この頃フリーマーケットは流行らない。netがほとんど全家庭に普及している昨今、早くも時代遅れの売り方になったようだ。はやり始めのころはまぐれのように素晴らしいものが出た。今はあまりそんな利点はない。
せっかくリュックを担いで福岡から1時間もかけてきているのだ。なんかいいものがほしいと思って物色した。
赤い鳥の作家が全部素晴らしかったとは言わない。しかし場違いはいないし、子供向けだからと言って手抜きをした作品はない。表紙のデザインは大正ロマンだ。
姉が読みかけたこの本をまだ字の読めない妹たちは眺めた。そして少しづつ読めるようになり挿絵と物語はつながった。と、こんなことが日本中どこにもある風景だった。
子どもを子ども扱いしない。これは、子供の能力を開花させる思想だ。
もちろんチンピラ予備軍もいて大体においてそのまま不良になる。不良になってカツアゲで一生を過ごす。例外はいる。いるにはいるが皆無と言って差し支えない。気違いは改心しない。そんな成長途中で真人間になるなら僕は神になっている。
ただ、戦後にはやる面白半分のお遊戯会のバカ騒ぎの中では、事なかれを願う校長と無学なモンスターペアレントが喜ぶ。モンスターペアレントは学がないので分数の足し算ができない。だからどうでもいいことにいきりたち学校へのコンプレックスの個人的はけ口にする。
子どもはもっと考えている。鈴木三重吉の名が見える。「ごんぎつね」を改ざんした人だ。原作南吉原と比較すればどんな良い教材になるだろう。
貧乏日本が精いっぱいのカラー装丁にした。坪田も森も彼らの名を冠した文学賞がある。
農業公園というだけあってさすがプロが育てた花だ
さて、話の続き。
バカはここらでお茶を濁しておけばよい。こういう姿勢が今日の教科書検閲にありありと見える。教科書が簡単なのだ。絵ばっかりで低脳のペットブログと同じだ。
文字なんぞ、実のところ滅んでもよい。漢字もなくせ。中国みたいに表音化するか。絵があればペットとグルメと服と雑貨の紹介はできる。
ただ、思想はできない。思想がないと人は便所虫になる。上からくるくそを待つだけの人生がいくら快適でも人が虫になって満足なはずない。