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6,403 回視聴 2022/11/05 古本屋えりえな@YouTube
非常に面白いのですが、卑弥呼が公孫氏一族だと決めつけたのは晋書に「宣帝之平公孫氏也」とあったからのようですが、その後に続く文章「其女王遣使至帯方朝見」との繋がりから、文章は「司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、その女王が帯方郡に使いを遣わした」という解釈が正しいのですよ。この文は魏志倭人伝を要約したものと解されます。ですから、「卑弥呼が公孫氏だ!」ということにはなりませんよ。
ちなみに、卑弥呼は倭国大乱の結果女王に共立されますので、倭国大乱が倭国とどういう勢力の戦いなのか?なぜ、両者は戦わないとならないのか?などを考えていくと一つの事実が浮かび上がります。
それは57年に後漢光武帝より金印を賜った倭の奴国王の次に107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升とあるので、倭国に50年後に政変があったことに気づきます。後漢書は原本が残っておらず、その後後漢書を参照した史書から、倭面土国王師升だと考えられますが、白鳥庫吉は倭の回土国(ウィトコク)としました。つまり魏志倭人伝の伊都国のことで、伊都国男王は師升王の子孫だと考えました。
中国古代では師姓は宮廷楽師の官位を表しますので、奴国で祭祀を担当する人物だったと推理できます。つまり奴国でクーデターを起こし、倭国の宮廷楽師らが王位を奪った事件があったと推理できます。奴国王は殺され、倭国王と認められるために大量の奴国王の部下らを捕虜にして奴隷として献上したと推理できます。殺された奴国王が宋史王年代紀の第18代王素戔男尊です。高天原を追放された乱暴者の神スサノヲのことです。
なぜわかるかというと日本書紀仲哀紀に奴国の博多を儺県(なのあがた)としているからです。儺(な)は鬼やらひ・神やらひ、つまり疫病神を追い払う行事のことです。これによって、ウィト国を伊都国と書いて魏に教えた人物が特定できるのです。
伊都国は孟子に登場する殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む国名で、伊尹は放蕩者の王を追放したことでその評価が議論された人物なのです。師升王の事績と一致します。(注)
そして卑弥呼が魏に遣わした大夫難升米が師升王の子孫だということが分かります。当時ニンベンが省略されるのが流行でしたので、国宝金印に倭を委と書かれていることから分かります。他にも例を発見しています。そして「米」は頭目(かしら)を意味する言葉ですから儺(難)升米は師升王の子孫の伊都国男王だったのです。伊都国と書いて司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏に教えた人物だったのです。
ですから、倭国大乱は、倭国王師升の一族と、クーデターを逃れた旧奴国勢力との戦いだったのです。難升米は狗コロの奴国と蔑んで狗奴国として魏に教えたのです。これは弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。まだまだ続きますが、長くなるので、よろしければ拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」などをご参照ください!
ちなみに卑弥呼の出自はムナカタ海人族和邇氏の祖イチキシマヒメですよ。
径百余歩の巨大円墳も宇佐市安心院町の宮ノ原遺跡で発見しましたよ。
お邪魔しました(#^.^#)
(注)「伊」ウィクショナリ
字源
・会意形声
・「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。
【関連記事】
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎
王年代紀は記紀神話を正した!
消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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ちなみに、卑弥呼は倭国大乱の結果女王に共立されますので、倭国大乱が倭国とどういう勢力の戦いなのか?なぜ、両者は戦わないとならないのか?などを考えていくと一つの事実が浮かび上がります。
それは57年に後漢光武帝より金印を賜った倭の奴国王の次に107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升とあるので、倭国に50年後に政変があったことに気づきます。後漢書は原本が残っておらず、その後後漢書を参照した史書から、倭面土国王師升だと考えられますが、白鳥庫吉は倭の回土国(ウィトコク)としました。つまり魏志倭人伝の伊都国のことで、伊都国男王は師升王の子孫だと考えました。
中国古代では師姓は宮廷楽師の官位を表しますので、奴国で祭祀を担当する人物だったと推理できます。つまり奴国でクーデターを起こし、倭国の宮廷楽師らが王位を奪った事件があったと推理できます。奴国王は殺され、倭国王と認められるために大量の奴国王の部下らを捕虜にして奴隷として献上したと推理できます。殺された奴国王が宋史王年代紀の第18代王素戔男尊です。高天原を追放された乱暴者の神スサノヲのことです。
なぜわかるかというと日本書紀仲哀紀に奴国の博多を儺県(なのあがた)としているからです。儺(な)は鬼やらひ・神やらひ、つまり疫病神を追い払う行事のことです。これによって、ウィト国を伊都国と書いて魏に教えた人物が特定できるのです。
伊都国は孟子に登場する殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む国名で、伊尹は放蕩者の王を追放したことでその評価が議論された人物なのです。師升王の事績と一致します。(注)
そして卑弥呼が魏に遣わした大夫難升米が師升王の子孫だということが分かります。当時ニンベンが省略されるのが流行でしたので、国宝金印に倭を委と書かれていることから分かります。他にも例を発見しています。そして「米」は頭目(かしら)を意味する言葉ですから儺(難)升米は師升王の子孫の伊都国男王だったのです。伊都国と書いて司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏に教えた人物だったのです。
ですから、倭国大乱は、倭国王師升の一族と、クーデターを逃れた旧奴国勢力との戦いだったのです。難升米は狗コロの奴国と蔑んで狗奴国として魏に教えたのです。これは弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。まだまだ続きますが、長くなるので、よろしければ拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」などをご参照ください!
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・会意形声
・「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。
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なにか引っかかる話はございますか?
あ、そうだ!有名な「死せる孔明、生ける仲達を走らす」は史実だったようですね(;^ω^)