裁判所の地図記号は立て札=みんなへのお知らせ
東名あおり運転事件に判決が出た。
事件の概要
事件が起こったのは2017年の6月。パーキングエリアで駐車位置を注意されたことに腹を立てた被告は、神奈川の東名高速で危険なあおり運転を行ない、一家が乗った自動車をあおり運転で妨害して停車させ、直後にトラックが追突して、男性(当時45)その妻(当時39)を死亡させ、娘2人にけがをさせた。
懲役囚となった石橋和歩被告(以下石橋)は無罪を主張した。危険運転致死傷罪は成立しないという。相手が死んだときは運転してないということを根拠にした。
それなら謝る必要はない。悪いことはしてないんだろ?
巷のインチキ学者どもが騒いでいる。よく全体を見通して、どこで括って一つの犯罪とするか、ということは非常に重要なことだ。罪刑法定主義をはき違えている。罪刑法定主義の定義は次の通り。
いけないことをした時には、それ以前にいけないこととはどんなことか法律に書いておく。すなはち、法律に犯罪であると書いてない以上、何をしてもよいという考え方だ。
この考え方を我田引水し、危険運転致死罪の想定外のことが起こったから被告人は無罪であると弁護側は言う。
だから問題のポイントは、こうだ。犯罪の成立に必要な条件(構成要件)を欠くと主張する。「運転をしていないときに死亡した」から犯罪(危険運転)は構成されない、つまり無罪だと主張しているところにある。
思考力がない人はコロッと騙される。こんな法理が通用するならあらゆる犯罪は成立不可能になる。なぜかというと、以下の通り。
停止していたから危険ではなかったというなら、(判決はこの点に関しては肯定的で弁護側に同調した)「私は子供を殺してない。食事を与えなかっただけだ。」という理屈が通るに等しい。不作為であっても成立する犯罪はたくさんある。
ましてや今回の事件は被告人石橋が認める通り、カッとなっていた、のだ。どうなってもいいと思って停止させたわけだから、十分に殺意を含んだ未必の故意が成立する。
バカの屁理屈のために刑法があるのではない。刑法は体制を守るという至上命題を負っている。
判決は、石橋が被害者の車を追いかけた時点から死亡までを一連の事件ととらえている。この観点に立てば至極当然に犯罪は構成される。至極順当。
最高裁、たぶんここまで行くな
罪刑法定主義の考え方は古く、日本が鎌倉時代のころだ。西欧では王の恣意的な課税や徴兵に対し、合理的な根拠なしには行えないことを認めさせた。(1215年 マグナカルタ)これは罪刑法定主義の萌芽である。
この考え方が敷衍され、権力の恣意的な「人民の自由権」のはく奪を不可能にしている。ところが学習が足りないか能力のない人は、罪刑法定主義がまどろっこしいもので、悪人石橋を守るものだという主張をしている。
とんでもない。僕はむしろ、なぜ殺人罪が成立しないのかと思う。刑法は社会のごみをきちんと掃除してこそ存在意義がある。それができないなら僕なら石橋を殺すか人殺しを雇う。そこにあるのは強者生存の不条理の国だ。「人は人にとって狼である」というHobbesの世界観が具現する。
殺人罪の方が裁判官は選択肢が広く、自由に法の範囲内で判決が書けたはずだ。(自由心証主義)さらには余罪について、公判前整理手続きで弁護側は争ってない。それにしては判決、懲役18年の中に反映されていない。
合わせ技一本で4個の別個のあおり事件を一つの事件として裁いたので、余罪の刑期が量刑に反映してない。その他の3個の事件も公判を開き量刑を積み上げるべきであった。余罪の刑期が量刑に反映してない。検察は危険運転ばかりを見ていた。
量刑不当の声は消えない。両者控訴する。求刑から7年も減じた根拠を判決文はつまびらかにしてない。高裁は逃げないはずだ。逃げて、原判決支持、はないだろうね、まさかないよね。。
将来、恩赦が多いと予測される。即位の大恩赦、オリンピック恩赦、万博恩赦・・・確実にはわからないがとにかく15年では実質10年以内にまた高速であおっている可能性が大きい。
今度はこれを読んでるあなたがあおられて殺される。気違いを娑婆に出す世にもまれな国だ。10年なんてすぐだ。