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無音の叫び声

2014年10月22日 | 足跡
10月18日、山形長井市の友人宅を訪問した。43年間の牛飼いを止めた年から田植、収穫の農作業が終わると温泉一泊のドライブを続けている。今年は10月17~18日、新潟県村上市の瀬波温泉泊となった。ランクルプラドで自宅から瀬波温泉まで約210kの距離。

山形の鶴岡から村上までの海岸線を走った。波が荒かった。波の花というのだろうか荒波が岩にぶつかり道路を覆う、プラドは雨がないのにワイパーが欠かせなかった。海辺のホテルで仲居さんが「海は台風の影響で波が荒い」と話したが、「穏やかな海より少し波が高い方がらしくて良い」等と言ってしまった。初めての荒波の景色はある種の美しさがあった。止むこともない荒波に慣れないせいか夜半に目が覚め、2011年東日本大震災の大津波がひらめいてなかなか寝つかれなかった。

翌朝寝不足でホテルを発ち、国道113線経由で長井市に向かう。瀬波温泉から長井の友人宅までは約85kのドライブ。初めての長井市の友人宅訪問は、先輩の木村迪夫氏の足跡をたどる長編ドキュメンタリー映画、「無音の叫び声」の製作「市民プロデューサー」の一員に加えてもらうためだった。


無音の叫び声 ポスター

木村氏とは、かつて「やまびこ学校」佐藤藤三郎氏の著「25歳になりました」出版社 百合出版 (1960/02)で知り、1972年全国から15人で訪中した時からつきあい。1977年NHKあすの村づくり「土くれのうた」で一緒だった。(ブログ、2013.12.7「追想 土くれのうた」で詳細)長編ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」の監督原村政樹氏、製作にあたって次のように書かれているので全文掲載する。(http://www.eiga-muon.net/)


長井市の友人と「無音の叫び声」や米の概算金暴落等の意見交換し、長井から白鷹、寒河江経由で帰途についた。途中「無音の叫び声」の製作市民プロデューサー募集が気になり帰宅を変更、ランクルプラドを上山市牧野の木村迪夫宅へ向けた。白鷹から上山まで約35k。偶然かもしれないが多忙な木村氏は在宅、「無音の叫び声」の原村監督が来ていた。原村政樹氏とは初対面。3年前程前から企画を知っていたので話がはずんだ。製作市民プロデューサー募集と映画の普及活動で以下の集会を企画していた。



会場の上山市山元地区公民館は旧山元小中学校。かつての「やまびこ学校」の舞台、閉校後山元地区公民館となっている。「山びこ学校」は、山形県山元村(現在は、上山市)の中学校教師、無着成恭氏が、教え子の中学生たちの学級文集、内容的には生活記録をまとめて、1951年(昭和26年)に青銅社から刊行したもの。正式名称は、「山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録」である。2008年1月現在、岩波書店(岩波文庫)から刊行。舞台となった上山市立山元中学校は2009年3月廃校となった。

10年ほど前佐藤藤三郎氏宅を訪問している。狸森の地名が懐かしい。団塊の世代以降の人には当時一世風靡した「やまびこ学校」はわからないかもしれない。上山市木村迪夫氏、佐藤藤三郎氏、佐賀県唐津市山下惣一氏、さらに製作委員会会長は日本の有機農業の先駆者で南陽市高畠の星寛治氏は同年代。まもなく80歳になろうとしている。社会情勢が後戻りしていく時代の中でも、前に進もうとするエネルギーのしたたかさには脱帽してしまう。映画製作に多くの市民プロデューサーが生まれ、一日も早く「無音の叫び声」の上映ができることを期待している。 「無音の叫び声」製作委員会TEL070-695-3517