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堰普請(せきぶしん)

2013年05月03日 | 農業
今日5月3日は「堰普請」だった。文字通りだと(せきふしん)と云うことだろうが地域では(せきぶしん)と濁点が付く呼び名になっている。
連休の3日実施は圃場整備後からだから40年ほどにもなる。農家にとって、ゴールデンウイークなどと云うものはない。

「堰普請」等と云っても今時代何のことかわからないではないだろうか。「堰普請」と云う呼び名も消える寸前かも知れない。まず「堰」とはこの場合は田圃に水を入れるための用水路のことだ。自然の流れと云うより人工的に造られた用水路とでもいえる。普請だから用水路の掃除と云った方がわかりやすい。田んぼでコメを作る場合は当たり前の行事だ。昨年の水田から落水した後の用水路、排水路の清掃。用水路は田圃に水を入れろ水路。排水路は田圃から雨や稲刈り前の作業をしやすくするため水を捨てる水路のことだ。田んぼの整理でこのことを「用排分離」と云った。この作業が終わると田植作業の準備に入る。田んぼの耕し、水を入れ代掻きが終われば田植状態になる。

かつて100人も出て作業した「堰普請」も近年出てくる人は少なくなってきた。田んぼを耕作している人は田んぼの多い、少ないは関係なくはほぼ全員参加する。生産費を償えないコメの価格、何でもかんでも規模拡大政策の中で田圃の耕作から離れた人が多くなってきたからだ。それでも今年の「堰普請」には多くの人が参加した。種まき後は低温続きで異常気象だ。ともかく寒い「堰普請」だった。今年の田植までまだまだ異変が続きそうだ。


排水路のゴミ撤去 

20年前、1993年の「堰普請」も寒かった。今日の寒さで20年前が想いだされた。あの年の気象も春から異常。とうとう稲の出穂時も回復せず、大冷害で食卓に日本のコメがなくなった年だ。

今年のこの時期の低温に何かしら暗示があるように思うのは自分だけだろうか。年々ごみは少なくなったきた。今日は空き缶等はかつての10%ほどか。空き缶以外はあまりない。堂々と水路に物を捨てる人は少なってきている。好ましい傾向だ。

下記の写真は1993年の「堰普請」のハガキ通信だ。ここに再掲載することにした。


写真は③だが①と②を下記に

堰普請とゴミ「水に流す」とは ①

「五月三日は堰普請(せきぶしん) だ」と連絡があり毎年春の農繁期を前にして水路のゴミ掃除が通称「義務人足」ということで実施された。
「義務人足」とは、もはや死語に近いのだろうが、集落の行事にはまだそう言われてる。読んで字のごとくで、この出役には、当然無報酬である。
コカコーラ、キリンにアサヒ等のビールの空き缶、マヨネーズに洗剤のポリ容器など「堰普請」のゴミもずいぶん変わってきたものだ。圃場整備後、土地改良区が中心になって各水系、集落単位に「ブロック会」か生まれ、農繁期前にそれぞれの水路を掃除する。

麓は、川連(通称中) と上野と合同で総勢約100 名でこれを行う。この地区の田圃の用水は7 キロほど上流、皆瀬川からかつて小野寺氏の居城、稲庭城の内堀ともいわれた「五ケ村堰」を通り隣で「和堰」と「新堰」の二つの用水路に分かれて灌漑されていた。圃場整備前の「堰普請」は、上流2キロほどの通称「横道」、「サンゴローからカクエン」、「切崖」の三箇所の難所があった。

「五ケ村堰」は、近世佐竹氏の藩政下で新田開発のため大改修されたという。
藩政時代の「新田開発」で、特に「切崖」の山すその水路工事は難事業だったとあったと思われる。少しでも多くの「田圃に水」をと、水路を集落近くまで延ばしたために「切崖」周辺の水路は、落差が少なくほぼ平らな流れだ。そのため上流からの水の押し出しで、やっと下流に水が流れる状態だった。だから堰普請の時は、この箇所は「特長靴」でも超えそうな探さまでヘドロやゴミが溜まっていた。

それが昭和49年に圃場整備事業によって、「三面舗装」水路に変わってこの三箇所も改良され難所は解消されることになった。だが、三面舗装の水路はかつて棲んでいた鮒や鯉、ドジョウ、イモリ等の「小川の生き物」をことごとく追いやってしまったし、棲みかを作ることも出来なくしてしまった。
さらに流れの良くなった水路はゴミ、空き缶等もなにもかにも押し流す生活排水路の役目にも果たすことになってしまった。何回となく各機関を通じて「水路にゴミを捨てるな」と、呼びかけても一向に意識は変わらず一向に改善されそうもない。これは一体どう考えたらいいものだろうか。日常生活の中で、ことが起こると「水に流して」と言う考えが日本人にはある。このことがゴミや空き缶を簡単に水路に捨てることに結びつくのだろうか。

堰普請とゴミ「水に流す」とは ②

麓は稲川町川連地区に属し、役場の東に位置し国見嶽、鍋釣山に挟まれた「内沢」から数百年、数千年におよぶ土砂の押し出しによる小さな扇状地状に住宅地と畑(約百町歩)と田圃(約百町歩)が開けている。内沢はあまり大きくない沢で、沢水を利用した田圃はせいぜい10町歩(10ha)あまりだ。そのために、この地の田圃の耕作の最大の問題は「水不足]と闘うことだったし、「堰普請」は欠かすことの出来ない村を上げての行事でもあった。

今では圃場整備によって「和堰」はない。旧「新堰」が三面舗装の水路に変わり、南から北に向かって流れている。集落の田んぼの用水路はこの三面舗装の水路から直角にU字溝で西側に向かい各田んぼに流れている。扇状地ゆえ西に流れるU字溝はやや急で、数カ所に落差溝を設け急流を調整している。ゴミや空き缶はまずこの落差溝に溜まり、さらに水の勢いでカラカラ音をたてU 字溝を転げ落ちて流れ、田圃へと入ってくる。ゴミの種類は多様だ。ときには発泡スチロールの箱、布団、酒箱、少動物の死骸、ビニール、多量の草等が流れてくることもある。もともと、文明発祥地は河川が中心であり「川は巨大なゴミ捨場」だつたとか。日本の川は明治時代に来日した、オランダ人の治水技術者デ.レーケは「川ではない。滝だ」と言わしめたほど急流が多い。

樋口清之国学院大学名誉教授によれば「水に流す」とは、「今まであったこを、 さらりと忘れ去ってしまうことである。過ぎてしまったことを改めて話しをもち出したり、とがめたりせず、なかったことにしようとする行為である」と言う。

日本の流れが比較的勾配があるので、ゴミを捨ててもあっという間に流れ、目の前はきれいになった。きれいに流れず、ゴミ(汚物)が溜まり汚く濁った状態は誰も好まない。つまり「澄んでいない」状態は好ましいことではなかった。「日本人は、人間関係において対立を好まない。心でどう思うと、表面上はスムースにことが運ぶよう努力する。「済みません」は自分が流れを汚して「澄まない」、つまり「済まない」からきている」と樋口教授は言う。

何か思い当たる事もある。だからといって川、堰(水路)に何もかも捨てて流してしまう考えは認められないが。生活の都市化というべきか、この数年の間に日常生活から出てくるゴミが数倍にも増えた。たしか「消費は美徳」、「消費者は王様」などとおだてられたころから急に増えたような気がする。
今年の「堰普請」は、天気も悪くそして寒かった。だから「ブロック会」のできあがり慰労のビ-ルはきめて冷たかった。