j.m.Keynesのおひざ元で世界大恐慌は猛威をふるった。ケインズは莫大な公共投資による有効需要の創出でこの危機を救おうと考えた。つまり税金や国債の発行により集めたカネで国営の事業を行い失業者低所得者を雇い彼らの使うカネの波及効果に期待しよううというものだ。
たしかに資本主義は制度疲労をおこしていた。A.smithの夢見た「見えざる神の手」には期待できない。需要と供給の予定調和による均衡は産業資本主義時代のまぼろしとなった。
しかし、ケインズに対する毀誉褒貶は定まっていない。ルーズベルトはその結果を待つことなく戦争に突入したからだ。兵役こそが最高の失業対策事業となった。あまった労働力は死んでくれた。我々はケインズのニューディール政策の結果を見ることはできなかった。
世界大恐慌のあおりを食った当時の日本には公共事業をする力はなかった。すべては軍備増強に向けられた。ところがファシストたちの小日本は長く続くことはなく、終戦後は節操もなくかつての敵国にさっと乗り換えた。
このとき頭角を現すのが吉田であり池田であり佐藤であった。彼らはなぜかケインズ流の大きな政府による公共事業の邁進に固執した。
彼ら要するに自民党政権によるみさかいのない公共事業で国土の荒廃は完成した。公共事業がでたらめだとか不要だというのではない。素晴らしい公共事業がなされている。山は削られ林道は生態系を遮断し、ほとんど係留しない港に数十億円が投じられている。漁港は必要だ。だから整備は不要ではない。問題は展望がないことだ。なんの計画性もない。あと十年もしてみろ。ほとんどの漁港はだれもいなくなる。
こう言った既得権とか前例とか予算消化とかで膨らんだ政府の機能を小さくしようと立ち上がったのが小泉だ。もちろん彼一人の発想ではない。Margaret Hilda Thatcherがその剛腕でイギリスを立て直そうとしたのをまねたのにすぎない。国民は小泉に喝采を送った。今日の政治の失敗をすべて民主党に着せようとする動きがあるがあまりかしこくない。格差と貧困は小泉が作った。民主党はその無能が故に小泉の失政を正せなかっただけだ。
サッチャーも同様だ。鉄の女は一握りの富裕層と度を越した弱肉強食の社会を生んだに過ぎない。貿易赤字は彼女の首相時代にむしろ膨らんだ。
熱狂的支持を受けて登場した小泉とサッチャー。格差と貧困は次の政権への持ち越しの課題となった。
ただ、両国を比べて言えることは、イギリスは大きい政府でもない小さい政府でもない第三の道を模索しているということ。日本は政党の勢力に押されて中間の落とし所を模索しているだけだということだ。
イギリスの第三の道には大いに参考になることがある。
社会主義的政策は結果の平等に重点を置いた。「皆さん一律なんとか」という政策で本当の社会主義国ですらなかなかしなかった愚劣な政策だ。それに替えて機会の平等という概念で対抗している。例えば受験機会は保障するが成績によって差別します、ということだ。
福祉政策も形式的平等によるところの障害者にはみさかいなくお金あげますといったNegative Welfareから社会参加意欲に対し福祉を行うというPositive Welfareの考えに変わってきている。障害者だからといって何もしないで障害年金のもらい得はゆるさないとした。
今日日本で何一つ公約が実現できないのは民主党が無能だからだ。しかしその責めを有権者に帰する論調には同意できない。今日の社会矛盾は民主党が作ったものではない。