たとえば英語。
バカの言い訳は十年一日だ。「外人と付き合うことないから、英語を話す機会がないから英語の授業は必要ない」とか「何年習ったって会話ひとつできない、役に立たない」。
つまり無駄だというのだ。
こんな屁理屈を言いだす子供の親はたいてい子供と同じ頭脳である。しかし、アホ子と違いその子のアホ親は、学歴社会を身をもって体感し、もはや挽回不可能な位置にいることも実感している。小言は出る。
アホ子にはお説教にしか聞こえないがこう言う。「よか学校に行かんと一生苦労するとよ」
学校の成績が悪いと頭の訓練ができてないから社会はそんな人間に期待しない。牛馬に代わる仕事しか回さない。
親子の意見は平行線だ。
子。 「だって英語いらんもん」 親。 「母さんみたいになりたいとね」
ポイント
この親子の基礎認識は、じつは共通している。
学校の存在理由を目前の実用性で判断している。
「なぜ古文やらあるとよ、要らんやん。助動詞の活用ば覚えたっちゃ、いつ使うとよ」
ぼくがそのアホ屁理屈をもっと強化してやろう。それを言うならぼくも「根の公式」は卒業以来使ったことがない。ましてやタイムスリップして平安時代に行ったことがないから助動詞の活用を覚えることも無駄だった。F=mαを考えながら運転することもない。
つまるところ学校は無駄なことを覚えるところだ、という。屁理屈はとどまらず、ついには、学校は間違った教育をした、だから学校の成績が悪いのは人間性と関係ない。そもそも成績で人間を判断するなんて間違ってる。・・・
こんなことに共感するからアホなのだ。
どこまでバカなんだろう。
学校というところには、実用性とか、たとえ応用性ですら、一義的に必要なものではないのだ。そんな実生活の些事よりもっと大事なことがあるから学校は存在する。自動車学校とは違うのだ。自動車学校は努力と免許が直結している実用的な学校だ。だが、名前が学校だからと言って混同するのは早計だ。
「もっと実用になるのを教えるのが学校だろ」
こういう考えが蔓延する社会は下品だ。
たとえば、ある事象や物事があって、この物事の仕組みはどうなっているのか、と問われたとき、知識で対抗するのは簡単だ。だが感動はない。
物事を正しく深く認識したとき、なるほどなあという感動を覚え心が震える。そのとき、その人は少し良い人になる。
なぜなら、ほんとうに仕組みが納得できるにはそのものの歴史を知らなければならない。すると発明発見した人の努力の上にこんな機械や仕組みがあるのだということが分かる。これに感動しないはずない。
それが分からないならパスツールがしたことは単なる児童虐待だろう。フランクリンは電気事業法に違反した人か。ニュートンはリンゴが落ちるのを待ってた人か。
お分かりのように、断じて違う。サイエンスの先駆者たちの恩恵がいかに大きいか。いうならば、生活のすべてをサイエンスのおんぶにだっこだ。
当然に科学者に対する尊敬と科学に対する畏怖の念が生じなければならない。
何もそこいらのバカを学者にしようとして勉強を強制するのではない。
モノを考えるときの真面目さを育てたいのだ。
それでも、そんな頭は不要だという人がいるだろう。その人に言いたい。
そういうあなた自身、人類の文化遺産なくしては一秒も生きられないのだ。ならばその文化遺産に敬意を払うのは当然だろ。あなたがなぜそこにいて何のために生きるのかを知らせてくれる、知る能力が与えられる。そんな素敵な学校という場所に実用性が必要か。
現実の学校の実態は、その本質と程遠い。安部の写真を多く載せたら教科書に採用される。現実の制度に欠陥は多い。
だから学校は不要か。違う。だからまともな学校が必要なのだ。