「土くれのうた」は、1977年(昭和52年)10月9日朝6.00から7.00NHK総合テレビ「あすの村づくり」で放映された番組である。収録はNHKで、10月6日午前10.00から昼をはさんで午後2.00頃までだった。出演者は私の他、山形県上山市の木村迪夫氏、岩手県花巻市の瀬川富雄氏の三人 他にギタリストの萩津節男氏にアナウンサーの塩川さん。
山形の「農民詩人」木村さんとは1972年11月、国交回復直後に全国から15人の仲間と一緒に中国へ約一ケ月訪問した。中国訪問前から「やまびこ学校」で有名な佐藤藤三郎氏と一緒に私を「農に生きていく」ことを決意させた恩人でもあった。この尊敬する二人が訪中団員であることを知った時の歓びは、言葉で言い表せないくらいの感動だった。木村迪夫氏は高卒の頃から詩作活動に入り、山形の真壁仁氏が中心の農民の文学運動誌『地下水』の中核だった。しかし、瀬川富男さんとは初対面だった。番組での意見交換で、自分が求めていた農の姿勢と共感できることが多いことを知らされた。
この企画、NHK秋田局から東京に戻ったPD(ディレクター)の橋詰晴男さんから連絡のあったとき、すかさず断わった経過があった。素人真似事のつぶやきの自分と、地域で長年詩作活動している大先輩との同席等は足がすくわれるような出来事で、NHKの橋詰さんからの要請には断り続けた。他の二人が快く同意の中での断りは企画が没になる寸前だったと云う。橋詰さんとは氏がNHK秋田局に在籍してるころからの知り合い。とうとう根負けして湯沢駅から夜行で渋谷のNHKまで来ることになってしまった。
1973年11月19日「減反詩集」放送、その前が原田鮎彦氏がNHK秋田でラジオで語る「むらの詩--詩を通して透視する秋田農村の課題」、1973年9月に秋田文化出版社から「むらの詩」が出版され、同時期、朝日新聞秋田支局の清水弟記者が「出稼ぎを拒む」問題をシリーズで連載。その中で出稼ぎしない青年として「農民詩人」の名で紹介されてしまった。(朝日新聞秋田版「出稼ぎを拒む」4(1974.1.10)朝日新聞秋田支局の清水弟記者からみれば原田鮎彦著の
「むらの詩 --詩を通して透視する秋田農村の課題」出版、NHKの「明るい農村」で放送された「減反詩集」後の企画の「出稼ぎを拒む」シリーズだったから、もしかしたら「農民詩人」との紹介は当然だったかもしれない。
しかし、朝日新聞秋田版で「農民詩人」との記事に驚きで硬直してしまった自分がいた。20歳の頃農民運動と生産活動の両立は過酷で、両立できそうもない先輩たちの諸活動に反発した。その時一人の農民として生きてくことを決意した。決意したが周囲ははたして認知してくれるまでひたすらに日常を暮らすことを考えた。ただ日常の生活に流されるばかりでは現実より良くならない。当時衝撃的な岩波新書、大牟村良著「ものいわぬ農民」に刺激されていた自分は、もしかしたら何かを発言しながらただひたすらに「農民」でありたいと考えていた。その決意から約10年後「農民詩人」の名がついたことは衝撃的なことだった。「農民詩人」の名がついて、地域から「農民」としての認知が遠のくのではないかとの不安な日々だった。掲載後清水氏に抗議した覚えがある。振り返ってみてもなぜそういう感覚に陥ったのか不思議な感覚だった。あの記事掲載以降、元朝日新聞清水弟氏との交流は友人として40数年も続いている。詳細は2013年1月19日ブログ「NHKテレビ放送開始60周年関連」で紹介。
「むらの詩-詩を通して透視する秋田農村の課題」秋田文化出版社 1973.9.1 (クリックで大)
「農民詩人」の名は重かった。湯沢、雄勝中心にむのたけじ氏、西成辰雄氏も名を連ねる「秋田県農村文化懇談会」があって末席を汚していた。この会の中核に詩人グループ「第三群」があって刺激をうけていたが、私の日常のつぶやきは詩人集団に加入できるレベルにほど遠い存在。「第三群」メンバーの作品は「文学の村」誌等で多くが見ることができた。そのような経過はあったが、私のハガキやつぶやきに「農民詩人」の名は重いというより呼ばれた衝撃の方が大きかった。
当時の経営、「米と酪農」は圧倒的な出稼ぎ最盛期の中で、私の一冬の収入は出稼ぎ者が得る収入の一割にもならかった。コメの値段はこの年60k9,030円。乳価安の中で1967年8月から始めた酪農も搾乳牛がやっ5頭となり仔牛と育成牛の8頭の飼育。収入は無の状態。参考に酪農組合からの1977年10月の牛乳代金は32,033円、購買未収金32,405円だった。購買代金が多いのは牛乳量が少なく、搾乳牛になるまで育成牛や仔牛のエサ代が大きかったからだ。
米と酪農を柱にして出稼ぎはしないと言いながら収支はゼロ状態。いくらか余裕が出ると施設、設備の増設、牛の増頭へ等の繰り返し。「米と酪農」で自立を等と方向見出すまで高卒(定)後5年も遠周りで決意、一頭の乳牛導入から10年経過しても自立にほど遠い状態。
「出かせぎ拒否」と云ってもぐらついてる自分がいた。
当時の出稼ぎの人たちは多い人で月150,000円を超えてた人もいた。中には請負で作業、一日二人分の仕事をした人もいたそうだ。使う方では長時間労働を求める出かせぎ農民は重宝だったろうが、反面だから事故も絶えることはなかった。冬の村は多くの出かせぎ者でカラッポ状態。出かせぎ拒否で自立を考えても現実は過酷だった。牛をやめて出かせぎにの誘惑が棲みついていた頃だった。そんなときの「農民詩人」の名は極めて重いもになっていた。
渋谷のNHKセンターでのテレビの収録は過去にもあった。「減反詩集」放映前の昭和48年だったろうか。当時村から出稼ぎに行った青年が就労初日に事故で死亡。このニュースが流れてびっくりした。出稼ぎに発つ夜行列車に遅れると自宅前で別れたばかりだったからだ。そして出稼ぎ先で事故死の取り扱いは、あまりにもひどいものだった。わずかな弔慰金ですまそうとした。
若さの勢いで「秋田県出稼組合」の指導で東京地裁で裁判に持ち込んだ。裁判闘争の直前に「村の女は眠れない」で有名な詩人、草野比佐男氏と大学教授で、NHK教養特集での一時間番組「出稼拒否への道」の収録にNHKに来ていた。
福島県の阿武隈山地で農業をしながら詩作やエッセーを発表する草野比佐男氏に会える楽しみがあったし、「出稼ぎ」問題での討論で裁判最中の身にとっては草野氏と語らえるのは大きなチャンスでもあった。当時農民詩人草野比佐男氏の発表した「村の女は眠れない」は大反響だった。
農民詩人などと云われる前で「農民詩」の枠外の自分には、ほんものの農民詩人で農業評論家の草野比佐男氏と同席できる喜びが大きかった。
それしてもこの「土くれのうた」へ呼びかけられて決断までの経過は重たかった。木村氏は面識があるにしても、瀬川富男さんを始め、東北で農民詩人と呼ばれている人たちを、松永伍一著「日本農民詩史」全三巻五分冊 法政大学出版局 1967.10.15~1970.7.10で知っていたに過ぎない。
「土くれのうた」の冒頭は木村迪夫氏の代表作「おはんのうた」の朗読から始まり、木村迪夫氏の紹介。続いて自分の番になった。代表作は「のぼるよ泣け」をあえて変えて「ババひとりの冬」を読み上げた。瀬川富雄氏は「種モミ」を朗読紹介。それぞれの詩の朗読のバックにギタリスト萩津節男氏の音楽が流れ、3人の日常と立ち位置のビデオがながれるようになっていた。
3人の詩と地域での立ち位置の紹介が終わると、それぞれの詩作の底辺にひそむものを探る、という進み方で木村氏は「20年間、詩を書き続けてきた。百姓の傍ら、自分の生活史、精神史を言語に託すことによって生の証を立証することに努めてきた。だから、「迪夫さんはいい趣味をもっているね」とのお世辞を投げかけてくる人に対し、いい知れぬ怒りを覚える。私にとっての詩は苦渋に充ちた「生の証」に他ならない」と語った。
瀬川氏と私もこの発言に共鳴した。私の場合農民詩などとという分野の末席で恐縮している立場ながらも、圧倒的な時代の荒波でモンドリ打ちながら、抵抗し生き続けている多くの民衆の記録は書き留めておかねばならないとの想いが詩みたいな形にあった。
では何を書くのかで瀬川氏は語った「自分は農業の専門家であることの自覚と決意。農業には人間の生きる原型がある。だから、生き方が問題だ。機械化農業を拒み、猫の目農政に抵抗し、村で反乱を起こし土に生きている。この怒りをノートにたたきつけている」と力強い。
書くことに木村氏、瀬川氏とほとんど共通点があった。私の場合は詩を書き続けるなどというものでもなく一年で2回ほど年賀状、暑中見舞いの形で知人、友人に送っていたのを「ハガキの弾丸」などと一人で位置づけしていたことを話した。
もうビャッコ我慢してけれ
暑ぐて 暑ぐてひでぇのも
もうビャッコ我慢してけれ
稲の穂っこ出て 花っこ満開になったから
米の歴史 それぁ何百年何千年も前から
増産するごとだったべぇさ
それが 今年さなったば減反しろどォ
「健康な稲つくり運動だ」
「750キロどり稲作だ」
いうもんだから
皆してスピードだして頑張ってたなだぞォ
それがしゃ 行先も教えなえで
曲がれだの 止まれだのという
そんたわけののわがらなぇ話なぇべと
お天道様にさ訴えただば
今年の天気 まがせておげと言った
それで多分 こんたに暑ぇなべと思う
んだがら不調法な話だべども
もうビャッコ我慢してけれ
悪りなぁ
1970年 盛夏
ハガキの弾丸の内容にはふれなかった。それぞれの地域で農への取り組みは多くの共通点を再確認でき、テレビ出演拒否し続けたことから解放されたさわやかな気分は、忘れられない想い出になっている。番組の最後は3人の作品の朗読。また萩津節男氏のギターをバックに私は「出稼ぎをやめてけれ」、瀬川富男氏は「農による拒否」、木村迪夫氏は「雪」を語りかけるように読み上げた。
「出稼ぎをやめてけれ」は、地元青年の事故死の裁判中に、同じ町の先輩が出稼ぎ作業中に事故死した。いたたまれない思いから訪問。息子の事故死で疲れ切っていた家族にとっていきなりの訪問にとまどいがあるように思えた。できればソッとして欲しいと訪問を拒絶されたが、数回目からはいろいろと話してくれるようになった。そのことを書き留めた悲しい怒りのつぶやきが「出かせぎはやめてけれ」になった。この年秋田県の出稼ぎ死は、その年の交通事故死よりも多く、99人にもなっていた。
出かせぎはやめてけれ
降る 降る
まいにち まいにちの雪
豪雪だと 六十年ぶりの大雪
わずか雪の晴れ間を
若者のいない行列がゆく
真新しい雪道を
年寄りの無言の足跡ができる
東に鍋釣山 国見岳 大森山
西に雄長子内岳 雌長子内岳 朝月山
かかえきれない雪を背負って
空白の重い 稲川盆地
疲れた黒い弔いの行列が過ぎて
新しい雪道がまた消えてしまうと
百五十三年ぶりに鳥海山が噴火した
出かせぎはやめてけれ
今年みだいな大雪だば
年寄りと子供だけだば
心配で 心配で
やめでけれ あどはやめてけれ
田圃一町三反歩 畑三反歩
これだけでなば暮らしていがれねぁどて
出かせぎ始めた息子 十三年目
人の話だば
今年限りで出かせぎやめる
そう言って出ていった
家など新しぐなくてもえ
雨漏らねばそれでえぇ
出かせぎやめでけれた
ああ その息子死んでしまた
埼玉さ行って死んでしまった
電話のケーブル工事で死でしまった
やっと保育所と一年生のわらし残して
昭和三六年 初めて東京 小松工務店に出かせぎ
同 三七年 米がダメだと 再び小松工務店
同 三八年 後継者難だと 埼玉町田建設へ
同 三九年 米不足だと 埼玉ホンダへ
同 四十年 冷たい夏 本田技研へ
同 四一年 稲作グループ誕生 埼玉木村屋へ
同 四二年 10アール12俵達成 東京三協土木
同 四三年 今度は米はいらねぇという また三協へ
同 四四年 米価ストップ 東京清水工業へ
同 四五年 減反強制 千葉高元建設へ
同 四六年 ドルショック またまた清水工業へ
同 四七年 米不作10アール8俵 埼玉国際無線へ
同 四八年 農業見直しだと 国際無線へ
農業基本法 構造改善事業 選択的拡大
専業経営 規模拡大 農工一体 総合農政
減反政策 農振法 農業見直し論
幼い兄弟は無心に虹を追っかける
観音様の杉の上に虹を見つけて
雪原をどこまでも走り続ける
虹は追えない 追われない
追えば泥だらけ 傷だらけ
虹の根は追えない 追われない
虹の根に宝などはない
出かせぎ 出かせぎ十三年
十三年、、、、、、
読み上げて汗びっしょりだった。息子を亡くした父親の悲しみを柱に、その時の閃いたやるせない想いを素直な気持ちで表現した。13年間の出かせぎ先は創作。一人の壮絶ともいえる「生」の表現に消化不良の感は否めない想いが強かった。亡くなった一つ違いの先輩とは当時の青年会、農近ゼミの仲間だった。出かせぎに行きながらも「農での自立」語ってくれたあの時代が想いだされる。
自分の手元から発信したのは数枚の「暑中見舞い風ハガキ」と「年賀状」に「のぼるよ泣け」、「ババ一人の冬」、「出かせぎはやめてくれ」だけだ。20代の頃の未完成の走り書きは大学ノートに埋め尽くされてはいるが、「土くれのうた」収録放映後、私は「詩」のような日常の「つぶやき」を記録することができなくなってしまった。
未完の「減反詩集」はいつ、、、と云われ続けながらも。
山形の「農民詩人」木村さんとは1972年11月、国交回復直後に全国から15人の仲間と一緒に中国へ約一ケ月訪問した。中国訪問前から「やまびこ学校」で有名な佐藤藤三郎氏と一緒に私を「農に生きていく」ことを決意させた恩人でもあった。この尊敬する二人が訪中団員であることを知った時の歓びは、言葉で言い表せないくらいの感動だった。木村迪夫氏は高卒の頃から詩作活動に入り、山形の真壁仁氏が中心の農民の文学運動誌『地下水』の中核だった。しかし、瀬川富男さんとは初対面だった。番組での意見交換で、自分が求めていた農の姿勢と共感できることが多いことを知らされた。
この企画、NHK秋田局から東京に戻ったPD(ディレクター)の橋詰晴男さんから連絡のあったとき、すかさず断わった経過があった。素人真似事のつぶやきの自分と、地域で長年詩作活動している大先輩との同席等は足がすくわれるような出来事で、NHKの橋詰さんからの要請には断り続けた。他の二人が快く同意の中での断りは企画が没になる寸前だったと云う。橋詰さんとは氏がNHK秋田局に在籍してるころからの知り合い。とうとう根負けして湯沢駅から夜行で渋谷のNHKまで来ることになってしまった。
1973年11月19日「減反詩集」放送、その前が原田鮎彦氏がNHK秋田でラジオで語る「むらの詩--詩を通して透視する秋田農村の課題」、1973年9月に秋田文化出版社から「むらの詩」が出版され、同時期、朝日新聞秋田支局の清水弟記者が「出稼ぎを拒む」問題をシリーズで連載。その中で出稼ぎしない青年として「農民詩人」の名で紹介されてしまった。(朝日新聞秋田版「出稼ぎを拒む」4(1974.1.10)朝日新聞秋田支局の清水弟記者からみれば原田鮎彦著の
「むらの詩 --詩を通して透視する秋田農村の課題」出版、NHKの「明るい農村」で放送された「減反詩集」後の企画の「出稼ぎを拒む」シリーズだったから、もしかしたら「農民詩人」との紹介は当然だったかもしれない。
しかし、朝日新聞秋田版で「農民詩人」との記事に驚きで硬直してしまった自分がいた。20歳の頃農民運動と生産活動の両立は過酷で、両立できそうもない先輩たちの諸活動に反発した。その時一人の農民として生きてくことを決意した。決意したが周囲ははたして認知してくれるまでひたすらに日常を暮らすことを考えた。ただ日常の生活に流されるばかりでは現実より良くならない。当時衝撃的な岩波新書、大牟村良著「ものいわぬ農民」に刺激されていた自分は、もしかしたら何かを発言しながらただひたすらに「農民」でありたいと考えていた。その決意から約10年後「農民詩人」の名がついたことは衝撃的なことだった。「農民詩人」の名がついて、地域から「農民」としての認知が遠のくのではないかとの不安な日々だった。掲載後清水氏に抗議した覚えがある。振り返ってみてもなぜそういう感覚に陥ったのか不思議な感覚だった。あの記事掲載以降、元朝日新聞清水弟氏との交流は友人として40数年も続いている。詳細は2013年1月19日ブログ「NHKテレビ放送開始60周年関連」で紹介。
「むらの詩-詩を通して透視する秋田農村の課題」秋田文化出版社 1973.9.1 (クリックで大)
「農民詩人」の名は重かった。湯沢、雄勝中心にむのたけじ氏、西成辰雄氏も名を連ねる「秋田県農村文化懇談会」があって末席を汚していた。この会の中核に詩人グループ「第三群」があって刺激をうけていたが、私の日常のつぶやきは詩人集団に加入できるレベルにほど遠い存在。「第三群」メンバーの作品は「文学の村」誌等で多くが見ることができた。そのような経過はあったが、私のハガキやつぶやきに「農民詩人」の名は重いというより呼ばれた衝撃の方が大きかった。
当時の経営、「米と酪農」は圧倒的な出稼ぎ最盛期の中で、私の一冬の収入は出稼ぎ者が得る収入の一割にもならかった。コメの値段はこの年60k9,030円。乳価安の中で1967年8月から始めた酪農も搾乳牛がやっ5頭となり仔牛と育成牛の8頭の飼育。収入は無の状態。参考に酪農組合からの1977年10月の牛乳代金は32,033円、購買未収金32,405円だった。購買代金が多いのは牛乳量が少なく、搾乳牛になるまで育成牛や仔牛のエサ代が大きかったからだ。
米と酪農を柱にして出稼ぎはしないと言いながら収支はゼロ状態。いくらか余裕が出ると施設、設備の増設、牛の増頭へ等の繰り返し。「米と酪農」で自立を等と方向見出すまで高卒(定)後5年も遠周りで決意、一頭の乳牛導入から10年経過しても自立にほど遠い状態。
「出かせぎ拒否」と云ってもぐらついてる自分がいた。
当時の出稼ぎの人たちは多い人で月150,000円を超えてた人もいた。中には請負で作業、一日二人分の仕事をした人もいたそうだ。使う方では長時間労働を求める出かせぎ農民は重宝だったろうが、反面だから事故も絶えることはなかった。冬の村は多くの出かせぎ者でカラッポ状態。出かせぎ拒否で自立を考えても現実は過酷だった。牛をやめて出かせぎにの誘惑が棲みついていた頃だった。そんなときの「農民詩人」の名は極めて重いもになっていた。
渋谷のNHKセンターでのテレビの収録は過去にもあった。「減反詩集」放映前の昭和48年だったろうか。当時村から出稼ぎに行った青年が就労初日に事故で死亡。このニュースが流れてびっくりした。出稼ぎに発つ夜行列車に遅れると自宅前で別れたばかりだったからだ。そして出稼ぎ先で事故死の取り扱いは、あまりにもひどいものだった。わずかな弔慰金ですまそうとした。
若さの勢いで「秋田県出稼組合」の指導で東京地裁で裁判に持ち込んだ。裁判闘争の直前に「村の女は眠れない」で有名な詩人、草野比佐男氏と大学教授で、NHK教養特集での一時間番組「出稼拒否への道」の収録にNHKに来ていた。
福島県の阿武隈山地で農業をしながら詩作やエッセーを発表する草野比佐男氏に会える楽しみがあったし、「出稼ぎ」問題での討論で裁判最中の身にとっては草野氏と語らえるのは大きなチャンスでもあった。当時農民詩人草野比佐男氏の発表した「村の女は眠れない」は大反響だった。
農民詩人などと云われる前で「農民詩」の枠外の自分には、ほんものの農民詩人で農業評論家の草野比佐男氏と同席できる喜びが大きかった。
それしてもこの「土くれのうた」へ呼びかけられて決断までの経過は重たかった。木村氏は面識があるにしても、瀬川富男さんを始め、東北で農民詩人と呼ばれている人たちを、松永伍一著「日本農民詩史」全三巻五分冊 法政大学出版局 1967.10.15~1970.7.10で知っていたに過ぎない。
「土くれのうた」の冒頭は木村迪夫氏の代表作「おはんのうた」の朗読から始まり、木村迪夫氏の紹介。続いて自分の番になった。代表作は「のぼるよ泣け」をあえて変えて「ババひとりの冬」を読み上げた。瀬川富雄氏は「種モミ」を朗読紹介。それぞれの詩の朗読のバックにギタリスト萩津節男氏の音楽が流れ、3人の日常と立ち位置のビデオがながれるようになっていた。
3人の詩と地域での立ち位置の紹介が終わると、それぞれの詩作の底辺にひそむものを探る、という進み方で木村氏は「20年間、詩を書き続けてきた。百姓の傍ら、自分の生活史、精神史を言語に託すことによって生の証を立証することに努めてきた。だから、「迪夫さんはいい趣味をもっているね」とのお世辞を投げかけてくる人に対し、いい知れぬ怒りを覚える。私にとっての詩は苦渋に充ちた「生の証」に他ならない」と語った。
瀬川氏と私もこの発言に共鳴した。私の場合農民詩などとという分野の末席で恐縮している立場ながらも、圧倒的な時代の荒波でモンドリ打ちながら、抵抗し生き続けている多くの民衆の記録は書き留めておかねばならないとの想いが詩みたいな形にあった。
では何を書くのかで瀬川氏は語った「自分は農業の専門家であることの自覚と決意。農業には人間の生きる原型がある。だから、生き方が問題だ。機械化農業を拒み、猫の目農政に抵抗し、村で反乱を起こし土に生きている。この怒りをノートにたたきつけている」と力強い。
書くことに木村氏、瀬川氏とほとんど共通点があった。私の場合は詩を書き続けるなどというものでもなく一年で2回ほど年賀状、暑中見舞いの形で知人、友人に送っていたのを「ハガキの弾丸」などと一人で位置づけしていたことを話した。
もうビャッコ我慢してけれ
暑ぐて 暑ぐてひでぇのも
もうビャッコ我慢してけれ
稲の穂っこ出て 花っこ満開になったから
米の歴史 それぁ何百年何千年も前から
増産するごとだったべぇさ
それが 今年さなったば減反しろどォ
「健康な稲つくり運動だ」
「750キロどり稲作だ」
いうもんだから
皆してスピードだして頑張ってたなだぞォ
それがしゃ 行先も教えなえで
曲がれだの 止まれだのという
そんたわけののわがらなぇ話なぇべと
お天道様にさ訴えただば
今年の天気 まがせておげと言った
それで多分 こんたに暑ぇなべと思う
んだがら不調法な話だべども
もうビャッコ我慢してけれ
悪りなぁ
1970年 盛夏
ハガキの弾丸の内容にはふれなかった。それぞれの地域で農への取り組みは多くの共通点を再確認でき、テレビ出演拒否し続けたことから解放されたさわやかな気分は、忘れられない想い出になっている。番組の最後は3人の作品の朗読。また萩津節男氏のギターをバックに私は「出稼ぎをやめてけれ」、瀬川富男氏は「農による拒否」、木村迪夫氏は「雪」を語りかけるように読み上げた。
「出稼ぎをやめてけれ」は、地元青年の事故死の裁判中に、同じ町の先輩が出稼ぎ作業中に事故死した。いたたまれない思いから訪問。息子の事故死で疲れ切っていた家族にとっていきなりの訪問にとまどいがあるように思えた。できればソッとして欲しいと訪問を拒絶されたが、数回目からはいろいろと話してくれるようになった。そのことを書き留めた悲しい怒りのつぶやきが「出かせぎはやめてけれ」になった。この年秋田県の出稼ぎ死は、その年の交通事故死よりも多く、99人にもなっていた。
出かせぎはやめてけれ
降る 降る
まいにち まいにちの雪
豪雪だと 六十年ぶりの大雪
わずか雪の晴れ間を
若者のいない行列がゆく
真新しい雪道を
年寄りの無言の足跡ができる
東に鍋釣山 国見岳 大森山
西に雄長子内岳 雌長子内岳 朝月山
かかえきれない雪を背負って
空白の重い 稲川盆地
疲れた黒い弔いの行列が過ぎて
新しい雪道がまた消えてしまうと
百五十三年ぶりに鳥海山が噴火した
出かせぎはやめてけれ
今年みだいな大雪だば
年寄りと子供だけだば
心配で 心配で
やめでけれ あどはやめてけれ
田圃一町三反歩 畑三反歩
これだけでなば暮らしていがれねぁどて
出かせぎ始めた息子 十三年目
人の話だば
今年限りで出かせぎやめる
そう言って出ていった
家など新しぐなくてもえ
雨漏らねばそれでえぇ
出かせぎやめでけれた
ああ その息子死んでしまた
埼玉さ行って死んでしまった
電話のケーブル工事で死でしまった
やっと保育所と一年生のわらし残して
昭和三六年 初めて東京 小松工務店に出かせぎ
同 三七年 米がダメだと 再び小松工務店
同 三八年 後継者難だと 埼玉町田建設へ
同 三九年 米不足だと 埼玉ホンダへ
同 四十年 冷たい夏 本田技研へ
同 四一年 稲作グループ誕生 埼玉木村屋へ
同 四二年 10アール12俵達成 東京三協土木
同 四三年 今度は米はいらねぇという また三協へ
同 四四年 米価ストップ 東京清水工業へ
同 四五年 減反強制 千葉高元建設へ
同 四六年 ドルショック またまた清水工業へ
同 四七年 米不作10アール8俵 埼玉国際無線へ
同 四八年 農業見直しだと 国際無線へ
農業基本法 構造改善事業 選択的拡大
専業経営 規模拡大 農工一体 総合農政
減反政策 農振法 農業見直し論
幼い兄弟は無心に虹を追っかける
観音様の杉の上に虹を見つけて
雪原をどこまでも走り続ける
虹は追えない 追われない
追えば泥だらけ 傷だらけ
虹の根は追えない 追われない
虹の根に宝などはない
出かせぎ 出かせぎ十三年
十三年、、、、、、
読み上げて汗びっしょりだった。息子を亡くした父親の悲しみを柱に、その時の閃いたやるせない想いを素直な気持ちで表現した。13年間の出かせぎ先は創作。一人の壮絶ともいえる「生」の表現に消化不良の感は否めない想いが強かった。亡くなった一つ違いの先輩とは当時の青年会、農近ゼミの仲間だった。出かせぎに行きながらも「農での自立」語ってくれたあの時代が想いだされる。
自分の手元から発信したのは数枚の「暑中見舞い風ハガキ」と「年賀状」に「のぼるよ泣け」、「ババ一人の冬」、「出かせぎはやめてくれ」だけだ。20代の頃の未完成の走り書きは大学ノートに埋め尽くされてはいるが、「土くれのうた」収録放映後、私は「詩」のような日常の「つぶやき」を記録することができなくなってしまった。
未完の「減反詩集」はいつ、、、と云われ続けながらも。
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