新河鹿沢通信   

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第42回雄勝野草の会山野草写真展

2018年11月19日 | 地域の山野草

今年の湯沢市雄勝野草の会主催、第42回山野草写真展は11月13日から22日まで湯沢市生涯学習センターロビーで開かれています。雄勝野草の会の会員は40名。今年は自然観察の中で7名の会員が撮った66点の写真が展示されます。私の写真展参加は第39回からで4回目になります。

第42回山野草写真展に以下の7点、クルマユリ(川連町坪漆)、オオミスミソウ(美郷町真昼岳)、スカシユリ(鶴岡市白山島)、フジバカマ(京都府龍安寺)、ミズバショウとエゾリュウキンカ(奥小安三本杉湿原)、タニワタリノキ(川連町麓)、ヤブカンゾウ(川連町麓)の写真を出展することにしました。以下はその詳細です。                              

クルマユリ  (川連町外坪漆)

外坪漆の杉林の林道に咲いていた。この林道は国見岳の山麓で登っていくとかつて三梨城から川連城への古道があった場所に通じていた。現在古道は荒れて道の形はわからなくなっている。地名の外坪漆の語源はわからない。珍しい地名と思える。わが家でこの場所に1㏊ほどの杉林を所有している。昭和30年代に植林をした杉林を平成4年、17年に雄勝地方森林組合に委託して間伐作業を行った。杉林に陽が当たるようになって間伐2.3年後から山野草が多く見られるようになった。ヤマユリ、ホウチャクソウ、マムシグサ等の他にクルマユリが4.5年前からみられるようになってきた。写真のクルマユリには花被片に斑点がないフナシクルマユリ(斑無車百合)ではと思われる。斑点のあるクルマユリもある。7月八幡平を散策したが圧倒的に斑点のあるクルマユリでフナシクルマユリ(斑無)に出会うことはなかった。 外坪漆には両方のクルマユリがある。このフナシクルマユリは木立の陽の当たる場所に一株だけ咲いていた。周りが杉林で少し暗さの中でひときわ輝いて見えた。

オオミスミソウ (真昼岳)

4月初め真昼岳山麓の沢は、残雪が多くクルマで林道に入ることはできなかった。日当たりの南斜面にオオミスミソウが咲きだしたことを「渓風小舎」さんから聞いていた。オオミスミソウは園芸店では雪割草の名前で店頭に並んでいる、自然のものは見たことがなかった。「渓風小舎」さんへムリに頼み込んでクルマで出かけた。雪の林道を小一時間も歩いて咲いている場所へ辿りついた。その場所は比較的陽のあたる急斜面。小枝を探り寄せながら観察。ピンク、シロ花等無数に咲き乱れていた。少し早いのかムラサキ花はなかった。二か所を案内してもらった。当日は好天で早春のさわやかな一日となった。ブログ2018年4月18日に「オオミスミソウ(雪割草)」を書いている。

 

 スカシユリ (鶴岡市 白山島)

スカシユリといえば5年ほど前、初めて行った八戸市種差海岸のスカシユリは見事なものだった。大小の岩礁帯に散りばめたオレンジの花に圧倒された。鶴岡市の白山島のスカシユリは種差海岸と比べれは控えめだった。白山島は周囲436ⅿ、高さが72ⅿの 小さな島。砂浜から島まで177ⅿ赤い橋がかかっている。中央の白山神社は急傾斜の石段は263段の上に鎮座している。白山島へは今回で3回目の訪問となるが白山神社まで登ったことはない。小さな島は一周できる。ナミキソウ、センニンソウ、ハマボッス等があった。島を反時計周りで出発点近くでスカシユリが揃って咲いていた。岩屏風をバックに撮ってきた。 

フジバカマ (京都 龍安寺)

今年当地区は、秋田県で平成30年度「新嘗祭御献穀田」に指定された。5月17日の御田植祭、9月22日の抜穂祭を終え新米「あきたこまち」をもって10月15日伊勢神宮の初穂曳に参加してきた。帰途京都の龍安寺に足を延ばした。このフジバカマは方丈の入り口で撮った。フジバカマはキク科ヒヨドリバナ属、秋の七草のひとつで万葉集や源氏物語にも描かれている古くからの花。園芸種のフジバカマはサワヒヨドリとの雑種といわれている。中国原産といわれ京都府でも絶滅寸前種に指定されている。ブログ2014年10月15日「フジバカマと故高橋克衛公民館長」を書いている。30歳の時国交回復直後の訪問の機会があった。当時町長さんが送別会を開いてくれた。その時高橋公民館長は中国を訪問したら必ず「フジバカマを見て報告してくれ」と話した。当時11月の訪中で、広州から天津まで約一月間の訪問、熱烈歓迎の中でフジバカマについて記憶に出てこなかった。当時山野草に精通していた「鶴田知也」氏と交流が続いていたがフジバカマについて語ってこなかったことが悔やまれる。

忘れかけていたフジバカマを思い出したのは約10年前、「雄勝野草の会」入会後ホームセンターで苗を見つけた時からある。早速自家に植えた。園芸店で売られているものは改良種で、紫紅色や白色などがあるが本来のフジバカマは淡紫紅色で、花としては格別なものとは思えない。フジバカマは別名香草ともいわれ生乾きの茎葉にクマリンの香り(桜餅の葉の香り)があり、中国では芳香剤として利用されてきた。山上憶良は『万葉集』でフジバカマを秋の野の7種の花の一つにあげている。当時すでに野に逸出していたことがわかる。名は藤袴の意で筒状の花を袴に見立て、藤色とあわせてつけられたという。鶴田知也「わが植物画帖」第一集 市民新聞社刊 昭和49年7月に面白い記述がある。「ふじばかま 秋の七種(くさ)の員数をそろえる必要上、その末席に抜擢されたのがふじばかまではなかろうか?それほどつまらぬ花というのではない。とくにこれがなくてはならぬ理由が薄弱だからである。それにしても、酸度の強い火山灰地だろうと意にかいせぬその猛々しさは、あっぱれだと思う。」とある。京都御所や金閣寺でも見受けられたが龍安寺のフジバカマはとくに印象深いものとなった。

ミズバショウとエゾノリュウキンカ (奥小安 三本杉湿地)

冬季間通行止めの国道398号線は5月の始めになると開通となる。この道を通ると湯沢から仙台迄約3時間で結ばれる。宮城県との県境近くの奥小安の三本杉周辺は雪に覆われているが春の日差しで湿地周辺から雪が徐々に消えていく。かつて仙台領の文字、温湯に通じる峠超えの要所。雪消えになると三本杉側の湿地と近くの田代沼にミズバショウが咲く。そして黄色の花、エゾノリュウキンカも同時に咲き出す。白いミズバショウと黄色のエゾノリュウキンカのコラボはすばらしい。エゾノリュウキンカは食用で、おひたしなどで食べられる。葉の形がふきに似るいるので「ヤチブキ」とも呼ばれる。似た花にエンコウソウがある。山形県の鮭川村米湿原に群落がある。

タニワタリノキ (川連町 麓)

タニワタリノキは数年前ホームセンターから求めてきていた。別名、人工衛星の木等いわれ玉状の花冠は独得。九州南部は中国やベトナムの分布され、谷間に好んで生えることから名がついたという。球形の花の先端につ突きだしている雌しべ。少々厄介なのは株が猛烈に増えるので毎年の切り詰めている。葉がアザミに似た球形の花、色は青から瑠璃色に近いヒゴタイが庭の一角にある。

ヤブカンゾウ (川連町 麓)

自宅の屋敷に古くから山からの水路、堰が住宅を貫通している。ヤブカンゾウはこの堰沿いに古くから居座っている。カンゾウ(萱草)の意味はこの美しい花を見ていると物も忘れると言う故事からの漢名で、忘れ草とも言うニッコウキスゲの仲間とされる。日本に中国から渡来、ヤブカンゾウは、三倍体のため結実しないとされ根茎(匍匐茎)の移植でふえる。一日花ともいわれているが翌日まで咲いているものもある。わが家のヤブカンゾウは堰沿いの石組み間から生えているのが一番花も大きく豪華に見える。


2018 紅葉の栗駒山

2018年10月12日 | 地域

栗駒山は、紅葉狩りの名所として、全国的にに知られ紅葉が見事な奥羽山脈の中でも、とりわけ栗駒山が美しく日本一とも言われる、紅葉、黄葉、褐葉が同時に進み、緑葉との絶妙な組み合わせと配色にある。栗駒山の高度と緯度、気象条件は、多様な植生を同時に紅葉(紅葉、黄葉、褐葉)させ、昼夜の寒暖差が大きいことなど美しい紅葉になるための条件を満たしている。

稲刈りが終わった9月28日紅葉盛りの栗駒登山をした。この日の午前9時には300台駐車可能の須川温泉前東北はもとより関東ナンバーの自動車はほぼ満車状態。名残が原周辺は始まったばかり頂上はガスがかかって見えない。

昭和湖で休憩。大勢の登山客がいた。

昭和湖からの登り狭い階段状の登山道は登りと下りの人でごった返しの状況。前日の雨で階段状の登山道は水が音を立てて流れる。低木帯で見通しは悪くひたすら登る。紅葉目当ての登山者はごった返しの状況。10時過ぎになると下山客も多く狭い登山道は渋滞状況。高度を上げていくと数か所に視界が開ける。地獄谷から見えなかった栗駒山頂がみられた。波打つように見える山肌の見事な色彩が見事だった。

天狗平には多くの登山客が小休止していた。秣岳(天馬尾根)コースへ向かう人たちもいた。湯浜コースに人影はなかった。天狗平から頂上向かう風景は一変する。宮城県側は南斜面で紅葉の色合いは鮮やかに見えた。

天狗岩から天馬尾根方向を望む。少しガスがかかって来た。渋滞状況下で撮る一枚もなかなか苦労してしまう。立ち止ると歩行の流れが変わる。登山者と下山者がつながっている。

宮城県側の錦秋。

 イワカガミダイラから登ってきた人たちだろうか。ジット同じ視線で眺めている集団があった。見事な風景に言葉はいらない。

 

頂上に団体等100人近い。昼時とあって三々五々食事。12時半頃一転ガスに覆われ強い雨に襲われた。一瞬霰と間違えるほどの雨だった。頂上の登山者は一斉に下山の途についた。狭い登山道は雨の中登ってくる人もいてごった返しの状態。昭和湖では福島県郡山から朝5時出発、栗駒登山を企画した団体はこの雨で引き返すという。残念、残念と言いながらミーテングしていた。


追想 「米を作る若者」と 皆川嘉左ヱ門

2018年09月30日 | 足跡

2018年4月4日の朝、秋田魁新報電子版で皆川嘉左ヱ門の逝去を知った。秋田魁新報は4月7日付「北斗星」で次のように追悼した。

「横手市十文字町の国道342号を東成瀬村方向に進むと、右側の休耕田に彫刻作品が並ぶ一角がある。今月3日、76歳で亡くなった皆川嘉左ヱ門さんが23年前に開設した「減反画廊」だ▼皆川さん自身も農家だった。立ち尽くす老農夫、吹雪の朝市に店を出すおばあさん、田植えの女性といったテーマの作品で知られる。減反に翻弄(ほんろう)される農民像を繰り返し彫った▼平成の初め、40代後半の皆川さんは東京・銀座のど真ん中で不動明王を彫るパフォーマンスを繰り広げた。羽後町の農家・高橋良蔵さん(故人)と共に、コメ市場開放反対を大都市の消費者に訴えたのだ▼4年前、皆川さんが横手市で個展を開いた折に再会し、そんな昔の話をした。皆川さんは地元寺院の仁王像、湯沢市岩崎の鹿島様の面、羽後町の猿倉人形芝居の頭(かしら)を作る仕事などもしていると穏やかに話していた。気さくで飾らない人柄はそのまま。彫刻にかける情熱は衰えていなかった▼夏目漱石の小説「夢十夜」に、仏師・運慶が仁王像を無造作に彫るのを「あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出す」行為だと説明するくだりがある。これに倣えば、皆川さんは木の中から農民の怒りや悲しみ、誇りや気概を彫り出した彫刻家だったといえそうだ▼個展会場で皆川さんをカメラに収めるとき、彫刻より本人が絵になるなぁと思った。バンダナを巻いて作務衣(さむえ)をまとい、どっしり立っていた姿がありありと思い出される。

 2017.7.1秋田県美術展覧会 孫の県展 奨励賞を喜ぶ アトリエ前

皆川君は級友たちから通称「デガ」で通った。名前で呼ばれることは少なかった。「デガ」は小学校三年の担任が紙芝居の主人公、気がやさしくて力持ちの「デガ象君」からつけられたと彼の著、「嘉左ヱ門 その生きざま 写真記録集」2002年イズミヤ出版で語られている。彼とは出身校が違い、当時彼の級友から「デカ」の名を聞き不思議な感覚を持ったことが思い出される。昭和40年5月増田町の真人公園を会場にして「皆川デガ野外彫刻個展」を開いている。その中に昭和39年県展奨励賞「女神」も展示された。彼はその名を誇りにしていたことが偲ばれる。

2017年7月1日私は「黒部」から秋田新幹線「こまち」で帰途、大曲で乗り換えの秋田から新庄行きの列車で皆川夫婦と一緒になった。孫(大学生)が平成29年第59回県展で奨励賞になった。見学の帰りだという。本人は昭和39年第6回で「女神」、息子は昭和63年第30回で記念賞、そして今回の受賞。本人は県展で三代の県展奨励賞に事の他喜んでいた。列車の中で十文字駅まで語り、さらに皆川宅のアトリエにて談笑した。この日が私と皆川君との最後になってしまった。

皆川嘉左ヱ門氏と昭和37年1月、秋田県青年の家主催「農業経営コース」に15日間一緒に参加し交流したのが始まりであった。秋田県青年の家は昭和34年秋田市寺内将軍野の「まゆ検定所」を改修して設置された。秋田県は当時基幹産業の農業の後継者の養成、確保を主なねらいで発足していた。15日間合宿形式の研修はその他のコースも豊富だった。農業青年ばかりではなく当時、秋田県の青年活動の拠点だった。現在この場所は解体され秋田県立中央高校のグランドの一部になったいる。

昭和37年1月の「農業経営コース」には全県から25人程集まった。研修は朝から夜までビッシリと続いた。コース参加者で最も個性的なのが皆川君だった。当時彼は茶道、謡曲の道に入っておりさらに見事な能面を造り持参していた。彫刻家としての歩みが始まっていた。彼の家では田んぼと乳牛を飼っており、私も昭和42年から乳牛を飼い「雄平酪農業協同組合」の組合員となった。当時皆川君とは研修後も青年会活動等で交流が続いたが酪農協の会合に来るのは本人ではなく皆川君の親父さんだった。皆川嘉左ヱ門の親父さんは良く家畜商と一緒に私宅にも来た。玄関先から親しく息子と交流を知っていて、「木を彫る(彫刻)より牛の爪をけずれ」と息子の木彫り(彫刻)を批判し、「止めるように話して欲しい」が口癖だった。

当時の彼は、「親父にはこまったものだ」と愚痴をいいながら作風には「頑固じじい」(昭和49年11月)をはじめ「休耕田に佇う」等、百姓老人が主体になっていた。皆川君は「百姓を彫る 皆川嘉左ヱ門の信念と木彫集」(昭和51年7月)の中で次のように語っている。

「頑固じじい」                                                                                                                                                                                                                                

田植えの時「田の畦は、                                         かがとをつけねで、歩くもんだ」といった。                               頑固じじい。                                                                                                           かたくなに、時世にさからい、                                                         自分の殻にとじこっている。                                       頑固じじい。                                                俺は、その反骨精神に、                                         共鳴する。                                                  なにかと、人の顔色をうかがって、                                   生きている。                                                今の世の中に、                                              真っ向から対立し、                                            自分の信念を通す、                                            その反骨心に、俺は、共鳴する。                                              昭和49年12月

                     頑固じじい  「百姓を彫る 皆川嘉左ヱ門の信念と木彫集」(昭和51年7月)

「頑固じじい」のモデルは別人、この作品にかすかに親父さんの面影が彷彿される。彼の写真記録集「嘉左ヱ門 その生きざま」等にも親父さんの写真は一枚も出てこない。

「米を作る若者」

平成19年山形県の 庄内町では「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」を始めた。つや姫・はえぬき・コシヒカリ等おいしい米のルーツである「亀ノ尾」「森多早生」発祥の地として、消費者の求める安全安心でおいしい米づくりを全国に情報発信している。日本一おいしい米コンテスト機械による判定ではない、実際に食べた人による審査結果をもとに最優秀賞が決定する。「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」には私も第一回から参加していた。平成19年、私の「あきたこまち」は決勝大会の準決勝まで進んだが決勝に進むことはできなかった。

平成22年第4回から高校部門が加わった。高校部門は、友人朝日新聞「清水弟」氏の提案で実現した。当時朝日新聞鶴岡支局に努めていた清水記者は、ことのほか庄内町の「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」を評価していた。全国にある農業高校に呼びかけ「あなたが選ぶ日本一おいしい米コンテスト」の高校部門、「米の甲子園」が始まった。清水氏は高校部門最優秀高の副賞を「皆川嘉左ヱ門」氏に依頼したいとの提案があった。「皆川嘉左ヱ門」氏もかつて米と乳牛を飼い酪農組合に牛乳を毎日出荷し農業高校に登校していた。平成22年夏のある日、清水氏と私と皆川氏のアトリエで会談の結果「米を作る若者」が実現した。第4回大会の高校部門の最優秀賞は長崎県大村城南高校の「にこまる」に輝いた。

                           米を作る若者 2018.4.11

清水氏の「若者に希望を与えるもの」という依頼に彼は相当苦慮したらしい。後日談だと彼は出身校の増田高校の校長と打ち合わせ、陸上部の生徒を紹介され制作された。この像は10年続くことになっていたが清水氏の提案により昨年2017年から嘉左ヱ門氏の子息、皆川義博(秋田公立美術大学准教授)氏にバトンが移されていた。

今回皆川嘉左ヱ門氏の逝去で「米を作る若者」の一つを清水弟氏と庄内町の好意で提供を受けることになった。葬儀後の初七日に庄内町から送られてきた。写真は自宅の居間で撮った「米を作る若者」と杉材で作られたケース。私にとって唯一の皆川の作品、貴重な遺作品となった。

「鹿島様」衣替え

 

湯沢市 岩崎緑町 鹿島様 衣替え 2018.4.29  

4月29日湯沢から十文字に向かうと岩崎の国道13号線沿いで、「鹿島様」の衣替え作業をしていた。鹿島様は道祖神の一種で、秋田県中南部の一帯を中心見られる。集落の境に置かれ、疫病などの災厄が集落に入ってこないように設けた。湯沢市岩崎地区に3体の鹿島様があり、13号線沿いの鹿島様は岩崎地区緑町が担当している。

大きさが3~4mの大きな像でイナワラで胴体部分を10数人で作業していた。この鹿島様の面は、皆川嘉左ヱ門作を想い出し尋ねたら作業中の一人が「親父の時代造られたこと、制作者が今月始め亡くなった」と話し出した。立っている鹿島様の面はイナワラで覆われていて見えにくい。衣替え時は全体像が見られた。許しを得て面を撮らせてもらった。

この場所を通過のたびに鹿島様を意識する。どこかに皆川デカの風貌と重なる。


田んぼと坪池の「トンボ」達

2018年07月19日 | 集落

7月に入ると田んぼでは赤とんぼの羽化が始まる。赤とんぼとは正確に言うとナツアカネ、アキアカネ、ノシメトンボの3種類のトンボが水の張られた水田で一斉に誕生する。今年最初に確認できたのが7月3日だった。約15日間が最盛期。ナツアカネは田んぼ周辺や住宅地に移動、アキアカネやノシメトンボは近くの山に向かい、産卵期の9月になると田んぼに戻ってくる。


朝の田んぼで畦畔を歩くとこれらのトンボは慌てて飛び立って又すぐ止まる。

羽化直後

ノシメトンボの和名は、成虫の腹部の黒い斑紋が熨斗目模様に似ていることに由来する。羽の先が濃色でわかりやすいが、今年はノシメトンボはいつもの年よりやや少ない。

ノシメトンボ 引用

羽化早々のナツアカネ、アキアカネの区別は難しい。「翅胸第1側縫線に沿う黒条の先端が、アキアカネが尖るのに対して、ナツアカネは角状に近く、その黒条の太さの個体差は大きい」等といわれているが素人には判別が難しい。9月下旬の産卵期になるとわかりやすい。

ナツアカネ雄は成熟すると全身赤くなり、「赤トンボ」という名前にふさわしい。雌は腹部背面が赤く色づく。ナツアカネの産卵は雄が前で連結して稲の上から産卵する。空中から卵を振り落とす「打空産卵」と呼ばれている。

アキアカネ産卵は雌雄が結合したまま飛びまわり、稲刈りの終わった水田の水溜りのような産卵適所を探索する。交尾が終了するとやはり雌雄がつながったまま水面の上に移動する。産卵は水面の上で上下に飛翔しながら雌が水面や水際の泥を腹部先端で繰り返し叩き、その度に数個ずつ産み落とす。これらの産卵は午前中が主で午後になるとほとんど単独行動になる。

今年のナツアカネ、アキアカネの発生は何時もの年より数倍多い。田んぼの見回りで畦畔を進むと羽化後飛び出す数が異常に多い。1平方メートル当たり5~7匹は確実。坪当たりにすると20匹前後となり10アール換算で6000匹、30アールの田んぼで2万匹。7月早々から20日頃まで続いている。田んぼで羽化したトンボは数日後住宅周辺へ山に移動したので、発生数はどのくらいになるのだろう。

すべての田んぼが同じなのではない。私の田んぼは除草剤一回使用、極力トンボの幼虫に害を与えない栽培に徹している成果かもしれない。慣行の栽培では田植時に殺虫剤がまかれる。自然乾燥「赤とんぼ乾燥米」をと呼んで30数年を経過している。秋の収穫をコンバイン作業で行うと田んぼ一面に稲わらがばらまかれ、アキアカネの産卵場所が制限される。「赤とんぼ乾燥米」の刈り取り作業では田面がむき出しになり稲刈り時の産卵場所に事欠かない。さらにハサがけなのでアキアカネの休憩場所も多くなっている。

 

アキアカネは生理的な熱保持能力は高く、活動中の体温は外気温より10-15℃も上昇するが、高温時の排熱能力は低い。そのため暑さに弱く、気温が30℃を超えると生存が難しくなり、標高の高い場所に移動するとされている。今年のように気温の高いと移動距離も長くなる。夏の間高地で成熟した成虫、特に雄は体色が橙色から鮮やかな赤に変化し、通常秋雨前線の通過を契機に大群を成して山を降り、丘陵地や田んぼに帰ってくる。

自宅の小さな溜池でもトンボの誕生が繰り返される。今年もニホンカワトンボはすでに移動してしまい、今はイトトンボとシオカラトンボ類の世界になっている。イトトンボ類は種類が豊富だ。イトトンボにあまり詳しくはないが、わが家の坪池のイトトンボはモノサシトンボだろうか。
モノサシトンボの産卵 止まっているのはヒツギグサ(スイレン)の葉

モノサシトンボがペヤを組み産卵を始めた。二組が常時飛び回っている。ペアで雌が水面に突っ込むように産卵する。イトトンボのすべては腹部第9節にある産卵管で植物の組織内に卵を埋め込むと言われている。

オオシオカラトンボ、シオカラトンボ、シオヤトンボを一般的にシオカラトンボと呼ばれているている。見た目は同じように見えてはいるが微妙に違う。シオヤトンボは春から初夏にかけてよく見られる。大きさはアカトンボとほぼ同じでシオカラトンボの仲間で一番小さい。
シオカラトンボとオオシオカラトンボの主な違いは体色はオオシオカラトンボの方が青味が強い。腹部先の黒い部分は、シオカラトンボの方が大きい(広い)。複眼がシオカラトンボは青緑色だが、オオシオカラトンボは黒褐色。



成熟してくると体色の青みはさらに濃くなって精悍さが強まる。

ビロードモウズイカとオオシオカラトンボ

家の周囲20m以内に隣家と併せて小さな池が五つある。オオシオカラトンボをはじめ他のトンボ達は行き来しているらしい。このオオシオカラトンボはビロードモウズイカがお気に入りらしい。羽化してまもないオオシオカラトンボ。

交尾中のペア オオシオカラトンボ

毎日のように眺めている中で交尾中の雄雌ペアに出会うことはまれだ。ペア中のトンボに別の雄のトンボが襲う。襲われてもたちまち追い返した。


400年前の大舘村の名請人

2018年04月27日 | 村の歴史
大館村は現在の湯沢市川連町大舘、合併前は稲川町大舘。大館村は江戸期から明治22年の村名。大舘は大字で麓と大館で構成されている。そして名請け人とは江戸時代、検地により田畑、屋敷の所持者として認定され、検地帳に記載された百姓。耕作する権利と義務があり年貢、諸役を負担した。

大館村の東に小野寺一族の川連城があり、天正18年(1590)豊臣の太閤検地に仙北地方(現在の雄平仙)と由利地方に検地反対の一揆が勃発した。この検地騒動は「川連一揆」ともいわれる。豊臣秀吉の太閤検地を越後の大名上杉景勝を命じた。秀吉家臣大谷吉継をが庄内、最上、由利、仙北の検地を行った。この検地の過酷な所業に諸給人、百姓が蜂起した。一揆勢力は各地に放火、追い詰められた一揆勢は増田、山田、川連に2万4000余名が籠城し抵抗したが圧倒的な大谷勢に鎮圧された。結果一揆衆1580名が斬殺、大谷勢討死200余、負傷500余名の激しい戦闘で終結した。そして川連城主は責任者として人質に捕らわれ一揆終結の6年後、一揆の咎めとして豊臣秀吉の命を受けた最上義光によって川連城、稲庭城、三梨城は慶長2年(1597)落城した。

太閤検地は織田信長の天下統一事業を継承した豊臣秀吉は従来の検地を組織・統一化して全国的に拡大させた。太閤検地では6尺3寸四方を1歩(坪)とし、300歩を1段とする統一的丈量単位で一筆ごとに実測し,土地を収穫量で表示する石高制を完成した。秀吉以後,江戸幕府は1歩を6尺1寸四方に改めた。農民には不利な検地となった。慶長検地は太閤検地への一揆、川連城の落城等で、多くの犠牲や耕作地の荒廃からの立ち上がり途上下のことになった。

約400年前の慶長19年(1614)大舘村検地帳は湯沢市指定古文書。「慶長19年大館村検地帳は、秋田藩が行った計3回の一斉検地のうち、慶長19年(1614)に実施した中竿の大舘村の検地帳である。舘又左衛門ほかによる検地帳の控えで、稲川地域に現存する最も古い検地帳である。

検地帳は、近世、年貢の徴収と農民支配を目的に、領主が行った土地の測量調査(検地)の結果(田畑の面積・等級・石高・名請人)を記したもので、年貢賦課の基礎となる台帳である。秋田藩では慶長8年(1603)佐竹が入部当初に行った先竿、慶長19年(1614)頃に行った中竿、正保4年(1647)から慶安元年(1648)にかけて実施された後竿と計3回の一斉検地を行っている」。(湯沢市指定古文書 個人所有)引用

大館村検地帳 慶長19年 大舘村 出羽国仙北雄勝郡川連の内 10月6日 舘又右衛門

大館村検地帳68戸の名請人の一覧がある(稲川町史資料集編 第二集には大館村検地帳百姓名子一覧とある)。当時記録には本百姓、小百姓、名子、下人等があり、本百姓は検地帳に登録され年貢と夫役を負担する階層。名子、下人と呼ばれるのは零細な耕地を持ち検地帳に登録され、年貢を負担しながら夫役を免除される下層農民と呼ばれた。その他に土地を持たない水呑百姓がいた。検地帳には田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記載される。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方で、その土地に緊縛されることになる。

検地帳の名請人以外に土地を持たない戸数は宗門人別改帳は見つかっていないので不明。江戸幕府が宗教統制の一環として檀家制度(寺請制度)、キリシタンではないことの証明として宗門人別改帳があった。現在の戸籍原簿、租税台帳で婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし移転先の改帳に記載された。

慶長19年(1614)年大館村検地帳に見られる名請人は以下の68人。
半内、四朗右衛門、左馬介、与九郎、形右衛門、市兵衛、権右衛門、三右衛門、重右衛門、弐助、掃部、甚右衛門、千介、介右衛門、惣右衛門、市右衛門、一右衛門、喜兵衛、四郎三郎右衛門、隼人、芦右衛門、甚介、宮内、住三、内近、孫六、囚獄、安平、佐助、和泉、三河、但馬、五郎右衛門、嘉右衛門、才次郎、民部、与助、孫七郎、左馬五郎、正介、孫五郎、助八、越中、兵部、九郎太郎、理右衛門、甚内、対馬、大次郎、惣介、弐右衛門、旭本、小石本、亥介、右馬蔵、加りん、次郎三郎、左馬助、左馬三郎、孫次郎、鍛冶、正三郎、寺、丹波、治郎兵衛、寺房、与惣右衛門。

目立つのは17人の〇右衛門が特徴的。右衛門、左衛門は百官名の一つ。律令制下では〇左衛門、〇右衛門の起源は兵役に就いた者が兵役終了後、その証として配属先の〇左衛門、〇右衛門府の名を名乗ったとされる。

武士の世の中になって、武士が自分の権威付けのために名目上このような名を欲しがった。また、一般庶民でも朝廷に金を払って〇左衛門、〇右衛門の名を買うことができた。 古来より日本では「左」の方が「右」より権威が上で朝廷から買う時差があったとも言われている。江戸時代になると頭に親族・兄弟関係を表す文字を比較的自由につけたとされる。

和泉(大阪)、三河(愛知)、但馬(兵庫)、越中(富山)、対馬(長崎)、丹波(京都)等一般的には出身国と思われる。かっこ内は現在の府県。

朝廷職の名等や職業を連想される名。掃部、宮内、民部、囚獄、兵部、かりん、鍛冶等の名請人の名前がある。掃部、民部、兵部は律令制下の八省の一つ。「掃部寮は、律令制において宮内庁に属する令外官。掃部寮は宮中行事に際して設営を行い、また殿中の清掃を行う」とある。掃部、民部、兵部その職を司ってきた末裔だろうか。

囚獄司は律令制において刑部省に属する機関に関係した名と思われる。大館村の囚獄は上、中、下の田んぼ5筆2反2畝8歩を耕作している。囚獄はしゅうごく、そのままの名の通りだと囚人を入れておく牢獄となる。単なる名請人の名とは思えない。

検地帳の集計で大館村で多くの田畑を持っているのは四郎右衛門の15筆1町4反1畝18歩。次が形右衛門の17筆9反8畝9歩になっている。他領からの転入と連想される和泉は7筆7反6畝23歩、対馬9筆7反1畝25歩、但馬7筆3反9畝18歩、三河1筆1反9畝18歩、丹波2筆28歩等。

大舘村集計田(上、中、下、下〃)24町5反2畝1歩、畠(上、中、下、下〃)4町5反5歩、屋敷1町3反2畝14歩、田畑屋敷合30町3反4畝20歩。ト米348石9斗8升5合。本田分239石3斗3升6合。その他に苗代5反1畝3歩、寺等屋敷1反7畝28歩計6反9畝1歩。ト米9石3升8合と記されている。

戦国時代が終わったばかりの江戸時代初期。各地において土地を捨て他国領に入る農民たちを「走り者」といい牢人と呼んだ。牢人には封禄を失った武士や百姓もいた。走りはより良い地を選んだものと推察される。江戸初期は各地に戦国時代の影響があり、荒れ地となった農地が結構あった。慶長19年検地帳の名請人にある他国領とみられる移入者は、太閤検地反対一揆、小野寺一族の滅亡で荒れた大館村の情報を知り駆けつけたとの推測もできる。

豊臣秀吉の身分統制令以来、幕府は士農工商の制度を設けて社会秩序を固定し封建社会を維持しようとしたが機能しなかったとされる。武士が百姓に、百姓が武士になったりした。大名の経済力基礎は土地から得られる収入が主力。他領国からの流入者が荒地を耕地に変えることには願ってもないこと。百姓は検地によって名請地として検地帳に載り所有地として認められることを望んだ。当時武士以外はほとんど百姓と呼ばれ大きな家族で住んでいた。百姓の規模の比較的少ないものに商業や物を作る工業的な業を営んでいた。走り者(牢人)を受け入れやすい背景もある。特に50万石の水戸から20万石の秋田に左遷された佐竹氏にとって農地の拡大は急務なことで自領からの逃散、走りは制限しつつ他藩から「走り者」には優遇はしたともいえる。

明治に入って古地図に家の数131軒、借家16軒とある。大館村の内、大館は本郷で家数95軒、麓は支郷根岸と呼ばれ家数36軒とある。412石6斗6升3合とある。慶長19年(1614)68軒から明治元年(1868)までの253年間で家数は約倍の131軒になっている。ちなみに明治以降現在までの150年間では麓54軒、大館520軒で計574軒。大舘が急激に増えたのは漆器業や仏壇産業が盛んになったことも大きな主因と思われる。

オオミスミソウ(雪割草)

2018年04月19日 | 地域の山野草
先日和賀山塊にオオミスミソウ(大三角草)に会いに行ってきた。雪割草ともいわれる。オオミスミソウは、キンポウゲ科ミスミソウ属の常緑の多年草。オオミスミソウは、名前の通りミスミソウよりも葉や花が大きい上に花色も白色、淡紅色、濃紫色、淡紫色などの変異があるといわれている。



4月10日になっても林道はまだ積雪があり車から降り歩くこと約30分で目的地についた。南東斜面で陽あたりよさそうな地形。傾斜50度近いブナ、ミズナラの林は歩くことが少しきつかった。這うようにして小さな雑木を手繰り寄せながらの観察となった。春先の斜面が滑りやすく一歩一歩確かめながらの移動もことさら慎重にならざるをえなかった。白花、淡紅色の花、濃紫色のものはまだ見ることが出来なかった。花期の後半になるとみられるという。オオミスミソウの花びらが6枚、7枚、8枚、なかには八重咲きらしきものもあった。



自生地は新潟県を中心に富山県から秋田県とする日本海側にある。オオミスミソウは、雪割草の中でも最も変異の幅が広く、さまざまな色や形が楽しめ交配に熱中する愛好家が多く古くは江戸時代から愛好されてきたと言われている。名前の由来は、正月から春にかけて降り積もった雪を割るようにして茎を伸ばし、花を咲かせる様子にちなんで名付けられた。原産地は日本の他ヨーロッパ、北アメリカで中世ヨーロッパでは、葉の形が肝臓を連想させることから肝臓の病気の治療に用いられたと記録にある。

 一株から一重と八重花に見える

複雑な花



オオミスミソウと出会ったのは今から10数年前、国道101号線の道路脇にある山野草店だった。山野草にもともと興味がありドライブ中見つけると立ち寄っていた。その山野草店にはおびただしい数のオオミスミソウ(雪割草)。客は少なかったせいか主人は長々と講釈が始まった。価格は数百円から数千円、中には特別なものと云いながら万円単位のものまで案内された。教職を定年後オオミスミソウの魅力に取りつかれ念願の店を開業したという。

雪割草は名のごとく早春の山野草。花が終わり休眠期の夏休みに近い季節になると素人にその姿は連想できなかった。古くから変異の大きいオオミスミソウは数えきれないほどの種類の株が育てられ、愛好家の間で取引されている事を知らせられた。当時それほどの関心もなかった。

新潟県では「冬を堪え忍んで春に咲く雪割草は県民の心情に合致する」雪割草(園芸名)オオミスミソウ(キンポウゲ科ミスミソウ属)が県の草花に指定する方向で検討。さらに新潟県に2001年国際雪割草協会が設立されている。オームページに設立の背景として「我が国は北海道を除いて、学術的に貴重な雪割草が4種類分布する。分布は局所的で、しかも、 一般に群落を構成する個体数は少なく、最近の地球の温暖化や人的活動の結果、自生各地で絶滅が強く懸 念されている。、、、、、、、、。

豊かな自然を守るひとつの方法として、私たちは雪割草を大切にする気持ちが日本の自然を守ることにも繋がると考えた。雪割草の育種技術が年々向上し、、、、、それに伴い世界各地からの関心が高まり、園芸的な地位を確立してきた。何ごとにも国際化が叫ばれる昨今、我々は国際雪割草協会の設立を日本でスタートすることが大切と考えた」。とある。(一部抜粋引用)



今回和賀山塊を熟知している達人にオオミスミソウを案内していただいた。自然の状態で変異を繰り返していることがわかる。変異しやすい植物として特徴的なのかもしれない。自然に生え、一つ一つ微妙に違うオオミスミソウに接すると山野草店や園芸店で見かけるものより深い広がりが想像できる。可憐な姿は早春を代表する花にふさわしい。


麓と上野の「観音講」

2018年03月08日 | 村の歴史

川連集落には麓と上野に二つの観音様があって、観音講行事は現在も続いている。麓は行政区が二つになっており麓の2地区の有志が中心になって構成されている。班編成で毎年5月上旬に開かれている。麓の観音講を「岩清水の観音様」と敬意を込めて呼ばれている。しかし現在の岩清水神社に祀られている本尊は観音像とは違うようだ。本尊は約30㎝程の石の像で右手に宝剣、左手の宝珠らしきもの持った立居姿の像になっている。前回のぶろぐ「麓の子安観音」考で「子安観音」は、この神社にあったものを何らかの事情でが移動されたと書いた。現在ある本尊はそのことと関係あるものと推察されるが詳細は不明だ。

昭和21年観音講の始まり申し合わせ

「岩清水」は歴史が古く、朝廷が源頼義・その息子義家の軍勢を送り込んで、奥羽を完全支配しようとした「前九年、後三年の役」の時代に、源義家によって発見されたと語り継がれている。その清水は1000年近く枯れるれこともなく湧き出ている。清水のすぐそばに神社が建てられ岩清水神社と呼ばれている。この小祠がいつの時代からあったのかは不明。現在のお堂の屋根改修は昭和33年、49年に行われている。

祭典当日朝の掃除、準備 平成22年5月5日

この清水は枯れなることがない。かつて下流の田んぼはこの水源を頼りにして耕作していた。
旧稲川町が現在地「平城」に役場庁舎を建てた昭和52年頃、この地の地下水は飲み水に適さず当局は「岩清水」の水を役場庁舎にとの計画があった。圃場整備が進んでいた時期だったが山際の田んぼは沢水が主流であったため、役場庁舎に集められた耕作者の賛同を得ることができなかった。今でも名水としての評価されている。

1000年近く枯れることのない「岩清水」は霊験豊かで「岩清水神社」は「乳神様」又「乳仏様」としても地域では崇められてきた。鬱蒼としたこの場所の杉は戦後伐採され、なだらかな傾斜面は冬季はスキーなどの遊び場になっていた。スキー等で怪我しないようにとこの場所に来ると安全を願って「岩清水神社」を拝礼することの決まりがあった。

この「岩清水神社」は神社の呼び名ではなく、古くから岩清水の「観音様」と呼ばれ「乳神」、「乳神観音」として定着していた。「乳神観音」としてのお堂には願祈成就の「おはたし」に、多くの布で作った乳房型を奉納されていた。かつて飢饉で食べ物が制限され栄養不足で多くの人が亡くなった時代から母乳の出が良くないことは乳児の死を意味した。お参には「母乳の出がよくなるように、あるいは安産を願い、あるいは乳の病気の平癒」を祈る形で多くの女性たちの参拝があり地元はもちろん雄勝、平鹿郡や遠く東京都と書い乳型が奉納されていた。

「観音様とは観音菩薩のこと、観音菩薩とは阿弥陀仏の慈悲を象徴する菩薩。「観音」とは「世の音を観る」ということで、衆生の苦悩の声を聞く」という意味。人々の憂い嘆きの声に耳を傾け、相手の苦しみに「わかる。わかる」と共感し、ただ聞くそれが「観音」という意味」とある。一般に「子安観音の信仰は、中国の慈母観音の影響を受けたといわれ、幼児を抱いた慈母の姿で、西日本に多く、堂または神社の形をとって祀られている。これに対して子安地蔵は路傍の石像が多く、東日本に多く見られる」という。(世界宗教大事典)

現在、岩清水の観音さんと呼ばれながらご本尊は観音像とは明らかに違っている。前回のブログで触れた「子安観音」(マリア観音)はかつてここにあったといわれているが、現在知っている人はいない。一般的に昔から神様の御神体は見てはならないとしてきた。見たら目がつぶれる、罰が当たる、御守の御利益がなくなってしまうというようにいわれてきた。このことから多くの人はご神体、ご本尊に関心を示さないできたことがもしかしたら背景にあるのだといえる。例えば京都の石清水八幡宮のご神体について『八幡愚童訓』「神躰事」は「右垂迹の実躰におきては、神道幽玄にして、凡夫不浄の眼にて奉見事なければ、伝書に不及」。とある。礼拝対象の仏像やキリストやマリア像が見えるように祀られているの教会等とは違っている。

現在も続けられている「麓の観音講」は昭和21年秋に企画され麓2組を中心に栗林雄一、後藤安太郎氏を世話人に選び20名で始った。昭和22年旧3月18に観音講として祀りが行われた。発起人は30,40歳代が中心でその上の世代の名は記録にはない。昭和36年度の講中加入者は32名の記録がある。「浜崎サンタ・マリア館長」の言うように長い年月の中で「子安観音」、「乳神様」又「乳仏様」として受け継がれて「マリア観音」は変容を繰り返しの中で埋没してしまったのかもしれない。

昭和21年敗戦後に始まった「観音講」は村づくりへの大きな支えだったに違いがない。講中参加者の変遷があり現在は20名で構成、二人一組交代で約70年「観音講」行事が続いている。現在の講の構成20名は昭和21年の開始時の2世、3世代に移って続けられている。さらに昭和50年ごろから、塔婆に鎮座している寛政6年(1794)建立の庚申塔、23夜塔、さらに関係者中心で祀っていた報徳記念碑等が合同で祀りが行われるようになった。

庚申供養塔他

昭和22年第一回から現在まで約70年の「観音講」行事は年番、開催日、参加者、祭典経費等記録した「岩清水神社祭典宿巡番帳」に詳しい。行事が終わると次年度の担当者へと引き継がれる。講の直会は近年生活様式の変化等で個人の家では対応が難しくなり、約10年前から集会所で行われている。



上野の「観音講」は毎年4月下旬に開かれている。主役は子供達。上野は対象が全戸の37戸が対象、当番の家を中心に講が続いている。講は一軒の家を中心に班で構成、37年で一回回ってくる決まりのようだ。
「子安観音」は集落から400m程離れ通称「鹿野滝沢」の岩の窪みに鎮座している。

上野 子安観音 写真は仙北市渓風小舎さんからの引用


麓の子安観音(マリア観音)考

2018年01月25日 | 村の歴史

平成29年12月22日秋田魁新報の文化欄に「秋田のキリシタン遺物」の掲載記事があった。
この記事によると「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」が2018年、世界文化遺産登録の審査を受ける。これに関連し2018年12月にかまくら春秋社から「潜伏キリシタン図譜」の出版を予定している。上智学院の高祖敏明理事長を発行人にして2016年12月に潜伏キリシタン図譜委員会が設立され、全国各地に地域に残るキリシタン遺物や史料等の情報提供が呼びかけた。秋田から「熊谷恭孝秋田キリシタン史研究会会長」に要請があり、熊谷氏は「秋田のキリシタン遺物として図譜に掲載されるのは9点」だという。①が「梅津政景日記」寛永元年(1624)の秋田藩内最初の大殉教を記した日記文。きりしたん衆32人火あぶり。②湯沢市東福寺雲岩寺所蔵のマリア観音像(石造秘宝、高さ52㌢)。③湯沢市川連町麓のマリア観音像(石造、高さ70㌢)。⑥湯沢市寺沢にある北向き観音像(石造)。寛永元年(1624)16人が久保田城外で斬罪。
秋田魁新報 平成29年12月22日 引用

熊谷恭孝氏が「潜伏キリシタン図譜」に提供する秋田のキリシタン遺物としての図譜、9点中3点は湯沢市が関係している。記事にあるマリア観音の写真は、麓の観音堂に熊谷氏が足を運び撮ったものらしい。今回この「マリア観音像」の背景を考察してみた。

麓の観音像は現在川連集落の三浦家で「子安観音」として管理、祀りが毎年11月の行われている。一般的に「観音様」といわれている。不思議なことにこのお堂には子安観音の他に本尊等4体がある。これらの仏像はほかのお堂や祠にあったものがまとめられたものと思われる。本尊の一つに首のないものがあること等から明治の廃仏毀釈の影響が考えられる。明治政府は明治元年神仏分離令を発布し仏堂、仏像等の破壊が各地で行われた。観音堂の他の仏像、本尊はこの破壊活動から逃れるために持ち出され、排斥運動鎮静化後まとめられたものと思われる。麓の「子安観音」は昭和40年から順次刊行された「稲川町史資料編」で紹介され、昭和63年稲庭城跡の今昔館に「マリア観音」としてレプリカが展示されてから注目されるようになった。

集落でこの「子安観音像」に深く関わっていたと思われるのは妙音寺。寺は明治政府の廃仏毀釈で廃寺となった。妙音寺の本家の高橋家によればかつて観音像は盗難にあい奪い返したとの逸話もある。又現在管理している三浦家の話によれば「約500m程離れた岩清水神社から村の某が背負って持ってきた」と言い伝えられている。どんな背景、経過があったのかは不明。

又稲川町史資料篇第三集(昭和42年3月)第六 切支丹宗に「東福寺村雲岩寺及び川連町根岸岩清水八幡の小祠にマリア観音石像がある。聖母マリアの胸に星形(暁の星)を彫み、幼児キリストがそれを指さしている。これは明らかにマリア観音で、子安観音とは違う」とある。編集者は郷土史家の茂木久栄氏。

この記述に観音像(マリア観音)が現在の麓の「子安観音堂」ではなく「岩清水神社」にあったことの証になる。移動は諸説から推定して茂木氏の記述の基点以後と考えられる。現在の観音堂は30年程前の昭和62年に再建され新しくなった。不思議なのは現在堂の正面の本尊は子安観音ではなくかなり古い木像の仏像。この仏像は「羅漢、権現像」にも似ている、他に「正塚婆」らしきもの、首の取れた観音像らしいのは明治初期の廃仏毀釈で破壊されたものだろうか。「子安観音堂」と呼ぶなら正面の本尊は「観音像」であるべきだが、現在堂の正座にある本尊は観音像ではない。観音像は向かって左端にある。このことからしても観音像の移動説が証明される。並び順について管理の三浦家に聞いてみてもわからないという。


麓 子安観音(マリア観音)

かつて肝煎で妙音寺の本家、高橋家の説に妙音寺が「隠れキリシタン」だったと語る。祈祷寺の妙音寺が信者を増やすためにキリシタンの教えも説いた。現世のしあわせを願う信者は地元ばかりはなく遠くからも妙音寺を訪ねてきた。信者が妙音寺に通う道を「キリシタン通り」と言ったことが語りつがれている。(ブログ「ニガコヤジ(赤子谷地)考2016.8.7)に詳細

キリシタン宗禁制の時代、多くの信者は仕事もせず信仰に走ったため貧困も進んだという。弾圧が激しかった時代、肝煎の高橋家は別家の妙音寺や集落の信者を弾圧から守るために奔走、説得等を繰り返した。その結果集落から犠牲者を出さなかったという。信仰のよりどころだった子安観音(マリア観音)は弾圧の状況下で安置場所を意図的に変えたとの推測もできる。

慶長7年(1602)、佐竹義宣は国替えで常陸から秋田に来た。「対馬家」(現高橋家)は佐竹と一緒に秋田にきて川連村麓に着任し肝煎となった。妙音寺は対馬家から分家して慶長19年(1614)12月に当地に開山した。開山時は源養院、正徳2年(1712)の「十一面観世音」造立には川連山相模寺の名号もある。そして寛政元年(1789)に妙音寺に名を変えている。当初佐竹氏はキリシタン対策に温情があったとの説がある。詳細はブログ「妙音寺を偲ぶ」1 2015.12.19 「妙音寺を偲ぶ」2 2016.4.7  

明治4年は廃仏毀釈で廃寺となった妙音寺住職黒滝源蔵の「観音社 山神社日記」によれば、正徳二辰年(1712)願主仙北雄勝郡杦宮 吉祥院住快傕門 寺号川連村相模寺、川連 坂東27番「十一面観世音」が造立されている。ちなみに坂東27番は千葉の札所 坂東33観音で千葉県銚子市にある 飯沼山 円福寺(飯沼観音)本尊十一面観世音菩薩。

この堂は現在は特定できないが旧妙音寺内の敷地内、現在の「子安観音堂」と推定される。この本尊は「十一面観世音」だったのではと推測される。さらに観音堂に側に建っている「庚申塔」は明和五〇天(1768)と読める。年号は年ではなく天になっている。天年号の石造仏は隠れキリシタンと関係が深いとの説がある。

神仏習合から分離する明治新政府のの廃仏毀釈は各地のお堂、仏堂等の毀釈は激しいものだったと言われる。当時戊申戦争の混乱の中で慶長19年来続いた妙音寺は廃寺とされ、妙音寺の最後の住職黒滝源蔵氏は、天壌無窮を祈って関係した麓の観音堂、山神社等の本尊を入れ替えたとの説も否定できない。

さらに移設時期は特定できないが子安観音(マリア観音)は所説から、明治前後から終戦前と推測される。昭和21年、集落で村の3,40代が中心になり岩清水神社「観音講」が始まって現在もつづいている。この記録に「子安観音」(マリア観音)の記述をない。関係者に伺っても岩清水神社から観音像が移動されたことは知る人はいない。講の構成は名簿から明治35年以降大正10年生まれが中心。親、祖父の時代に「観音像」移動をあれば語り継がれることは自然なことと思われるがそれも確認できない。後日ブログで「観音講」を取り上げ予定。


観音堂正面の像 (木造)。

黒滝子安観音が「マリア観音」の石の像は「ゆざわジオパーク」のジオサイト案内書に「白っぽい細粒の花崗岩~花崗閃緑岩を加工した石像で、湯沢市神室山や役内川に分布する花崗岩類とは岩石が異なる。観音像の花崗岩は、帯磁率8以上と比較的高い値を示している。これは、湯沢市付近にある帯磁率の低い阿武隈帯の花崗岩ではなく、むしろ北上山地の磁鉄鉱をしっかり含む花崗岩類の特徴です。雲岩寺のマリア観音像は、藩政時代にキリシタンが坑夫として潜伏(大倉、白沢鉱山)していたこと、および南部藩水沢地方と交流していたことを示唆している」とある。

キリスト禁教令は諸外国の激しい抗議と反発で明治6年(1873)キリスト教禁止令は解かれた。廃寺になった妙音寺のご本尊は見事な「十一面千手観音立像」、住職黒滝源蔵氏はこの像を本家に預けこの地を離れてから140年近くになる。明治大正昭和と時代を経過して各地と同様、キリシタンの名は地域から消えている。今の所集落でキリシタン信仰に関係した古文書は確認されてはいない。菩提寺の神應寺の墓地の古い墓石に、キリシタンだったことを示す隠れ文字や記号らしきもものがあると、このことに精通の研究家は言う。

天保10年(1839)生まれの高祖父が、曾祖父文久2年(1862)生まれに説いた書があった。明治5年(1872)当時曾祖父は10歳の時に人間としての教えを説いたと思われる。書の形式からみて高祖父33歳の頃。高祖父は明治10年(1877)40歳で亡くなっている。書は往来文形式で1年の出来事、法事や祭り親戚とのつき合い方の他に田地調、年貢等がありその中に「切支丹御調條」が含まれていた。

 切支丹御調條の一部

「此度切支丹宗旨御調ニ付五人組引替色々御穿鑿被成候得共御法度宗旨之者男女共一人無御座候、、、、、、」となっている。各地の庄屋、肝煎にこれらの「起請文の事」が送られていたものと思われる。「秋田切支丹研究―雪と血とサンタクルス 」(1980年)翠楊社 武藤鉄城著に角館 佐竹家蔵に「起請文の事」がある。

明治新政府はキリスト教禁止の幕府政策を継続した。明治政府は長崎浦上村のキリシタンは全村民3414人流罪という決定を下し長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され激しい迫害を受け562人が死んだと記録にある。明治政府は、文明開化をめざしながらも近代的な人権思想に無で、新たな国家神道による思想統制をはかろうとしたがキリスト教徒弾圧は外国使節団の激しい抗議を受けて明治6年(1873)禁教令を廃止した。徳川家康の慶長17年(1612)天領禁教令から262年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復した。高祖父は禁教令廃止の前年にこの文書を書いている。この時期は戊辰戦争や地租改正前後の騒然とした時代、高祖父が子供に伝えようとした背景になにがあったのだろう。

集落内にかつてキリシタン信仰があったことは知る人はいない。長い年月の中で風化され子安観音(マリア観音)が話題になることもほとんどない。この度の新聞掲載の「秋田のキリシタン遺物」の一つとの記事へ関心、反応は聞くこともなかった。しかし「マリア観音」の存在は、この地域で祖先がかつてこのキリシタンの教えを受け入れた歴史の証明に違いない。

※ 子安観音(マリア観音)のある祠を「黒滝子安観音堂」との説もあるが、地元の呼び名   「観音様」、「子安観音」で統一した。

※ 熊本県天草市にある「サンタ・マリア館」のホームページに「修験道の影響を強く受け家   の中には大黒様や天神様、若宮様などを祀り本来のキリスト教とはほど遠い、一種の  「キリスト教的民俗宗教」となってしまいました。いわゆる「キリシタンでないキリシ   タン」=「異宗」となってしまったのです。このようなキリシタンを「伝承キリシタン」
  と言っています。その代表的な遺物が「マリア観音」。本来のキリシタンであれば本質的  に違う観音様を拝むはずはありません」とある。


第41回雄勝野草の会写真展

2017年11月16日 | 地域の山野草
湯沢市雄勝野草の会主催、第41回山野草写真展は11月15日から24日まで湯沢市生涯学習センターロビーで開かれます。雄勝野草の会は昭和49年1月7日に18名で発会し、現在会員43名です。自然観察の中で各自が撮った69点の写真が展示されます。私の会員歴は10年で写真展に参加は第39回からですので3回目になります。

第41回雄勝野草の会写真展 湯沢生涯学習センター 2017.11.15

私の写真展への展示は39回に1点、減反の田んぼに咲いていたシロバナサクラダテ、昨年の40回にはヒガンバナ、オオウバユリ、オオケダテ、エゾアジサイ、シュウカイドウの5点。今回私は7点展示することにしました。以下は写真の紹介です。

オカトラノオ 稲庭町大谷川 2017.7.12

オカトラノオは「丘虎の尾」花期は6月から7月、白色の小さな花を茎から先に総状につけ下の方から順次開花していく。花穂の先端があたかも虎の尾のように垂れ下がる。この写真は稲庭町大谷集落を過ぎて林道に3キロ近く入った大谷川沿い、重機で新らしく作業道を造ったところがあった。重機のキャタピラ跡に表土らしい土の隆起されたところにオカトラノオの群生があった。そこに数年上部から流れ出された土壌が他のむき出し部分より肥沃になっていたらしい。穂先が15センチもある見事な花弁を一本だけの写真とした。オカトラノオはどこにでも見受けられる野草、花は同じ方向を向くこれほどの見事なものに出会うことは珍しい。

ウツギ 川連町黒森 2017.6.25

ウツギは「空木」の意味で茎が中空であることからの命名されたとされる。花はウツギの頭文字をとって「卯の花」と呼ばれ、童謡の「夏は来ぬ」は誰でも知っている。花の咲く旧暦の4月を卯月と呼ばれるのはここからといわれる。このウツギは自宅の山にいつも通る場所、昨年ナラガレの被害にあった木を伐採、薪用に軽トラで10回ほど運んだ時、鮮やかな花のウツギが印象に残り撮っていた。

エゾノシシウド 八戸市種差海岸 2017.6.17

エゾノシシウドは「蝦夷の猪独活」蝦夷の名がつくように北海道に産し多年草。北東北では太平洋側の海岸の分布されている。今年雄勝野草の会の自然観察研修で八戸市の種差海岸で撮った。草丈が1mから1.5mにもなる大きな多年草、花言葉が健康美といわれ、光沢のある葉と豪快な花に納得してしまう。

ミヤマダイコンソウ 仙北市焼森山 2017.9.15

ミヤマダイコンソウは「深山大根草」。私にとって紅葉のミヤマダイコンソウは初めてだ。焼森山の中腹に群生。その範囲の半端ではない広さに圧倒されてしまう。7月から8月に花は黄色く2センチほどの5弁花。花の時期の見事な光景が想像される。葉の端が鋸歯で光沢がある。名は葉が大根の葉に似ていることから深山大根草と呼ばれている。

ミヤマダイコンソウ 花 引用

9月15日秋田駒ヶ岳につながる焼森山コースから登山。前の日の14日から女岳周辺から噴気活動が仙台管区気象台から発表されていた。噴火警戒レベル1、活火山であることに留意とされていて8合目の駐車場には仙北市の消防車やテレビ関係、それに県外からの登山者の車が15台ほど駐車していた。当日懇意にしている仙北市の渓風小舎さんの案内で焼森山から登山、女岳の噴気活動を目の前にして下山してきた貴重な体験。
オクトリカブト 仙北市秋田駒ケ岳 2017.9.15

オクトリカブトは「奥鳥兜」。秋田駒ヶ岳下山中多くのオクトリカブトに出会う。花の形が雅楽の舞の鳥兜に似ているからといわれている。他には鶏のトサカに似ているという説もある。どの部分も強い毒性があることは誰でも知っている。花は鮮やかな紫色をしていてきれいだ。山菜のシドケ(モミジガサ)と間違って食し中毒になったニュースが時折流れる。登山道にはいたる所にこのオクトリカブトが散見された。きわめて大型のものも見られたがこの写真は少し小さめのものを選んだ。世界に現生しているトリカブト属植物は約480種、日本では35種が確認されている。根が最も毒性が強くドクウツギ、ドクゼリと並んで日本三大有毒植物とされている。

ツリガネニンジン 鬼首花立峠 2017.8.21 

ツリガネニンジン「釣鐘人参」は鬼首の花立峠で撮った。花立峠は禿岳(かむろだけ)の登山口で標高は796m。宮城県大崎市鳴子温泉鬼首と山形県最上郡最上町とにまたがる禿岳は標高1,261.7m。あいにくの曇りに霧雨、宮城側は舗装されており広大な牧草地はさながら北海道の景色を連想してしまう。花立峠で散策。濃い霧で50m先が見えない。禿岳の登山口にヤマユリとツリガネニンジンの白と紫の花があった。霧雨に濡れたツリガネニンジンはある種の悲しさを包み込んだ美しさがあった。春の若い芽はトトキとして食用にされる。2年以上たった根は沙参(しゃじん)と呼ばれ生薬として利用される。健胃、鎮咳に効能があるとされる。

花立の由来は昔々峠に大声を出して住民を怖がらせたり、旅人に近づいて驚かす異形の山人が住み着いており、峠を安全に超えるために麓の祠に花を手向けたことから名づけられたといわれている。濃霧で見通しのきかない峠道を山形県最上町に抜ける。砂利道は幾重にも曲り急峻な崖っぷちにひやりとさせる。ガードレールもない狭いこの道を最上町から登ってき二台の車と交差する。車を止めて待っていたがあまりにも急峻で狭い場所だったのか、相手の車は怖い顔で通り過ぎていった。晴天ならともかく天気の良くない時だと通るのが危険な道。ヤマセの影響か最上町の前森高原についたら晴天だった。

クマガイソウ 川連町麓 2017.5.15
 
クマガイソウ「熊谷草」は10数年前、我が家の杉林や隣地に古くから自生していたが悉く盗掘されてしまった。盗掘グループに著名な人もいて盗掘後2,3年したら開設ブームで出現した直売所で売られていた。写真の「クマガイソウ」はかろうじて被害から免れた一群。クマガイソウの開花時はほとんど同じ方向を向く。脹らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立てクマガイソウの名がついたという。偶然にもこの写真は古(いにしえ)の源平合戦が連想される。熊谷直実を先頭に各武将が配置されて戦闘態勢が整った姿をに見える。

第41回雄勝野草の会の写真展に以上7点の写真を出展した。今年各地に出向いて撮った山野草の中から選んだ。

麓の米「赤とんぼ乾燥米 あきたこまち」

2017年10月20日 | 農業
FBに投稿した10月6日と15日記事に加筆して 麓の米「赤とんぼ乾燥米 あきたこまち」をブログで紹介。

10月6日

麓の米 「赤とんぼ乾燥米 あきたこまち」の稲刈りは9月27日終了、2011年から「定住自立圏構想事業」で始まった減農薬栽培の自然乾燥は「総務省の雇用につながる新産業創出にむけた課題調査事業、湯沢市の「人材センター」と連携して作業、湯沢市、JAこまち、稲川有機米研究会で構成、自然乾燥米「あきたこまち」川連地区の稲刈りは今日終わる。稲川地区で約5.5ha。川連地区の自然乾燥は年々減少、麓地区が3ha、川連地区60aの計3.6ha。連日の今一つの天候状態で脱穀作業は遅れそうだ。
ほぼコンバイン刈りの作業体系の中で「ハサがけ」の自然乾燥米は絶滅寸前。ハサが整然と並んでいる姿は出来秋の風物詩、青森田舎館の田んぼアートに匹敵する光景を湯沢市稲川庁舎3階から堪能してみませんか。





以下はコメント いいね22

ハサガケの米はおいしいでしょうね。手間はかかると思います
が、収益はどうですか? 10月7日 4:48
長里 20数年間「赤とんぼ乾燥米 あきたこまち」で東京、湯島の
鮨店主は自然乾燥米の 手 触りにほれ込んで使い続けてもらった。今は閉店してしまいま
  したが格別の評価をもらっていた。栽培方法は変わったことは農薬を減らしたこと。    収益と言われても特別高価な価格を設定していなのでそれなりに、、、としておきます。  コメントありがとうございました。返信 · 10月7日 20:50
Shiba この風景、子どもの時は暮らしの中にあった。なつかしい。 10月8日 2:11
奥州 我が家の自然乾燥米も(と言ってもわずかですが)まだ脱穀が  終わっていません。今日明日の晴天に期待したいところです。自然乾燥米の手触りは機械  乾燥とはまるで違います。化学的な違いは分かりませんが、機械分析には出てこないヒト  の手の感触のすごさも示していると思います。· 10月8日 8:50
長里 この天気は明日までの予報。この調子だと20日前後まで脱穀  はできないと思われます。昨年の最終脱穀は19日でした。ところでコメ不足の前兆なの  かヤミ米業者が15000円で集めている情報があった。貴地区ではその動きがありますか   10月8日 9:30
奥州 そういう縁がないので、その筋の情報には全く疎いです。今日  のような天気が続いてくれるといいのですが… 10月8日 23:11
奥州 多くの方が収量が悪いと言ってますから、作況指数がかなり下  がるのではないかと。 ぎょうしゃはびんかんですから。 10月8日 23:16

10月15日

雨続きで脱穀作業ができない。予報では明日から青空が期待される。前回ふれた湯沢市稲川庁舎からのハサがけ風景を紹介する。この風景は稲刈り後普通2週間ほどの限定になるが今年は20日~25日前後に伸びそうだ。





コメントなし いいね21

心配されていた天気は16日から回復、この田んぼの面積215ā、昨日19日に脱穀作業は終わった。