また一人、ニューギニアの勇士が死んだ。汚いジジイだと疎まれ、話がしつこいと嫌がられ、間違っても彼を勇士だと尊敬した人はいない。僕以外にはいない。
僕と彼は30年ほど前、同じ学校に勤務したことがある。彼が校舎の中庭で芝生に水を撒いていると、4階から学生が彼をからかった。「水撒きジジイ!」
即座に彼の体は反応した。60歳をこえた体力とは到底思えない。4階まで駆け上がる。あと一息のところで学生を取り逃がす。そのとき僕は2階にいたが、状況は後になって分かった。
ニューギニアでは隣り合う蛸壺でアメ公と戦った。別の戦闘ではアメリカの弾を3発も食らった。僕とこの爺さんとは仲良しだったので、その弾を見せてもらったことがある。
負傷したので生きていられたのかもしれない。ラバウルに後送されたときこの世の天国だと思ったそうだ。その前は中共八路軍(パーロ)と戦った。何故か下士官にもならず一等兵どまりだった。
ガダルカナルに攻め入ることは誰がどう見ても間違いだった。そこに7ヶ月もとどまり、援軍を小出しにし、攻めるたびに負け、補給を考えず、ほとんどは戦死ではなく戦病死だ。つまり餓死。
爺さんは言う。最初の頃は一発撃つと100発帰ってきた。やがて、一発に対し3日間絶え間なく撃たれるようになった。
その中で赤痢になり食い物はなく負傷している手で銃を撃った。ここまでして戦う兵は勇士でなくてなんだ。尊敬しろ。
GEと三菱化学は、ほぼ同時期にイオン交換幕を発明した。銃だけで戦争するのではない。日露戦争以上の戦死者を出す上海事変では98%が銃以外で戦死した。きれいな水を供給することは日本軍にとってとくに必要なことだった。日本軍は火を使わずに食事はできない。
なのに、海水淡水化、有機質の除去(消毒)に目をつけ実用化したのは米軍のほうだった。
何も、ない袖を振れというのではない。日本はイオン透過幕の製造技術に関しては、まったく遜色ない技術を持っていた。その有効性にも技術者は気がついていただろうが、先陣を切って自分が意見具申しようというやつは今も昔もいない。兵を守るものだというと臆病者あつかいされ、そんな人間は陸軍にはいらん、といわれた。
結局、言わぬが花。大量自殺軍が出来上がった。
僕は不思議だ。これ以上ないという不利な状況で、わざわざ負けを早める作戦をし、だれも責任を取らず兵を殺す。
ニューギニアには、25万の勇士が骨も野ざらしで馬鹿な軍をうらんで眠る。
兵は語らない。語らないが死力を尽くして戦った。もっと知れ。