か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

1936年2月26日 雪

2012年02月01日 | 東洋歴史

その日の朝、雪は解けて歩道はぬかるんでいた。靴についた雪で足先はしんしんと冷えた。美濃部亮吉。東京都知事選挙で石原慎太郎にいずれ勝つことになる男だ。ついて歩くもう一人がいる。崔さん。二人とも東京帝大の学生だ。東京高等師範学校附属小学校から中学校に進んだ輝く学歴の持ち主たちだ。

崔さんは朝鮮人だ。同時に三人の朝鮮人が東京帝大に合格したが日本は朝鮮人が集まることを恐れて朝鮮人達をばらばらの大学に通わせた。そこで残った崔さんと美濃部さんは自然と引き寄せられるように友人になった。

美濃部さんのお父さんが息子よりも有名だ。美濃部達吉、「天皇機関説」事件の渦中の人だ。貴族院議員だった彼はこの事件によって議員の地位を失う。明治憲法をできる限り民主的に解釈することで専制政治を防ごうと考えたのだが、頭の悪いやつらとごますりどもが美濃部さんを排除してしまった。天皇はフランクなものでそれでもいいではないかという程度であった。

いきり立つ貧乏低能をよそに美濃部さんは隠遁して豊かな老後を過ごした。白州次郎さんとも仲良しだったらしい。

話は戻って崔さんと美濃部さん、びちゃびちゃの道を歩きながら言い争っていたのだ。銀座には黄河という大きな喫茶店があった。まださすがに東京には大正デモクラシーの余韻があった。あの女給(ウェイトレス)には手を出すなよとお互い譲らない。東大生も子供のようなことでむきになるのか。かといって喫茶店に入ると二人とも何も言えなくて出てきてしまう。

東大をだしにやりまくる現代と違い何ともほほえましい。二人の東大生の淡い恋はやがて軍靴の足音にかき消されてしまう。美濃部さんは東大の先生になるが徹底した尾行に心休まるときがなくなる。崔さんも朝鮮に帰り大学の先生になるが美濃部の息子と親しかった朝鮮人を特高(特別高等警察)は見逃さない。大東亜戦争が、朝鮮戦争が二人を疎遠にした。

崔さんは戦後も大学教授を続けた。定年退職すると僕に韓国語を教えてくれた。タダで。僕の韓国語がだれにも負けないのは崔さんのおかげだ。創氏改名のことを聞いたら、ありゃ職のないやつらのために日本がとった便法だと笑った。

女給さんどうなったのかな。東京大空襲は大丈夫だったかな。

二人が靴を濡らし皇居の方に歩いていくとめずらしく交通整理の警察官がたっていた。何事かなと思ってそのまま歩こうとすると戒厳軍が来て追い払われた。このときの戒厳軍司令官が香椎浩平中将だ。

私事ながら彼は戦時中は僕のうちの近くに予備役として疎開していた。陸軍幼年学校からのスーパーエリートで超資産家、豪農の息子だ。別荘も近かったが今はなくなった。西日本一の別荘地であるから、2.26は貧乏と金持ちの争いだったようだ。方や借金に借金をかさね、妹は身売りをし、来年の種もみにすら手をつける極貧の中で東北人の期待を一手に背負い士官学校に通う将校の卵たち。世の格差に憤らない方がおかしい。くやしさをかみしめる安藤大尉がいた。


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