秋の花の代表的な「フジバカマ」にほとんど関心などはなかったが、「フジバカマ」と結びつけたのは訪中だった。昭和47年11月(1972)国交回復後の中国を訪問することなった。日本の普通の農民と交流案は中国政府と日本のある機関とで結ばれ、訪中農村活動家連絡会議が主催した。全国から15名で約一ケ月間中国農民、労働者等と交流することになった。この交流事業は国交回復前から進行していて、私たちは第三次の訪中団として中国訪問となった。国交回復直後なので航空協定も結ばれてはなくて、香港経由での訪中が決まっていた。
当時の佐藤町長が壮行会を開いてくれた。当時の稲川町に飲食店は少なかった。同年の沓澤君が農協のそばに食堂を開設して間もなくの頃で、町の関係者が10数人、町長の呼びかけで集まってくれた。ほとんど会って話をしたこともない町の有力者が集まるという壮行会、おそれ多くて佐藤町長の申し出にお断りしたのだったが、秋田県から国交回復直後の訪中なのだからとの熱意に甘えることになった。当時町の青年会の活動が停滞、各地域に様々な分野の青年団体が生まれていた。町の音頭で各青年団体が連絡協議会をつくることにことになり、途中参加の自分がどういう風の吹き回しか、初代の連絡協議会の代表を務めることになってしまった。秋田県は青年の翼で、ソ連等外国へ青年の派遣事業が盛んで稲川町でも該当者が多くなり、海外へ研修に行く人が増えてきていた。
壮行会で各所属の代表者から訪中のへの身に余る激励の言葉をいただいた。壮行会の席で公民館長の高橋克衛氏がそばに寄ってきて、「中国へいったら是非「フジバカマ」を見てきてほしい」という。「フジバカマ」は初めて聞く野草の名でとまどった。当時、国交回復2ケ月後の訪中で期待と不安の中で、他の人と一味違う公民館長のいう「フジバカマ」に失礼ながら特に関心などなかった。11月末から約一ケ月間、南は広州から北は北京、天津までの行程。「フジバカマ」のことなどはすっかり忘れていた。
フジバカマ 紫紅色 自宅 2014.10.13
それが平成に入った頃だったろうか、あるホームセンターの園芸を扱うコーナーに「フジバカマ」を見つけた。さっそく購入して坪庭に植えた。「フジバカマ」に、かつて訪中送行会での高橋公民館長の話を思い出したのだ。「フジバカマ」」は比較的地味な野草と思う。近年「雄勝野草の会」入会後調べてみたら、園芸店で販売されているのは園芸用の「フジバカマ」で実際のものとは違うということがわかった。かつては日本各地の河原などに群生していたが、今は数を減らし、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧(NT)種に指定されている。
「フジバカマ」は、源氏物語や古今和歌集など、1000年以上前の文献や物語にも登場し、平安時代の女性が、十二単のなかに香料として忍ばせていたとも言われています。薬として使われていた歴史もあるようで、 日本人とのおつき合いはかなり長い。
「フジバカマ」(藤袴、Eupatorium japonicum)とはキク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つ。本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布している。原産は中国ともいわれるが、万葉の昔から日本人に親しまれてきた。8-10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花をつける。
白花のフジバカマ 自宅 2014.10.13
生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。中国では乾かした葉を湯につけて洗髪に利用した。中国名:蘭草、香草英名:Joe-Pye weed;Thoroughwort;Boneset;Agueweed(ヒヨドリバナ属の花)植物学者の湯浅浩史著「植物ごよみ」に『フジバカマの語源は江戸時代、谷川士清が「花の色をもて藤と称し、其弁の筒なるをもて袴とす」と解釈して以来、異論がほとんどなかったが、上野博士はフジバカマは不時佩(ふじばかま)ではないかとと説く。香をはかまにたきこめて不時の災いにそなえたというのである』との記述がある。
高橋克衛氏はあきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日発行に以下の記事があった。
元気はつらつ稲川明治大学
高齢者教育は、生涯教育の到達点、いわば終点であり有終である。本県における高齢者教育は、生涯教育が叫ばれる以前、老人福祉の問題とからめて推進されてきた。老人クラブを母体としそれに地域の公民館が積極的に入り込んで行なった高齢者学級―老人大学がそれである。
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雄勝郡稲川町の明治大学も、県内では活発に活動しているユニークな存在として知られている。NHKテレビの電波にのって全国に紹介されたこともあり、雑誌『家の光』43年11月号のグラビアにはというタイトルで、町民運動会に参加した稲川明治大学生の、ほがらかで元気あふれる老人パワーが登場する。なにしろ佐藤東一町長が、県婦人児童課長時代の"家庭の日運動"の生み親だけに福柾優先を町政のモットーにかかげ、そのうえ結婚六十三年、文字どおり偕老(かいろう)同穴のご両親が健在とあって、ことさら老人問題には関心が深いのだ。したがってここの特色は、単なる高齢者教育といった孤立した作業ではなく、の一環として老人福祉と生涯教育とが、町政のもっと高次元の場所で手を結びあっている点にあるのだ。
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死に花を咲かせる 老人学級に関する悩みは、各地とも学習プログラムにあるようだ。なにしろ、それぞれに長い人生の甲羅を経た人たちの集合である。そこには当然、教養の差、趣味の違い、地位や財産の差が生じてくる。狭い地域だと家対家、人対人の感情問題がからまる時もある。こうした人たちを一堂に集めて、いったい共通する何を教えたらいいのか…昨年夏の全県公民館研究大会の高齢者教育分科会でも、このことがいちばんの問題となった。これについて、県老人クラブ連合会長の佐藤欣一郎氏は「老人には別に何も知識を教える必要がないではないか。ただ家の中に籠って閉鎖的になりがちな老人を、地域のみんなで暖く外へ連れ出し、そこで同じ年配の仲間のだれかれと語り、笑い合い、からだを動かしてさっばりした気分になって家に帰る、それだけでいいと思う。私は生涯教育は、老人の場合生涯(いきがい=生甲斐)教育だと思う。あゝ生きていてよかったと思うこと、そして自分に残された力をわずかでも、家庭なり社会に役立てられれば、それか生きがいであろう。そして生きがいの積み重ねが"死にがい"である」と語る。死に花を咲かせてやるために老人教育の場がある、それだけで有用なのかもしれない。
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明治大学の大好評に、町民から要望がたかまった。私たちにも大学を!と。そこで来年度からは「大正大学」と「昭和大学」をも開設します、と佐藤町長の言明。大デモンストレーションのため八月三十日の町の記念日の前後に、社会福祉と生涯教育を合せた町民大会を開く計画が、もう着々と練りあげられていた。
あきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日 引用
振り返ってみれば、稲川の明治大学の活動は格調の高いものだった。高橋克衛公民館長の情熱が抜きんでていたことにもあったのかもしれない。その後の世代はあきた(通巻116号)にあった「大正大学」と「昭和大学」等の開設はほとんどできないことかもしれない。当時の老人クラブへの入学学齢は65歳とあった。現在の団塊の世代以降の世代が対象となる。時代背景があまりにも違ってきてはいるが、昭和の「稲川の明治大学」のようなパワーはあるとは思えない。
現在川連集落に老人クラブの組織はない。数年前に加入者も少なく解散された。今年の川連地区の敬老会に参加したのは、麓集落では対象者三八名中タッタ一人だったという。
フジバカマの咲く季節になって、ネットで故高橋克衛氏の「あきた(通巻116号) 1972年(昭和47年) 1月1日号」を引用し振り返ってみた。故高橋克衛氏の義兄にはあの農民文学の重鎮、伊藤永之介氏がいた。高橋克衛氏の文章の深みは伊藤永之介氏とのつながりにもありそうだ。ネット上にすでに廃刊になった「あきた」の通巻号で故高橋克衛氏の文章に出合える。
それにしても1972年、故高橋公民館長はなぜ「フジバカマ」を是非見てこいと言われたのか、園芸用でも「フジバカマ」の咲く頃になると思いだされる。戦地の中国大陸でほんものの「フジバカマ」との強烈な出合いがあったと推察できる。それがどういうことだったのかはすでに故人となられて今では知ることができない。1972年当時、山野草への意識や関心はほとんどなかったことがある意味では悔やまれる。