ぼくの親はぼくを医者か弁護士にしたかった。それ以外は認めなかった。迷惑な話だ。ぼくは学校の先生になりたかった。
そうしているうちに家庭は崩壊し、僕は路頭に放り出された。悔しかったが当面は公務員として糊口をしのごうと考えたのだ。
そのころ、教員に限ってはでたらめな行政がなされていた。マッカーサー民主主義にかぶれたあほ教員が多く、戦争未亡人のうちから学力のあるものを生活保護の一種として大量採用した。変な理屈だ。戦争未亡人を救うと民主主義が成立するらしい。
定年制がなかった。これでは採用はほとんどなくなる。階段を登れない先生、黒板に字が書けない先生、つまり先生をしてはいけない先生が死ぬまで先生をした。これも組合民主主義だそうだ。
そのほとんどない採用も、先生の子供とか地域ボスの推薦とか学校内の教科の話し合いで任意に決まった。本人の実力とか適正とかとは全く関係なく。(クローズドショップ制)
あまい汁なのだ。定年がなく痴呆でも働けるしその上ヤミ退職金がある。これは本来の退職金にほぼ匹敵した。100年以上の歴史がある伝統校は総理も出たし国会議員などは50人もいる。だから何でもできる。
なんてったって夏休み、冬休み、春休み、農繁休暇、試験休みががる。文化祭体育祭は高校になるとほとんど生徒が自分たちでやる。3年の2月3月はなぜか休み。それに午後の授業は帰宅してよいという先生が多かった。(僕の出身校だけの暗号、もうかり)
ただし、生徒は今より優秀だった。
こういう腐った教育界を日本社会党は既得権として固執した。
したがって採用なんて年に数人だった。福岡以外の田舎の県ではコネ採用で採用人数が埋まってしまう。ぼくは2年間連続で佐賀県の採用試験は1番だった。なぜ順位が分かるか。合格は僕一人だったから。ところが不合格者から採用した。
もちろん僕は腐らない、あきらめない、ぼくを採用しないはずないという確信があった。1番だから。
福岡県は組合に対して、こっそり順位を発表していた。ぼくが2番だったとき、番外と4番が採用された。
もちろん僕は腐らない、あきらめない。
ぼくはそんな泥沼に苦労して飛び込みたがっていた。しかし、銭はなくなるし、健康も害し、精神も害してきたのでとりあえず採用がある公務員になった。(緊急避難)競争率は数百倍だったが2年がかりで合格した。
ひねくれ劣等感が読むのはせいぜいこのあたりまでだ。
勘違いするなよ。頭が良かったのを自慢していると思う程度の低能は読むなよ。頭が良かったのもその通りだが、主たる合格要因は努力だ。
病んだ人を扱うのは嫌だし、ひとのトラブルで稼ぐのも嫌だ。だが公務員になってはじめて自分の本当の特性を知った。
ぼくは人に威張るのがヘタだ。負担だ。人がへつらうのも嫌だ。
病気になって辞めた。が、少し金がたまったので再び教員を目指した。
教師になってみると、自分の希望のすべてが満たされた。生徒が分かったという顔をする時以上の幸せはない。40人が僕の言葉だけで感動したときはかわいい彼女からコクられた時の喜びに匹敵する。
ぼくは自分の経歴を言ってるのではない。それを通じて教育の現状と理想を語るのだ。教師になりたくない人も、そういうあなたも自分の子供の保育士であり幼稚園、小学校、…の先生であることからは逃げられない。