彼は軍務に28年間ついたが、化学、経済学、経営学を修めた人物でもあり、航空軍団幹部大学校、国防工科大学校、そして飛行隊士官学校を卒業している。
東南アジアでの従軍で何度か軍表彰を受けているし、ベトナムからアメリカ人捕虜を連れ戻す任務にも従事したことがある。
1980年、米空軍司令部から、イギリスのベントウォーターズ基地に副司令官として転任し、1984年には同基地の司令官に昇進した。
その後は、朝鮮半島とベルギーに赴任。
退役前は、アメリカ国防総省の監査理事会長を務め、軍の大部分を俯瞰できる立場にあった。
1994年7月31日、彼はイギリスへ帰り、ロンドンで『ウィークエンド・テレビジョン』に出演し、リーズの町ではUFO研究機関クエスト・インターナショナルの依頼を受けて、事件について知っていることを発表した。彼はこう説明した。
↑ウッドブリッジ空軍基地(現在は閉鎖されている)
「1980年当時、ウッドブリッジ基地は戦略上重要なNATO基地だった。
ウッドブリッジには事件当時、米軍が駐留していた。
事件は1980年12月25~27日に起こった。警備兵のバローズとパーカー(これは本名)は滑走路の端に、赤青白の光があるのを目撃した。
公式記録はいっさい作成されなかったが、ロンドン・ヒースロー空港のレーダー係員は二つのレーダー目標をスクリーン上にしっかり捕捉していた。
3名からなるパトロール隊が偵察のため森に入ったが、無線が支障をきたした。3名(ペニストン、バローズ、カヴァナサック)は、『製造されたことは明白だが正体不明の物体』を目撃した。
ペニストンとバローズはその物体に接近した。
二人の証言によれば、物体はピラミッド型で高さ約3メートル、そして上端が赤、下端が青く光っていた。森のなかを漂いながら動いていたが、三本の着陸脚があった。
三名は物体を追跡して森のなかを一時間半ほど動き回った。
その追跡のあいだに、軍の捜索隊と合流した。
捜索隊は地面に三つの痕跡を発見した。
それは約三メートルずつ離れていた。
周囲の樹木は高さ7.5メートルのところが一様に傷ついていた。
その後、兵士たちは基地に戻った。
二日後、エングランド少尉からUFO再出現の連絡があり、前述の出来事(テープ録音されている出来事)が起こった。
注目すべきは、エングランド少尉の証言だ。
『あの物体は太陽のように明るかったが、中心は暗く、全体に楕円形をしていた。われわれは物体を二分間ほど見ていた。それは五つの光に割れたあと消えた』
ある宇宙物理学者は農家の近くで、通常の25倍の放射能を検出している。
フィルムは二本製作されたが、残念ながらそこには重要なものは映っていなかった。
光が消えたあと、楕円形の物体が二つ目撃された。
その物体は猛スピードで動き、地面に光を放っていた。
何秒後かに、一つの物体が私の部下の方向へ飛んできた。
私はこの出来事を自分の個人カメラで写していた。
翌日、私は事件の詳細を上官に報告した。
司令部はこの一件をイギリス側の担当案件と判断した。
イギリス国防省も私との会見を望まなかった。
私が例のメモランダムを書いたのは、モアランド少佐の勧めがあったからだ。
メモランダムはイギリス政府宛に送付されたが、興味深いことにイギリス政府は関心を示さなかった。
公式製作されたフィルムも、その頃行方不明になった。
事件の数時間後に、登録標識のないC141大型輸送機が一機、ウッドブリッジ基地に到着した。
(管理人注:「放射能特別防護部隊」だったといわれている)
(当時)私はその飛行機の目的を知らなかった。
機には特殊部隊が乗っていて、部隊は森のなかに消えた。
米軍の特殊部隊が通常は登録標識のない飛行機で移送されることは、軍の資料から分かっている。
その一隊が極秘の任務に就いていたことからすれば、公式機関がどこもこの事件に関心をもっていないなど、私には思いも寄らないことだ。
(UFO否定派として反論していた)クラスやリドパース、スチュアート・キャンプベルらの灯台説は明白に否定する。
私や兵士たちはバカではないから、何メートルも離れていないところにいる飛行物体と、灯台の明かりや火球(流星)、衛星墜落の残骸の区別くらいはできる」
(続く)
※『UFO あなたは否定できるか』(ヘルムート・ラマー/オリヴァー・ジドラ著、畔上司訳、文藝春秋)第七章より抜粋