か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

熊本ツーリング Ⅵ  熊本を助けるな

2017年06月05日 | 事件事故

人の不幸を覗きに行こうなんて余りほめられたことではない。益城町。遠くから見た限りでは、古い家の被害があきらかに大きい。ぺしゃんこの家も残っていて、まだ片付いていないところも多い。一方で、隣り合わせに何ともない家もあった。

僕は災害というのはごく直後の緊急事態を除いては、自力更生が本筋ではないかと思う。自己救済ともいう。

なぜなら人は他人を助けないからだ。身内であっても助けない。したがって身内という概念はもはや消滅している。

いやいや、人は助け合って生きているのだという人がいる。こういうのは、耄碌した公民館長の訓示によくあるじゃないか。

「人」という文字をよく見なさい、一つをどけるともう一つも倒れてしまうのです、だから助け合いは大事ですと、日本の津々浦々で何万回も繰り返されカビの生えた言い草だ。

ごまかすでない。じゃあ、僕は不幸だから助けてもらおうじゃないか。障害者がいるからボランティアに来てくれないか。

3年、5年じゃかえって迷惑だ。へんにそのボランティアを含めた形で生活のリズムが出来あがると、そのあとがどうしようもなくなる。

人を助けるとは一生死ぬまで助けることだ。僕は言う。それができないなら何もしないほうがよっぽど人助けだ。他人の人生に土足で入ってきて飯を配り掃除洗濯をして、飽きたらさっと帰る。こんなむごい話があるか。

益城のものは死ぬまで益城に住むんだぞ。ちょろちょろ1,2週間善人面しに来て、いったい誰のためになると思うのか。

第一、ずっと熊本に生きてきた者は、自分こそが自立してない坊ちゃんジョーちゃんとは違うぞ。そんな都会の、火も起こせない、飯も炊けない良い子たちに同情されたくない。

僕の知り合いも死んだ。僕は眺めて通り過ぎる。助けない。僕の知り合いは言っている。死んでも人のお恵みは受けない。それが「肥後もっこす」(プライド、正義感、あふれるやさしさを外に出さない、やせ我慢でもいいから男は威張って生きるのだ、という人たち)だ。

おまいらへなちょこ、熊本頑張れなんて絶対言うな。

 

 

 


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