太宰府シリーズの二回目です。前回は太宰府政庁跡を掲載しましたが、
今日は「玄の墓」を取り上げたいと思います。
玄は、天平時代、聖武天皇の母・宮子や皇后・光明子の寵愛によって、
官僧として最高の位である僧正まで昇り詰め、僧の世界だけでなく、
政治にも関与して権勢を誇った僧です。
その盟友には吉備真備がおります。
玄が絶頂期にあるとき、太宰府少弐であった藤原広嗣が、玄と吉備真備の朝廷からの排除を目的に、
その地位を利用して太宰府が統治する九州の兵を集め、乱を起こしたほどです。(740年)
しかし、玄の栄光の日々は長くは続かず、
藤原仲麻呂という光明皇后の甥に当たる藤原一門のサラブレッドとの政権抗争に敗れ、
この太宰府の観世音寺に左遷されます。(745年)
そして、その翌年に、完成した観世音寺の落慶法要を導師として務めましたが、
同年、暴漢に襲われ、あっけなくその波瀾万丈の生涯を閉じます。
襲った暴漢は藤原仲麻呂の刺客であった、あるいは藤原広嗣の遺臣であったなど、
異説が多々ありますが、僧正まで務めた高僧の死としては余りにも異常であったといえます。
その玄のお墓が太宰府観世音寺の北西裏にひっそりとあります。
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この玄という人物の後世の評価は、真っ二つに分かれています。
一つは宮子夫人に深く取り入り、邪な行いによって政治を乱した悪僧であるというもの、
今ひとつは学問僧として在唐18年におよび法相宗を学び、
そして約5000巻の経を持ち帰って、
その後の日本仏教の発展に大きく寄与した高僧だとの評価です。
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特に興福寺では、古くから玄を法相宗の法祖の一人として崇めており、現在もその評価は一貫しています。
果たしてどちらが玄の真の人物像に近いのか、
玄が生きた時代から約1270年を経た今となっては誰にも本当のところはわかりません。
ただ、この二つの評価のどちらでもない玄を、松本清張は小説「眩人」に描きました。
その玄は、実に狡猾な野心家、であるのにどこか隙だらけで、憎めない、人間くさい男として登場します。
「わたくしの机辺に立ちのぼる煙草の煙のさきには、長安の花街が見えてくる。・・・」からはじまる清張らしいスケールの大きい小説です。
当時の唐の首都・長安の様子、そして古代日本で最も仏教・文化・芸術が華やいだ天平という時代を玄という僧を通じて、
読者の目の前に再現してくれます。
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下の写真中央の小さい石標が玄の墓です。宝篋印塔と呼ばれる石標ですが、
この制作年代は玄の死後約600年後の南北朝時代のものと考えられており、
実際に玄の墓がどこにあったのか、あるいはそもそも無かったのか、いずれも不明です。
玄と同時代に生き、大僧正となった 「僧・行基の墓」と比較すると、
その墓が余りにも粗末なことに驚かされます。
そして、人の[評価」というものの恐ろしさをあらためて思い知らされました。
「評価」は為政者が都合良く世論を誘導することによって定着すると言われています。
それは、現代にも連綿として生き続けています。簡単に「評価」を信じない、そうこの墓は私たちに教えてくれているのかも知れません。