か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

なんでも差別というと良い人になれる

2018年12月02日 | 日常

引用

 電動車椅子を利用中の飲酒を巡る警察の対応について、障害者団体が抗議を寄せている。警察庁が「操作を誤らせる恐れがある」などとして禁止を呼び掛けているためだ。団体は「不当な差別だ」として改善を要望。道交法上、車椅子は歩行者扱いだが、普及に伴って事故も増えており、識者の間でも見解が割れている。 (浅野有紀)    東京新聞 2018年11月24日 07時08分

ソウルの町は今とても寒い。寒いのではあるが雪は多くない。昔はほとんど雪はなかったのだが、この頃増えた。ずっとそこに住んでいる人は、かえって町の変化は見落としがちになる。突然行くと変わったなあと多くの発見をする。

しかし変わらないものがある。

町に出て障害者を見ることはない。物乞いの類に自分の障害を売り物にしている人を見かける。これはよく見る。お涙を頂戴して糊口をしのごうというわけだ。また恵む方も、施しをすることでたやすく善人になれる。

僕は彼らの生命力に頭の下がる思いだ。僕は両足をなくしたら生きる気力までなくす。車いすのバッテリーから電源を引いてジングルベルを歌う人。とても下手だ。だが僕は彼の生きる力に尊敬する。

だが大部分は家の中にじっとしている。段差だらけの家、街、店、道路。一度でも車いすを押したことのある人は段差が悪魔のように思えたはずだ。とくに電動。総重量は150キロになる。5度でも傾けたら、「あんたは介助が下手やね。」と乗っている障害者からいわれ、大名の駕籠かきになった気がする。

北朝鮮の高官がもっと恐ろしいことを言った。「わが国には障害がありません。この世の楽園ですから。したがって障害者もいません。」

 

日本はどうだ。

福祉の水準は、こうあるべきだという理念によって現実化されることはない。ない袖は振れないのだ。おそらくこの理念ということでは韓国と日本に差はない。むしろ日本で盛んな自己責任論こそ恐ろしい。すべてを無政府状態で足りるとする暴論がまかり通る。

だが現実は韓国には福祉政策がほとんどない。存在しない。

 

もちろん、十分ではないがが、わが国の社会福祉は世界に冠たるものであった。しかし今は福祉の後戻りの時代だ。それでも厚労省は予算の1/3,30兆円を握っている。韓国の全国家予算の1.5倍である。

生活保護をもらえない人はもらう人をひがむ。もらえない自分の貧困は、ぐうたらや無能が根本原因なのに、人は比較の中に住んでいる。

 

いっぽう、もらう側すなはち障害者はどうか。もらって当然であるからすべてを差別といえば何でも可能なのか。

健常者と全く変わらず行動する権利とは、障害者が健常者から奪い取るものではない。自助の努力がまずあってそれでもできないことを補ってもらうのだ。健常者といわれる人も何らかの障害を抱えている。

片親、中卒、高卒、借金、へき地、貧困、離婚、はげ、ホモ、・・・それらに手当は出ない。出ないが自分で何とか克服している。自分の思想を作っている。障害者だけが限界までの自助努力をしなくていいとはおかしなことだ。

酩酊して道を歩くのはだれであっても下品なことだ。障害者はその下品なことをする権利を主張している。日本はそこまで面倒見のいい国ではない。


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