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か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

涙あれども語り得ず 愛新覚羅顕シ 川島芳子

2012年12月01日 | 東洋歴史

清朝の元祖ホンタイジから分かれた溥儀と顕シは歴史の渦の中で、救いを求める二枚の木の葉のような人生を送る。その二枚の木の葉は別々の渦の中に沈んでいくことになる。

溥儀の一族が麻薬漬けになって廃人と化していく中で父親粛親王の14女である顕シは父親と親交のあった川島浪速の養女となる。川島芳子が誕生した。語学を始め優れた成績を残している。

若いころは馬に乗って学校に通ったり、モンゴルの有力者と結婚してはすぐ分かれたりずいぶん奔放な生活をした。義父となった浪速は中国語に堪能で日清戦争の時の通訳を務めるほどで、子供もなく芳子をほしがったようだ。芳子は愛新覚羅家の再興を図り勢力を伸ばして清の再興を図り中華民国の力をおさえることが目的だった。

ここで奇妙にも浪速と芳子の利害は一致した。

当面日本軍はできるだけ侵攻して中華勢力の力をそぐことに集中すべきだと芳子は考えた。清すなはち愛新覚羅家の再興はそれからしかありえなかった。すでに柳条湖事件によって満州には十分の権益を強引に確保していた関東軍は、世界からの批判が高まるであろうことぐらいは自覚していた。

つまり芳子と陸軍はまさにほんの目の前だけの利害が一致していたのだ。清の再興と国民党の排除は、しばしの間同義であった。その自覚のなかったのが小帝国の臣民たちであった。男装の麗人と持ち上げておきながら敗戦後は見向きもしない。

小帝国は上海に事変をおこし事を複雑にして満州から世界の目をそらす必要にかられた。上海事変である。上海には「よい」日本軍がいるのだと。現在でも脳の容量の少ない人は、日本軍は上海で「よく」戦ったということで満足しているようだ。ならば南京でもよく戦えばいくら殺してもいいことになる。

その勢いなら成都だろうが楼蘭だろうがイスタンブールだろうが攻め入ってよかったわけだ。上海から南京は一連のものとして把握しなければならない。

この上海事変のきっかけをでっち上げたのが田中隆吉である。小帝国の少佐だ。田中は川島を愛人にして日中の衝突事件を演出する。川島の人生からすればホンの一瞬のことだったが、戦後の戦犯裁判では決定的に心証を悪くした。

田中はマッチを擦ったのだ。あとは憎しみ合う両者の間に自動的に戦火は広がった。その最初の火付け役に川島は一枚かんでしまった。日本人僧侶を中国人殺し屋に襲撃させた。

暴動は帝国の海軍陸戦隊を上陸させ、正規軍同士の衝突となった。小日本陸軍の思うつぼだった。思う壺でありながら十分な戦果もあげられず、兵隊の逐次投入をしてここでも意味もなく日露戦争以上の兵隊が死んだ。小日本の国内は勝ち戦に沸いた。井底の蛙は悲しい。

戦後田中は連合軍側の証人に回り多くの将兵を絞首刑にした。もちろんこんな人間が川島の面倒をみるはずはない。妾も守れない最低の人間だ。

川島芳子の戦犯裁判は共産党が迫る中わずか3回の公判で銃殺刑が決まった。日本人の養子に行っていることを証明する書類を浪速に要求するが返事が来ることはなかった。

 

Posted at 2012/02/25


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