現役の教師のころ、家庭訪問をしたことがある。
貧乏人の家ほどモノにあふれている。
台所が片付いていない。カネにルーズ、テレビの音が大きい、ゲームだけは最新だ・・・貧乏に共通する特徴はいくらでもあるが、とにかくいらないものがあふれている。それはなぜかについて考えた。
そんな人たちもときどき思いついて断捨離をしようと思う。できたためしはない。先生が来るから少しは片付けようとした形跡もあるが、モノは一時移動しただけ。一週間もすればまっすぐ歩けない部屋に戻る。
恥知らずにも、散らかって不潔な部屋をそこにあるモノのせいにする。
冗談じゃない。よく考えもせず物を買いたがるその思想性に原因があるのだ。該当する貧乏は反論する。
私の勝手だ。好んで貧乏やってるわけではない。大きなお世話だ。・・・そのたぐいの声が聞こえてくる。
ぼくが思うに、原因は関係性を断つ勇気がないからではないか。現代の貧乏人は本当に物がなくて困った人はもはや少数だ。つまり、なくなって困った時のことを考えて・・・などとは、腐れた弁明だ。幻想にすがる。
ただ、捨てた後で必要になったらどうしようという・・・気持ちと、こんな部屋に人が来たら恥ずかしいという気持ちがいつも堂々巡りをして出口のない迷路をぐるぐる回る。
わかったようなものの言い方で記事を書いているので嫌な気持ちになる人がいるはずだ。ご心配なく。ぼくもそんな貧乏人の典型だ。
ただし、先日、” One morning I awoke to find I should reset my life "というブログ記事を書いた時の気持ちを義理チョコをいただいて思い出した。義理チョコは失礼だ。
部屋に散乱するガラクタの類と変わりない。断ち切れないのは自分が弱いから。
これは参考にしていただいたらいいかなと思うことがあるので書く。
ぼくの心は人一倍弱い。それでも僕は無理をした。無理は嫌だが、正しいことに努力するのはいいことだと無理して思った。
捨てるのが心配なときは、かりにそれを捨ててもまた同様のモノを買う。人はこのときモノを心配しているが、そういう心配をする心を捨てたらどうだろう。
偉そうに言うが、僕は思い切って捨てた経験からかなり自信をもって言うことができる。
ぼくは、いらないモノを捨てるのではなくいらない関係、の連続に連綿とする心を捨てた。
タイトルに例示したおよそ無駄と思う関係性を捨てた。その後、その関係性に関連するものを捨てた。
無駄な挨拶をする虚礼という関係。こんな関係はいらないと確信した後住所録を捨て年賀状もやめた。お歳暮もお中元もチョコレートのやり取りも、忘年会も新年会も町内会も回覧板もすべていらない。
人間関係がまずくなるからと言って人は断ち切れずにいる。そんならぼやくな。見苦しい。
もちろん来るモノは拒まない。年賀状も封筒セットが当たった。お歳暮もチョコレートももらう。だがもはや返すことはない。
関係を捨てると決心してからしばらく(3日)は、なんだかもやもやした。そうしてやがて、心は快晴になった。
本当か。本当に快晴か。一点の曇りもないかと自問する。絶対僕にはホワイトデーはないのか、と。どんなにかわいい子からもらっても心は微動だにしないか、と。
ああ、そうだ。しない。
その後、僕の関心は新しい関係の構築に注がれるようになった。その後の人生はまだ半年だが確実に以前より楽しい。