人間が動物と区別されるのは、道具とか火とか言語とかを使用するかしないかによってである。学校ではそう教える。それは嘘である。
目に見えるものを例示して、劣った子供にも理解可能なように配慮したものであるある。今日そんなバカなことを信じているのは勉強しない地方大の教員のみだ。
本当は抽象力である。これを持つか否かで人は動物と区別される。やさしい犬はいる、思いやりのある猫もいる。だが彼らに制服を着せて高校に通わせたりしない。部活だけしかない高校になら入学できる。
正月は子供が都府楼公園で凧揚げをする。さらに頭上高くジェットが飛ぶ。
飛行機と凧が異なることは分かる。しかし、共通性については小中高をかけて段階を踏んで学んでいく必要がある。揚力を学び(小)重力とのベクトルを学び(中)ベルヌイの法則について(高)学ぶ。
そこで見出すのが両者の共通性だ。とくにその共通性が表面からは分からないとき、この抽象力というのがいる。
人の話をまとめ、ポイントはどこにあるのか考えながら聞きいわゆる抽象力を発揮して、思わぬ発想からダメと思っていた解決策が浮かんだりする。これはタマやポチにはできない。
なぜ劣った人間は事実をほしがるのだろう。深く考えてないからだ。分かりやすいのに飛びつく。
真実は抽象の果てにある。表面にあるのはたしかに事実である。僕らは事実の細かさが真理への道程だと錯覚する。
そうではない。見えていないものを見えていなかった法則でつなぐとき法則の発見と真理への接近という喜びを得る。
先日、うちに間違って産経新聞が来た。かと思ったら朝日だった。ポチやタマがどんなに犬らしかろうが猫らしかろうが興味ない。それは歌会始についてとともに次回。
Amebaの記事を読むとあいも変わらずビビンパがどうした明洞の美味しいお店がどうだ、とホントにおめでたい。日米韓の外務大臣会談、南北会談なしに日韓関係をビビンパや韓流ドラマで語ろうという斬新さに感激するが、何の抽象もなくものになる知識の発見はなおさらない。
中国の小学生の遠足の感想文を読め。人々の動きに目を止め、人の心理を推察し、時間軸を立て、自分の将来に向かっての生き方にどう生かすか考えている。
韓国に嫁いだ婆が、ジュノだヨンホだグンソクだ・・・。婆が韓国に行ってよかった。
日本人は仏像も島もカネもとられ、強姦魔の子孫にされる。本当は安倍は平昌をボイコットすべきだった。何の話か分かるか、ポチやタマ。