人間は弱いのだ。とくに男だったり、若かったり、コンプレックスがあったり、ハンディがあったり・・・
上に例示した中で、ひょっとすると、「男」とか「若さ」が弱みになることに違和感を感じた人もいるだろう。
今回、若さについて。
認めたくないからよく考えてこなかったのだ。若者には怖いものが多い。一人前でありたい、失敗して恥をかくのは嫌だ、まだ知らないことが多い・・・
その怖さを「階段」は見逃さない。地位の階段を上らないと、安心や、満足や、優遇や、充実とかとは縁のない、わが子にすらバカにされる人生になるから、と囁いてくる。
仕事の内容は変わらなくとも、販売員のプレートには店員とか係長とかナントカ試験合格者とか、コレコレ資格保有者とか、しまいには課長補佐だとか、候補だとか、充て(あて)課長だとか。・・・幻なのに。
幻だろ?
世の中は人間を安易に競争に駆り立てるために階段をだんだん小刻みにしてきた。若者は無益な競争に駆り出され、負けきるまで走るのをやめない。
敗北感と徒労感が残る。地位の階段が幻なように敗北自体が幻なのだが、深い劣等感となって一生をさいなむ。
ここで僕の意図を読み違えるバカが必ず出てくる。ぼくが言いたいのはこうだ。
他人が作った階段を必死に登ろうとするあまり、人生の貴重な時間を浪費して大脳皮質を劣化させついには働く意味も価値も目的も見失い、ただ階段を上がろうとする独楽鼠(コマネズミ)に化してしまう、その予備軍が若者であるというのだ。
だから、頑張るなとか、逃げろといつ言ったか。
人の弱みに付け込んで利用しタダ働きを奨励し、幻の階段を上らせて「地位」なるものを獲得したと、あるいは、価値ある人生を過ごしていると錯覚させる社会。そんな人工物に過ぎない「階段」を崇め奉り、一段登るごとにえもいえぬ幸せ感に酔い本質を認めたがらない「弱者」。その弱者には年老いてリタイアするときに何が残ろうか。
分かったうえで競争しろよ。
返す返すも小刻みな階段に劣等感や優越感の根拠を置くなんて、はなはだ情けない。目障りな奴らだ。
資本主義は差別によって成り立っている。システムに埋没して何とか差別できる側に回ろうと、なりふり構わず働き課長というステージにやっと上がった人間は、階段を上るごとに忘れ物をしてる。
おまいらのような下品な人間はいかに出来上がったか。登ってきた階段にひとつづつ置いてきたもの。それは優しさ、温かさ、不公平を怒る心、負けた者への心の痛み、人は利用するものではなく助けるものだということ…つまり人間性。
多分、退職と同時にむなしさに気づく。死ぬしかないな。
ぼくは風呂に入る。
からけんは後ろ姿にも気品が漂う