か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する   14

2015年12月14日 | 韓国

 

(前回のあらすじ  戦前、朝鮮にみどりを増やそうと誠心誠意努力した男がいた。浅川巧(たくみ)柳宗悦らと協力して土壌と品種、育苗法の改良に努めた。国家としての朝鮮の将来は、地政学上の力学の結果に過ぎなかった。小日本は、朝鮮の発展に関心はない。帝国の発展に利する限りにおいて、朝鮮の発展に関心があるのみであった。

これをもって共産党、社会党崩れは欧米列強の植民地主義と同等の日韓併合を論じる。

日本は、柱時計のねじを巻くために頼りない踏み台を強化する必要があった。

但、そのことをもって朝鮮に人生を捧げた多くの日本人を、そもそもいなかったもの、あるいは朝鮮侵略の尖兵であると見るのは、あまりにも彼ら苦悩した人たちに失礼ではないかと思った。)

前回の続き

巧の松

巧は林業の発展に全力であたる一方、陶磁器の形に関する研究・調査を手伝うなかで朝鮮民芸の美しさに魅かれ始めた。流暢な朝鮮の言葉で人々と親しくなり彼らと同じ民族衣装を好んで着、誰も差別しない態度で一貫していた。

「出張に行ったところに困窮している青年を見つけると官庁へつれてきた。何とか仕事を与えよと願い出ることもあった。俸給は満足できるものではなかったが、多くの苦学生を金銭的に支援した。」国立森林化学院の職員だったハンサンベ(74歳)は巧みとともに仕事をしたという父親や先輩から聞いた話をよろこんで語った。

巧が1931年4月、急性肺炎で40歳で夭折するや村の人々が別れを告げようといっせいに集まったし、出棺時、館を持とうとする人々は並んでその役割をまった。列は長くなり数え切れない人が並んだという。

巧がこの世を去ってから80年がたった。昔の森林科学院を訪れると本館玄関前に巧が試験栽培をした松が朝鮮戦争の被害を免れ高さ25メートルの巨木に生長している。たくましい枝が伸びている。そこから近いマンウリ基地にある巧の墓に職員達の募金で建てられた記念碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に行き続ける日本人ここ韓国の土になる。」と刻まれている。

出所  「朝鮮を愛した日本人」浅川巧、旧 朝鮮民族美術館

 

次回用のメモ  10から

 

 

 

 

 

 

 

 


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