最初に、「言葉を書き換えることと差別をしないことは全く関係ない」ことについて書く。
障害者はいつの間にか「障碍者」になりやがて「障がい者」になったようだ。僕は善人ぶって言葉を変えると中身が変わると信じる人たちに敵対したいので障害者という言葉を使う。
言葉を変えて使うことは悪くない。だが世の中には変えたくない人もいる。その人たちをおせっかいにも差別者呼ばわりして、自分は良い子になりたがる知能の低い人間たちが日本に増えてきた。
一般論で書くと長くなる。ただでさえ文字を読まない人たちが最後まで読むはずなく、中には読解力がなく興奮する人がいる。僕は「そんな人たち」を介助しない。
家のばあちゃんはきわめて頭がよく戦前の女学校では首席だった。最近の学校は席次をつけない。バカ、バカが教員をするから高校まで保育園化する。一番をほめて何が悪い。ビリは屈辱を十分感じるべきだ。でないとバカのくせに一人前の人間だと錯覚して大きな顔をする。形式平等主義になり日本の競争力をそぐ。
母も成績がよく選抜され、新京(満州)に行き愛新覚羅溥儀に拝謁した。頭は丸暗記でごまかす女によくあるタイプで将来性はなかったが、とにかく成績はトップだった。
ばあちゃんは残念なことに目が見えなくなった。しかし戦前の教育は本当に差別なく、容赦なかったが、ばあちゃんはとくに数学においては抜きんでた成績を残した。さらに、ここが大事なところだ。ここまで読む人は一定の理解力のある人だ。期待して書く。
ばあちゃんは退学になった。めくらはいらんそうだ。この厳しさも激しい競争の中にいる日本には必要で妥当な判断だった。
無駄にはならなかった。
僕はめくらのばあちゃんから数学を習い、およそだれにも負けない理解をすることができた。僕はどうしても書かないと問題を解けない。頭の中だけで考えると分かったつもりになるのだ。ぐうたらは手を動かさない。バカの悪循環がおこる。僕はその逆だ。
じゃあばあちゃんはどうして頭の中だけで出来るんだろう。僕は恥ずかしかった。恥を知ることで人間は大人になる。
障害者にはだれにでもハンディをやろう、人一倍気を使ってやろう、・・・それが障害者をspoilする。人間は誰でも中国人以外は遠慮とか、謙遜とか、惻隠の情がある。障害があってもそれを持つべきだ。
いいスローガンじゃないか。こんなことに文句を言っていい気になるのは大人の国ではない。
「障がいは言い訳に過ぎない。負けたら、自分が弱いだけ。」
春寒やぶつかり歩く盲犬(めくらいぬ) 村上鬼城 村上氏も障害をお持ちだ。さあ、差別者として糾弾してみろよ。