か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

当所神社

2019年01月03日 | 日常
今、当所神社から帰った。福岡県朝倉郡筑前町当所。

毎年のことであるが、この神社は面白い。僕はこの神社を楽しみに正月を迎える。土地の古老や神職の方と話すのがとても面白い。
 
神社裏の池
 

占い好きのアホ女子=内縁の娘によると、何を根拠にしているのかわからないが、ここはパワースポットだそうだ。
 
 
 
神職みたいな人が出てきたので、霊験あらたかなこととか、日本人の清き明けき心を言われるかと思ったら意外なことをおっしゃった。
 
 
以下神職みたいな人の話

高校生が、この当初神社に合格祈願をして見事合格したのでお礼を言いに来た。その子は以前、太宰府天満宮に祈願したが、その時受けた学校は不合格になったそうだ。

(僕は又出た神社の自慢かと思いながら聞いていた、ところが)

けしからん、自分の将来を人頼み、神頼みにしてどうする。自分の力で合格しないと意味がない。受験するということは、自分の力を発揮して真剣勝負をすることだ。
 
あなた(受験した高校生)が今まで十分努力してきたからこそ合格したのであって、神社はあなたの実力以上に何か力を与えたことはない。

神社のおかげで合格したなんてありえない。

神社としては、あなたがやる気を出すために利用していただくのは結構なことだが、自分の力で合格したんだということを自覚しなさい。努力をおろそかにして神頼みしようとする考えには同意できない。

以上
 
神社の焚き火は暖かく燃えていた

 
 日本人はその場を壊さないようにどんな人の言うことも同意したような態度をとる。ましてや話題が相手の立場にかかわることなら極めて慎重に発言する。ここでは神社にお礼を言って無難にやり過ごそう、と思うものだ。

しかし、そのような自分を消した態度が思考の深まり、議論の深まりを妨げる。分かっちゃあいるけど穏やかな人間関係のためには少々の不同意も隠し「ごもっとも、ごもっとも」と相槌を打つ。

漱石の言うように、情にさおさすと流され知に働けば角が立つのだ。しかしこの爺ちゃん神職は、思ったままに発言するからきわめて言葉が重かった。
 
僕はもともと人格者だったが、年とともに僕の人格と識見はその完成度を増しこのごろは「丸くなったなあ」と自分自身を振り返ることが多かった...

バカ言え。そんなこっちゃあ、いかんのだ。青天の霹靂とはこのことか。いい神社だ。

いろんなものが奉納されていた。

よい大根。僕は好きだ
 
 
よい男根、いや大根。ぼくは、負けました。

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