苗箱に蒔かれた苗の不ぞろいがあれば植えられない場所が多く出たが当時一通りの田植え作業が終わると、一斉に欠株等に補植が行われた。当地方では「植えなおし」と呼び結構時間がかかった。丁寧に補植作業を行えばそれなりの収穫が約束された。近年田植え機は乗用型になり作業は一気に進むようになった。つい数年前まで「補植」作業は当たり前のことだった。欠株はほとんど田植え機の植え爪に当たらなかったか、苗がかき取られないのは育苗土に問題があるのかもしれない。

2019年田植えの終わった各地の田んぼを注意深く回ってみた。 

右側の写真は苗質が悪く一条または二条10数メートルから中には100メートルも植えられていない個所もあった。

横手市浅舞 2019.6.20

畦畔で田植え機がUターンされる部分が植えられていない。

羽後町 2019.6.21

田圃の耕耘が深いのか植えられた苗が沈没してしまった。

 湯沢市山田地区 2019.6.19

同じように植えられた田んぼも主食用、加工用、畜産用、ホールクロップ用と多様になっている。政策的な規模拡大奨励で耕耘、田植え等機械作業以外の作業から撤退の傾向にある。極端な場合を除き収量がそれほど減収しない。米価が安く生産意欲の減退がみられることが考えられる。

見渡せばほとんど変わらない風景、多くの農家が稲作から撤退が始まっている。先日鉄くず回収業者と話したら、廃ビニールハウスの持ち込みが急激に増えたという。 

※2019.6.25のものを投稿


薪伐採の顛末記

2019年06月05日 | 地域

薪ストーブを利用の多くの人は伐採作業は3月、4月の雪のある時期に終わっている。5月になると薪割り作業も終わり、乾燥促進のためきれいに積んだ薪が方々にみられる。

私の場合は田植が終わり田んぼ作業が一段落してからの時期に集中している。林道側の自家の雑木林での作業。軽トラ横付けの作業をモットーとしてるのでこの時期になってしまう。自家の雑木林の主流はミズナラ。樹齢が80年前後。薪材としては最良だが数年前から「ナラ枯レ」に侵されている。今年の薪材は昨年来「ナラ枯レ」とまだ枯れてはいないが衰弱したミズナラの伐採を決め込んだ。

今年の素人のナラの木伐採は失敗だらけ。初めの一本は予定の方向に倒すことができ、滑り出しが上々で作業の開始となったが、二本目の直径40センチのミズナラ伐採は予測した方角から大きく外れ側の杉林にもろに倒れてしまった。

林道から4,5メートル離れた場所。根本から切り詰めてながら作業を進めても杉の木の間に挟まってしまったミズナラはどうにもならなかった。 

チェンソーと樹脂製のクサビを巧みに使い、林道側までたどり着くこと小1時間。トラクターを持ち出し、持ち合わせのワイヤーは無くロープでの牽引、短くした根元につなぎ引っ張ってもびくともしない。引くのを中止し、トラクターのローダーで押し出す作業を数回重ねたらやっとのことで林道まで引っ張り出すことができた。

ミズナラの太い枝は杉の木に挟まり、林道に直接倒れる心配がなかったのでチェンソーで切りつめたら挟まっていた枝がもろとも落下した。

汗だくになっての作業。半日をかかってしまった。杉の木と違って枝が片方によじれて茂っていたミズナラの木。初めに倒す方向を確実に予測して伐採にかかってが素人作業の悲しさ。予測の方向とは全く違う場所に倒れてしまった。処理に時間がかかったがやっと倒した満足感はまた格別なものだ。直径40センチもあるミズナラの木、自宅まで運ぶことにまだ時間がかかる。薪の長さに短くしても相当の重量。現場でさらに鉄クサビで割って運ぶのにまだ時間はかかる。

猛威のナラ枯れで衰弱してしまったミズナラの木。素人の雑木伐採。チルホール(手動ウインチ)等道具を使いこなせればもう少し手間をかけずにできたかもしれない。幸い林道筋、自家の雑木林に造成した小さな林道。ほとんど人も車も通らない。今回林道の近くの場所、トラクター持ち出しで作業ができた。

 


人形送りと鹿島様

2019年03月31日 | 地域

2010年5月2日に「人形送り」を次のように書いた。「岩手県西和賀町左草地区の「左草人形送り」。 ネットで調べたら下記の記事であった。 「ショウキサマ」と呼んで、昭和28年頃まで続けられていたようですが、何らかの事情で中断されました。そして昭和62年から再開し、今年で24回目となりました。男女2体のわら人形には、病がソバに寄らないようにとして、ソバ粉で作った団子を持たせます。その他に穴の開いたお金を持たせ村はずれまで、送って道端の木に結わえて無病息災をお祈りします」。

通りすがり初めての対面。ミズナラの木高さ4㍍程にワラ人形二体。地域の伝統行事に何かしら新鮮な感動を覚えた。

岩手県西和賀町左草 2010.5.2

その後も西和賀町の左草地区を通る度にミズナラの木の人形を思い浮かべていた。今回鮮やかな晴天に久しぶりのドライブ。コースは西和賀、沢内から雫石、田沢湖を設定。西和賀の左草の近くを走っていて、再び「ワラ人形」に会いたくなった。国道106号線のバイパスで横手、盛岡線で沢内へ向かう。106号線からバイパスを通ると間もなく左側に左草地区の入り口が目につく。バイパスからせいぜい3キロほどで「ワラ人形」がある場所にたどり着く。

岩手県西和賀町左草 2019.3.20

今回3月26日のFBに次のように書いた。

「岩手県西和賀町左草地区では今年も2月11日に「人形送り」の行事が行われたという。 当日公民館で2体のワラ人形を作り、病が「ソバ」に寄らないようにとソバ粉の団子と、しっかり身に付けて守ってもらうようにと穴の開いたお金を持たせ、地区のはずれまで送って道端の木に結わえて無病息災を祈る行事。

約10年ぶり再び「ワラ人形」に会いに行ってきた。西和賀町では他の地区でも伝統の「人形送り」の行事が継続されているという。地区によって「ワラ人形」の形は違うようだ」。

今年の「人形送り」は2月11日に行われて約40日経過でイナワラが新しい。2010年の「ワラ人形」は5月の写真だったのでワラ人形がやや風化し色合いが出ていた。さらに約10年の月日で制作者も変わったのだろうか。2010年の時の「ワラ人形」になにかしら厳かさを覚えるのはなぜだろうか。

秋田県にある巨大ワラ人形。湯沢市岩崎地区のものは約4ⅿはある。2018年9月30日のブログ「追想 米を作る若者 と皆川嘉左エ門」を書いた。岩崎の緑町の「鹿島様」は骨組みと面以外は稲ワラで作られている。面の製作は彫刻家の皆川嘉左エ門だ。村々の疾病・災厄退散と五穀の実りを祈願した。さらに周辺地域独特の守護神像がある。

旧稲川町の飯田地区に4体の「鹿島様」(ニンギョ様)がある。他に御岳堂、岩城にもある。この地区の鹿島様は他とは違っている。1m程度の石碑にワラで作った兜のようなものを被り、腰にまわしのようにワラで作ったものを巻いている。小さいながらも脇差をして力強い。このような形は全国的にも珍しいといわれている。このタイプは飯田地区の他、御岳堂、岩城、皆瀬の若畑にもある。

飯田地区の一部では男神と女神が一緒に鎮座する双体道祖神のような形をとっています。又、道切りと呼ばれる注連縄を集落境に張り込み、その下で小さな人形道祖神が睨みを効かせて子孫繁栄、安産などの性神としても捉えている。春、秋にニンギョ様のワラの着せ替えをしている。今年は4月10日に着替しお祀りが行われる。

湯沢市三梨町飯田の鹿島様(ニンギョ様)   2019.3.28

文化十一年(1814)江戸時代後期の旅行家、「菅江真澄」がこの地を訪れた。菅江真澄全集 第五巻に「雪の出羽路」雄勝郡二 稲庭ノ郷 新町に鹿島様の記述がある。

「郷堺に藁をつかねて五尺に余る芻霊人(くさひとがた)を作りて、横刀を帯せ剣を持たせておしたてり、こは春秋これを造りたて、又をりとしてすりを加ふ事あり、こや疫神を避け逐ふの祭りと云えり、秋田路にもいと多かるもの也。又家々の門の柱にささやかのわら人形を作り左右の方にゆひ添へ、あるは串にさしても立り茅もて制り金銀鉄泥なんども以て人像を作りてはらうにひとしかるべし。此大なる境人形を草二玉といひ、また牛頭天王なんどいえり。此稲庭は草二王を造るよしといえり。」とある。

 現在稲庭地区でかつて人形を作ったことが語り継がれ、明治の廃仏毀釈当時にその歴史は絶えたともいわれれる。

左  菅江真澄全集 第六巻 雪の出羽路 平鹿郡11   右  湯沢市三ツ村の鹿島様

菅江真澄全集第六巻 「雪の出羽路」に横手市下樋口村に「芻霊」の図がある。稲庭新町の記述とほぼ同じように記されているが、秋田県内最大といわれる岩崎や雄勝地区の「鹿島様」について記述は見られない。 


陽が当たらなかった「春蘭」

2019年03月26日 | 地域の山野草

「陽の当たらない春蘭」は自家の雑木林から移植したものだ。この場所は集落のすぐ傍で毎年9月の第二日曜日に「麓ぼんぼら大会」の会場になっている。我が家の持地になった記録として「山分け証文」がある。持ち主麓村 掃部、武右衛門、立会川連村、兵左衛門 宝暦3年(1753)8月8日とある。

現在の字名は「東天王」になっているが古文書には「天王社外杦雑木立」川上治衛、黒沢治右衛門の「御先分」となっている。天王社は八坂神社のこと、神社の境内、社地以外の山林をいう。現在は天王山といい、ほとんどが杉林、一部にミズナラ、クリ等の雑木林になっている。地目、東天王は神社社地の東部に当たる。

当時から我が家の持地になっていて、文政5年(1822)に「極立杦」等300本植栽の「書上覚」を肝煎当てに出している。「極立杦」とあるのは普通の植樹と違って意味合いのある特別な杦の植樹と思われるが仔細はわからない。

 

ここの面積は山林として約3200㎡。300本の杦植樹の他はミズナラ、クリ、ブナ等の林だった。我が家は大正初期(1912)火災にあいこの場所から材木を切り出し住宅を新しくしたと伝えられている。現在の住宅の主要な柱にはクリ材が多く使われている。文政5年の「書上覚」から90年、「極立杦」の一部は現在の住宅に使われているものと思っている。

昭和48年この場所の雑木、主にミズナラ、クリ、ブナ等をすべて伐採した。一部は親類の住宅の土台や大黒柱に使われている。そして林の中央上部に樹齢100年以上の直径80㎝もある大きな杉の木があった。当時伐採し牛舎拡大に活用した。巨木だったが比較的伸びの少ない杉の木だった。用木としての価値は低く大正の始めの伐採時から免れたと思われる。現在ふり返って、あの杉の木は文政5年(1822)の「極立杦」と関係があったのかもしれないなどと思えてならない。

私は昭和52年この雑木林を採草地に造成した。雑木林の下方は畑と田圃。併せて65aの草地造成。国の助成事業を活用した。総事業費が320万円。面積の半分以上は傾斜が30度近かった。大型のブルトーザーはスリップしてバックで上る作業ができなかった。上部の切り下げは約5ⅿもあった。その結果隣地との間に2ⅿから5ⅿの段差ができた。昭和45年から始まった「減反政策」で、田んぼで米を作ることができない状態は年々減反面積が拡大されてきた。著名な農民運動家は私の草地造成に「水田転作」が有効だとから無駄(?)との助言らしきものがあった。当時私にはこの助言にどうしても同意できなかった。補助事業で採択され、補助残は近代化資金を活用。返済期間は確か3年据え置き18年償還だった。

 

 造成された草地の段差斜面は年月を経過するごとに少しづつ崩れた、斜面にも雑木が生えるようになってその崩れもいつの間にか収まった。大型トラクターで草地の草刈りは年2回、乾燥しタイトベールで梱包作業。当時は現在のようなロールベールの作業体系ではなかった。

草地の周囲は年数回草刈り作業して全体を管理していた。写真の側面に「春蘭」の大株があることに気づいていた。当時「春蘭」は格別珍しいものではなかった。私が「春蘭」に興味を持ったのは昭和60年前後、函館に住む叔父が来宅するたびに「春蘭」を欲しがり、自宅の山に案内してからだった。函館近くにはほとんどないといい、持ち帰った。その結果我が家の雑木林に「春蘭」は絶滅してしまった。絶滅と思っていた「春蘭」が5.6年前からみられるようになったきた。このことを「いとこ」に話したら一部函館から送られ里帰りの「春蘭」の株が育っている。

約40年続いた牛飼いから撤退し、草地の管理をやめてから15年も経過してしまうと「春蘭」の大株のことはすっかり忘れていた。写真のように雑木が段差を覆い春蘭が見えなくなって長い年月が経過した。「春蘭」と再会したのは4年前。段差にあるミズナラ、クリ等の雑木が大雪で枝が欠け、一部根元から倒れた。この雪折れ雑木を整理した時「春蘭」の大株に再会した。この株は直径25㎝程。「春蘭」は多く見てきたがこんなに大きい株は見たことがなかった。

 段差の場所に雑木が被さり、さらに笹竹が忍び寄っていた。この「春蘭」に晩秋の雑木の落葉期、春先の雑木の新葉時も笹竹が覆いかぶさり陽が当たらることがなかった。さらに大株の下部の1/3は斜面の土が崩れて根がむき出し状態。株の直径が25㎝もある大株に花芽がなかった。陽の当たらなかったこの「春蘭」は数年なのか数十年の間花が咲かなかったと思われる。

この状態に再会して「春蘭」の大株をこの場所から移植をすることにした。大株を自宅に持ち帰り、空の木桶に植えて置いた。「春蘭」異変に気付いたのは梅雨の時期。木の桶の底に穴を開けていなかったので根腐れが起きてきた。慌てて地植えにした。

地植2年ほどで回復。昨年鉢植えにし、この冬居間に飾っておいたら見事な花が咲いた。花の数20本ほどの見事な「春蘭」の大株。根腐れで当初の大きさから大分小さくなった。この「春蘭」春になったらまた地植えし、より自然な状態に返そうと思っている。 

宝暦3年から我が家の持地になった場所。草地造成前は直径60㎝のブナ、ミズナラ、クリ等の雑木林。ヤマツバキやササダケが密生。3200㎡ほどの面積を隈なく回ることは少なかった。それほど山野草に関心もなかったし「春蘭」の大株が生えたいたことも知らないできた。どれほどの時間が経過して、直径が25㎝もある「春蘭」になったのか想像できない。

生えていた場所が自宅のすぐ近く、宝暦3年(1754)から我が家の持地になった歴史ある山林。草地造成で山の形を大きく変えてから40数年になる。もしかしたら草地造成当時から生えていたのではないかと思っている。山野草に興味を持ち、雄勝野草の会に入って10数年。各地の散策をくり返してきたがこんな大株の「春蘭」にあったことはまだない。


パソコンの解体

2019年02月18日 | 地域

1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJM-10を発表した。これはワープロ専用機で630万円の価格報道に驚いたことを覚えている。当時和製タイプライターが出ていた時代で超価格のワープロ専用機のニュースは報道で知った。1980年代後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業等への導入が始りだした。

そのような背景の中で1989年(平成元年)私はやっとのことでワープロを手に入れた。富士通のデスクトップで当時の新しい型だった。21万ほどだで当時の自分にとっては高価な買い物だった。富士通にしたのは変換が親指も使いローマ字変換な苦手な自分にピッタリと思ったように思う。パソコンはまだまだ高価でパソコンのパの字も話題に上ることはなかった。電子計算機の名が一般的だった。

ワープロのLotus 1-2-3は、MS-DOS用表計算ソフトで、当時減反政策が年々強化され補助金等複雑な会計処理、「転作組合」の経理はずいぶん助かった。さらに「ハガキ通信」を始めた。時々の感じたニュース等ハガキに8ポイントの文字で最大見出しの他1000~1200文字が書けた。ワープロから汎用性が拡大されるパソコンの動静は調べていた。当時は100万円前後していた。ワープロ同様、20万以下になったら導入を考えていた。

ワープロ導入前に某社がIBMのパソコンを750万で輸入等のニュースは知っていた。近い将来「パソコンの価格は20万以下」になる等と話しても、当時秋葉原の電気店に勤めオーディオ担当の弟に「ありえない」と反論された。しかし、数年経過して弟はパソコン等の取り扱いを進言、重い腰の上司は取り扱いにGOサインが出たと電話してきた。1995年頃にパソコン教室が生まれ官公庁に導入が進んできた。スキャナーにも手を広げ、カラーではなく白黒だったが「ハガキ通信」も充実してきたように思えた。                    

そして今年はワープロからパソコン歴30年になる。ワープロもパソコンもすべてマニアル任せ、それでも操作が分からないと本屋に走り関連本の購入に明け暮れた。数年前パソコン関連本が100冊近いことを知って驚いた。現在のようにネット検索ができなかった。導入初期ワープロ、パソコンに詳しいのは業者等の一部、当地方では官公庁を始め一般の企業等にも導入された90年代の中頃からだった。

30年間でワープロ1台、デスクトップ計4台、ノートが6台になった。現在までデスクトップ3台は機能の低下、ノートパソコン2台は健在だが2台は液晶画面が壊れ2台は機能低下でほとんど使い物にならない。当時1984年登場のMac OSの評判が高かったが1992年Windows3.1になって急速に普及したようだ。その後Windows95 2001年にWindowsXP、2009年になってWindows7、2015年にWindows10になった。Windows95以下はもはや使い物にならない。

このほど2011年導入のデスクトップ液晶一体型パソコンの液晶が真っ黒になりパニックとなってしまた。ノートパソコンはHDMIで他の液晶画面で観られたが液晶一体画面はできなかった。ノートとデスクトップ併用で過ごしてきた日常から脱しきれず、デスクトップパソコンを買い求めた。かつてはデスクトップは10万以下で求められていたが知らぬ間に価格が高騰していた。

使いなれたデスクトップから最新の機器、慣れていたはずの機器の初期設定、セットアップに苦労した。業者に委託すると2万円以上かかるらしい。パソコン価格プラスセットアップ等の料金となれば相応の高価格。パソコン離れが急速に進んでいる一因かもしれない。

セットアップ、プリンター接続、ネット等が終わると旧機器のデータが必要だった。複数のパソコンと共有していたが全てではなかった。そこで使い物ならない壊れた液晶一体型パソコンからハードデスク取り出しをすることにした。

ノートと違って液晶一体型の解体は面倒だった。ノウハウがあるわけでもなく小さなプラスドライバー等で作業、大胆にバラし作業をこなし慎重にハードデスクを取り出した。データを移行のため近くの電気店にケーブルを求めにいったが、需要がほとんどないので取り扱っていないという。結局通販で1300円ほどで求めた。

宅急便で届くのを待ち配達されてきたコードを取り出した、ハードデスクと新しいデスクトップパソコンにつないだら即反応した。

今回壊れたデスクトップからハードデスクを取り出し、新しいパソコンへ移行などとは考えたこともなかったが実行してみたら比較的簡単にできた。旧機器からすべてのデータが必要なわけではない。必要最低限のデータは新機器に移行できた。そして取り出したハードデスクは外付けの機器として利用できることがわかった。 

2011年から愛用していたデスクトップ。1月新年早々からパニック。ノートパソコンは健在だったが、日常併用していたデスクトップパソコンが使えないことになると生活リズムに少なからず悪影響があった。「パソコンと解体」などと少し大げさな題名で振り返ってみた。30年にもなると悪戦苦闘してきた機種に思い出が重なる。

 


江戸の人々と外国人

2018年12月31日 | 村の歴史

江戸時代の人々は外国人をどう見ていたのだろう。そのように思いめぐらしたのは前回のブログ「地震、大火、北の黒船」を書いた時からだった。今から約200年前、文化4年(1807)大館村の肝煎高橋喜右ヱ門の覚書、「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候」にあった。

「大辞林 第三版」に赤人(あかひと) 「江戸後期、蝦夷(えぞ)の択捉(えとろふ)・得撫(うるつぷ)などに来航したロシア人を、日本人が呼んだ呼称。赤蝦夷(あかえぞ)。 赤ら顔、あるいは赤い服を着ていたからという」と書かれている。肝煎高橋喜右ヱ門は松前国に赤人が押し寄せ、秋田藩の要請に「横手湯沢のお侍久保田まで具足、武具、馬疋杯仰せつけられ百姓まで難儀迷惑至極」とあった。帝国ロシアの松前藩侵入に大舘村の侍、百姓が大きな犠牲を払ったことがしるされている。このことからしても文化4年北の黒船が松前国、エトロフ島に上陸当時で、赤人(あかひと)の呼称は定着していたことになる。 下田にペリー黒船来航(嘉永6年(1853)の45年前の出来事。

赤人(あかひと)については当時どのように見られていたかが気になっていた。約20年ほど前土蔵からでてきた「外国人の図譜」があったことを思い出した。あの書に赤人につながるものがないのかと気づいた。土蔵探索でやっとのことで発見、調べてもその書に「どじん赤人」と思われるものは描かれてはいなかった。

和紙に描かれている図譜は36国人。ネット検索で以下のものの写本であることを知った。「四十二国人物図説」は日本最初の人種図譜。長崎の人西川如見(1648-1724)が著し、刊行した世界民族図誌。享保5 (1720) 年刊。ヨーロッパ人のつくった原典を長崎の画家が写したものによったといわれている。 42の人物図に簡単な説明を付したもので,後世に大きな影響を与え,幕末にいたるまでこの種の人種図譜の基本とされていた。本書は、江戸期の人々が海外認識を深める上で大いに利用されたらしく写本でも流布している。天保 14 (1843) 年『萬国人物図』として再刊されている。 

ブリタニカ国際百科事典に 「42国の男女人物風俗を描いた絵図に、各国の地勢や風俗等に関する簡略な解説を付した書。漢字かな交じり。所収の国は、大明、大清、韃靼、朝鮮、兀良哈(おらんかい)、琉球、東京(とんきん)、答加沙谷(たかさご)、呂宋(ろそん・ろすん)、刺答蘭(らたらん)、呱哇(じやわ)、蘇門答刺(すまんだら・そもんだら)、暹羅(しやむらう)、羅烏(らう)、莫臥爾(もうる)、百児斉亞(はるしや)、亞爾黙尼亞(あるめにや)、亞媽港(あまかう・あまかん)、度爾格(とるこ)、馬加撒爾(まかざる)、槃朶(はんだ)、亞費利加(あびりか)、加払里(かふり)、為匿亞(ぎねいや)、比里太尼亞(ひりたにや)、莫斯哥米亞(むすこふびいや)、工答里亞(ごんたうりや)、太泥亞(たにや)、翁加里亞(おんかりや)、波羅尼亞(ぼろにや)、意太里亞(いたりや)、斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、払郎察(ふらんす)、阿蘭陀(おらんだ)、諳厄利亞(いんぎりや・ゑんげれす)、撒児木(ざるも)、阿勒恋(あろれん)、加拿林(かなりん)、亞瓦的革(あがれか)、伯刺西爾(はらじいる)、小人、長人」。 (ブリタニカ国際百科事典 小項目事典 引用)

わが家から見つかった「人物図譜」は42国ではなく36国の男女人物風俗。B5版より少し小さい、和紙で三か所紙よりで閉じている。以下描かれている図譜、コピーと説明文の一部。

韃靼(だったん)女

 

「韃靼は本名韃而靼といふ今は而の字を略す其の国東西黒白の二種有て属類甚多く国界四十八道に相分れて大国也 古の胡国といひ或は蒙古と云も此国の別號なり 南界は唐土に交接し北方は冰海に近く大寒地にて四季昼夜の長短大に他方と同しからさるの所々多し最富饒の国也といふ国人弓馬を好み勇強の風俗なり北極地を出る事四十三度より六十四度に至て南北に短く東西に長し」とある。

日本は1972年にモンゴル(当時のモンゴル人民共和国)と国交樹立以来、公文書においてモンゴルに対して「蒙古」あるいは「蒙」を使用しない。                                                                   世界大百科事典 第2版の解説は次のように記されている。                                        だったん「韃靼 」 「本来はモンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称。タタール部は11~12世紀においてモンゴリアでは最も有力な集団の一つであり,またモンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため宋人はタタール部を韃靼と呼んだが,それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。12世紀末~13世紀初め,モンゴル部にチンギス・ハーンが出現し,モンゴル帝国が出現するに及んでタタール部の力は衰えた」。

琉球(りゅうきゅう)人

   

「琉球は南海中の島国なり古は龍宮とふ中古流求といひ末代に琉球とす暖地なり、北極地をいつる事十五六度」

琉球が古に「龍宮、流求」とあったことを知る。沖縄では各地に龍宮神がまつわれている。沖縄の海はサンゴ礁できた浅瀬の先に、急に現れる深い海の奥底に「リューグー」という世界があると信じられてきたとする。龍宮神の拝所では航海の安全や豊漁を祈願、農作物の害虫や害獣を払ったりする行事が続いてきた。「古の龍宮」はそこから呼ばれたのだろうか。又「琉求」は中国の史書「隋書」(636)東夷伝の中に「流求」と称する国の記事からとされる。(世界百科事典マイペディア 引用)

東京(とんきん)人

「東京は古より唐土に属する国にて中華の文字を用ゆ詞は尤別なり古唐土より交趾といひしは比国なり末代に至て両国にわかれ東邊を東京とひ南邊を廣南といへり今は廣南のみを交趾と後號す風俗相同しき故に別に交趾を圖さすいつれも煖国也 北極地を出る事凡十五六度」

唐土は昔日本から中国を指して読んだ語。トンキンは、紅河流域のベトナム北部を指す呼称にして、この地域の中心都市ハノイ(河内)の旧称である。「フリー百科事典 ウィキペディア」 引用

東京人は「北の京」と書いてぺきんと言うように「東の京」でとんきんと呼び、日本の東京ではない。

斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、拂郎察(ふらんす)

「斎爾瑪尼亞は阿蘭陀国に並たる国にて寒国の大国なり人物風俗阿蘭陀に相類す」

「拂郎察は阿蘭陀国に近し武勇軍法に長して近国是に併られ属国となるもの多し欧羅巴に於いて大国にて富饒の国也北極地を出る事五十餘度」

斎爾瑪尼亞はドイツ、オランダに並び寒国で大国、人物風俗はオランダに似ている。

拂郎察は(フランス)は武勇軍法に長して属国なるもの多しヨーロッパの大国とある。斎爾瑪尼亞、拂郎察を阿蘭陀を中心にして書かれている。

享保5年(1720)年長崎の「西川如見」 日本最初の人種図譜と云われ天保14年(1843)「萬国人物図」として再刊。写本もだされ江戸期に海外認識を深めるたために大いに利用されたという。国立国会図書館デジタルコレクションにある「四十二国人物図説」(出版年月日明31.11)とほとんど同じものだった。写本が流布されたとあったからその類のものと分かる。見つかった我が家の写本はいつの時代のものかはわからない。描かれている36国人図で男女が別のページまたは同じ図に描かれているのが16、子供と3人の図が3になっている。和紙にある人物絵は三十六国人で「四十二国人物図説」にある大明、大清、亞瓦的革、伯刺西爾、小人、長人が記されていない。 「四十二国人物図説」には大人3人図譜があるがわが家の図譜に3人図は入っていない。いずれ「四十二国人物図説」の写本に違いはないとみられるが、和紙の閉じ方等から見ても普及版に違いない。約300年前の図譜の写本、明治31年再刊もあることから見れば約120年ほど前のものだろうか。わが家の過去に、「誰がいつ頃」手に入れたのかを知りたいが今のところその手がかりはつかめない。 


お稲荷さんとキツネの闊歩

2018年12月27日 | 村の歴史

稲荷神社の稲荷は「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼ばれている。稲荷神社は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業全体の神として商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰されている。

京都市伏見にある伏見稲荷大社が日本各所にある稲荷神社の総本宮。伏見稲荷大社では、キツネは稲荷神の神使とされる。朱の鳥居と神使の白いキツネがシンボルとなっている。

伏見稲荷神社の白いキツネ像 2018.10.17

平成2年秋田県が悠紀の国に選ばれた。秋田県神社庁は大嘗祭と同趣旨の新嘗祭に新穀を伊勢神宮、県内神社に奉納するために「新嘗祭献穀田」を設け、平成3年より県内13支部持ちまわりで実施している。平成最後の献穀田は湯沢市川連町が選定された。その主要な作業を川連集落と稲川有機米研究会・JAこまちが担当した。5月17日に田植祭、9月22日に抜穂祭。40名が収穫した新米をもって10月15日伊勢神宮で、全国から奉納された初穂を載せたお木曳車を神宮外宮へと曳き入れに参加した。午後から神宮内宮への正式参拝で献穀田事業で収穫したお米を奉納した。

伊勢神宮初穂曳終了後、稲の神様と慕われる京都伏見稲荷神社を正式参拝、神楽殿で御神楽を奉納してきた。稲荷神社は全国に32000社、日本全国の神社の総数は8万社と云われていることから日本の神社の3分の1が稲荷神社という説がある。

旧稲川町には15社の稲荷神社がある。他に内神様として屋敷内に祀われているお堂は多数ある。麓集落の稲荷神社は古舘山の旧川連城本丸と集落中心の通称森コに建つ稲荷神社がある。 二つの稲荷明神様は姉妹と言われている。ある記録に天正二年五月一三日造立の黒森神社稲荷大明神がある。現在「柴田〇」宅が管理している黒森の御堂と関係していると思われるが確認できていない。

歴史散歩 城下町・川連(6) 稲荷神社部分 稲川町広報 昭和54年3月10日 

稲川広報によれば、森コの稲荷神社は京都伏見稲荷神社から寛政九年(1797)に正式に分社として認められたとされている。管理している「長里〇〇」宅に「授与之状」が保存されている。その状には「正四位摂津守荷川宿弥信邦と署名の下に正官之印が押されている。稲荷明神ご本尊は明治26年旧9月1日祠堂権人講義、稲場高車の司祭により川連の四十二名が願主となって奉納された高さ1尺6寸の極彩色の女神像。稲荷神社の祭神は「宇賀之御魂命」五穀を司る農業生産の神様」とある。

「古事記」では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、「日本書紀」では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されている。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないとされ、古くから女神とされてきた。 (引用)

キツネの闊歩

2014年3月15日ブログに「村の獣たち」を書いた。この記事は大雪の年、集落のある家の玄関にカモシカが現れたこと、アナグマが自宅の棲みついて日中堂々と集落の道路を闊歩する姿を中心に書いた。

今回は京都伏見稲荷神社参拝後、自宅を中心に出歩くキツネを題材とした。冬にスノーシュー散策でも毎年のようにキツネの足跡を確認していた。乳牛を飼っていた当時、草地の草刈乾燥作業をした後に数匹の子キツネが駆け回る姿は時々目にしていた。今回のように自宅周辺では初めてのことだ。この夏カモシカも日中自宅前を横切って隣地の屋敷に消えた。このカモシカも今回のキツネもどうしたことか痩せている。野生のキツネは肉食に近い雑食性と言われている。爬虫類や昆虫類が居なくなった冬には、ネズミが主な食べ物らしい。闊歩するキツネをなかなかカメラで撮る事が出来ないでいた。闊歩するキツネを見つけてから一週間もしてやっと撮えることができた。

約13ⅿ離れたカメラに反応した 平成30年12月4日

11月の始め野良猫が子ネコをつれて車庫の二階に棲みついた。子猫3匹は日中走りまわっていた。キツネが家の周りや、溜池の周りを出歩いていたのは11月の末頃からだった。キツネが出歩くようになったら車庫の二階の子ネコがいなくなった。今のところ危険を感じて親ネコと一緒に移動したのか、それともキツネにやられたのかはわからない。シャッターの隙間からキツネが出入りしていることは目撃している。驚いたことにキツネは木に登ると言われるから車庫の二階へアルミ梯子を上ることはことは簡単なことかもしれない。雪が降って毎朝除雪時にキツネの足跡は見れれる。

ただ、この痩せたように見えるキツネは痛々しい。一節には夏毛と冬毛との毛変わりの時期でやせて見えるらしい。健康状態は殆ど変らないとされる。11月から12月のキツネなら冬毛に変わっているとの思いがあるがどうだろうか。それとも今年の晩秋のように比較的暑い日が続いたので冬毛に変わるのが遅れていたのだろうか。

食べ物を見つけたらしい 平成30年12月4日

家の周りを歩くキツネは伏見稲荷神社参拝後だった。何か不思議なつながりにも思えた。果物をキツネは食べないとされるが今回車庫の二階に乾していた「干し柿」が無くなり食べかすが散らばっていた。空腹に耐えかねて食したとしか思えない。野良猫も姿を消してから一ヶ月近くになる。除雪前の猫の足跡もいつもの年より極端に少ない。時々キツネは道路から自宅に入り床下へ向う足跡がみえる。何時もの年より今年は野生動物が頻繁に集落の住宅地内を歩きまわっている。人の住む地内がより食べ物を得やすいに違いない。内沢の山神社の側には熊の出没の監視カメラが7月から11月末まで設置されたが何事もなかったらしい。PB030978.JPG


地震、大火、北の黒船と大館村

2018年12月21日 | 村の歴史

「象潟地震、江戸の大火、北の黒船と大館村」は、寛政拾年(1798)二月から天保十一年(1840)二月までの大館村麓、肝煎喜右ヱ門の記録(覚書)。昭和42年3月発行 「稲川町史 史料集 第三集 小松久編」で紹介された。寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵とある。その覚書から象潟地震、江戸の大火、松前藩択捉島ヘロシア帝国侵入を追ってみた。

稲川町史 史料集 第三集 小松久編 「寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵」

象潟地震について

「文化元年甲子年より中だんひるなり、同元年子年六月四日よる4ツ半頃に大地震なり、五日には暮六つには地震、六日には朝六つには地震。三日之間〇〇やめずにゆるなり、近国大きに家蔵揺り崩れ、庄内三百と坂田(酒田)家蔵大きにひきつぶれ、志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ、かた(潟)も島もゆれ候、近国他国大きそふとう(相当)なり、坂田志を越に而(しかも)人を死事数不知なり、同六月廿七日朝六つになり一天かけくもりらい(雷)なり大雨ふり、大水出るなり、雨の間には日之暑気なり同七月廿六日大風に而大きに萬物をからす、同年八月十五日御榊杉と申て太さ九ひろ三尺誠にまれなる大木なり、同十五日七ッ時より焼け始る十六日五ツ時焼け失なり」。

象潟地震は、江戸時代後期、文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震である。松尾芭蕉らにより「東の松島 西の象潟」と評され、「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容。松尾芭蕉が象潟を訪れたのは象潟地震の115年前の元禄二年六月。

「由利郡、飽海郡、田川郡で特に被害が著しく、本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、本荘藩、庄内藩領内周辺では潰家5500軒余(内本荘領1770軒、庄内領2826軒)、死者366人(内本荘領161人、庄内領150人)の被害となり、幕府は本荘藩主六郷政速に金2千両を貸与した(『文化日記』)。象潟(現・にかほ市象潟地区)、遊佐(現・遊佐町)、酒田などでは地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が70%に達した」。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

覚書に「志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ」とある。調べてみると塩越は象潟の塩越村、潰屋389棟、死者69名と非常に大きな被害を受けた。羽黒山では灯籠が倒れ、「宝暦現来集」によれば蚶満寺は大寺であるが1丈余も震込んで砂に埋ったとある。

象潟地震前の塩越湊 蚶満寺(中央左) 象潟郷土資料館 ジオラマ  2018.12.21

 八月十五日焼けた御榊杉は八幡神社だろうか。九ひろ三尺の太さは巨大な大杉。ひとひろ 両手を伸ばし指先から指先までの長さ。通常は1尋=6尺。明治時代に1尺=(10/33)メートルとされたので1尋は約1.818メートルということになるので、御榊杉は胴回りが17メートル強の太さとなる。落雷があったのかその他の原因があったのか覚書には記されてはいない。

江戸の大火

文化三年(1806)の江戸の大火が記されている。文化の大火は江戸三大大火に数えられ芝で出火し浅草方面までを焼きつくしたと言われている。 

「文化三年 ひのえ寅年正月三日星をちるひなり、同三月江戸大きニ焼けるなり諸大名方之屋敷無残四里四方焼ける、人死壱萬三千人御仰被成候、 仍而 尾形様は六月御登被成候 同歳大館村山王様御堂建立致候、同五月八幡様うがい石惣に而寄進」

「人死壱萬三千人御仰被成候」と記されているが、調べてみると死者は1200人、焼失家屋12万6000戸と言われている。江戸に八カ所御救小屋を建て炊き出しを始め、約11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を奉行所が与えた。尾形様は6月に江戸に登ったとある。殿様の御登に相応の負担が課せられたものとおもわれる。大舘に山王様御堂建立、5月に八幡神社にうがい石寄進、手洗石のことだろうか。 

松前国(北海道)に北の黒船

「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候とて、秋田、仙台隣国大名衆外に会津様対陣大しやうと志る。御国横手湯沢御侍久保田迄ニ而も御話は横手杯之御侍具足、武具求候迄百姓迄大きニ難儀致候、其時百姓馬疋杯仰せ付られ迷惑至極致候。同年八月三日八幡宮末社まで焼け疾申候。就ハ四日より一五日限ニ建立致候、宝物迄多く焼申候、隣郷奉賀受」

文化四年の記述。1806年ロシア軍艦は9ヶ月間択捉島、樺太の各地を襲撃し日本人を連行し食料や水を強奪の海賊行為を行った。その残忍性を発揮拉致した日本人を陰惨な方法で虐殺して海に遺棄した。野蛮なロシア人を覚書には「どじん赤人」と記されている。松前藩が幕府へ北方四島を自藩領として申告したのは正保元年(1644)「正保御国絵図」にクナシリ、エトロフなどの島名を明記した。

「文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。1807年(文化4年)、ロシアの武装船が択捉島に上陸し、幕府の建物を焼き払い、物品を奪い、利尻島では幕府の船に火を放つ事件を起こした。急を聞いた幕府は久保田、仙台、津軽、南部の奥羽4藩に蝦夷地警備を命じました。久保田藩には5月24日、松前函館奉行所から「東蝦夷地の内エトロフ島へ異国の大船二艘来候」(以上原文のまま)国後島へも寄り着き、争乱を企てる形勢があるので加勢をお願いするとの急報が入った」。

現在、秋田県立図書館所蔵「松前御加勢日記」などによると、久保田藩は即時出陣の用意を整え、翌5月25日に、第一陣として、陣場奉行金易右衛門ほか369人が久保田を出発し、檜山、大館、碇ケ関を経て、津軽三廐から海を渡り6月10日函館に入った。  独立行政法人 北方領土問題対策協会ホームページ引用

江戸幕府はロシア帝国と戦争覚悟で、武力を用いて北方領土を死守した。覚書には「横手湯沢の御侍久保田まで具足(甲冑や鎧・兜の別称)武具、馬疋杯仰せ付られ百姓まで難儀迷惑至極」とある。領土を守るためにこの地からも応分の負担したことが記されている。

覚書に同年八月八幡宮末社の火災、宝物が多く焼失したことが記されている。

この覚書には文化、文政、天保の記述が続く。特に天保二年から十一年までの異常天候、飢饉について大館村の状況が詳細に記録されている。次回以降紹介したい。現在と違って約二百年前情報機関は発達していなかった時代。各藩の末端まで情報が届き、村の肝煎を中心に対応をさせられた。特に文化四年の露人襲来へ難儀、迷惑すごくいたし候とあることは痛々しい。