北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

『洛中洛外図屏風』

2014-12-11 19:17:02 | 日記
『絵巻物』や『洛中洛外図屏風』には、昔の人の暮らしぶりが絵になって残っています。


『洛中洛外図屏風』の細川管領邸です。(細川護熙元首相のご先祖様。)




(これは、天正二年(1574年)に信長から上杉謙信に送られた永徳筆の上杉本。左隻を部分

の、さらに右下の一部分を拡大してあります。)


唐破風があり、蔀戸が続いているので、園城寺光浄院客殿より『匠明』の「主殿の図」

に近いとも言えそうです。中門の東側に人が4人立っているのが見えます。(何をしてい

るんでしょう?、、、東西南北は、右が北、左が南、上が西、下が東で、よさそうです。)

屋根は瓦葺ではありません。杮葺きでしょうか?(茅葺きかも知れません、、、。)唐破風

だけは桧皮葺きでしょうか?東側の道路に面して、南の桧皮葺きの門は閉じているようで

す。北の杮葺き(茅葺き?)の門は開いているようです。門の下に立っている人はどういう

人で、道を行き来している人達や、塀の前に座っている人達はどういう人達で、何を持っ

て何をしているんでしょうか?網野善彦さんのように読み込めるといいんですけど、、。



白黒写真ですが、同じ細川管領邸か描かれている、『洛中洛外図屏風』(模本 右隻 東

京国立博物館) です。(やはり部分的に拡大しました。)




やはり北側の門は開いています。門の中には馬に乗っている人がいます。「中門」と思わ

れる部分の南側は、何と中央に柱が立っていて、塗り壁で塞がれているようにさえ見えま

す。(? ? ?) 相変わらず、西北の場所には、五人くらいの人たちが座っています。何をし

て座っているんでしょうか?(「北面」の警護? もう16世紀は蹴鞠遊びはしないのかな?)


残念ながら、この二枚の屏風絵からは、「中門」での儀礼的な何かを窺い知る事は、私に

は出来ません。16世紀には、すでに儀礼的な事柄は、ほとんど、めったに、行われていな

かったのでしょうか?(平成の下北半島には残っているのに、、、。もちろん沖縄の島々

にも、、、。)


もしかしたら、絵師達には、そのような事柄は画面に描き込まないと言う暗黙の約束事で

もあったのでしょうか?それにしては、祇園の山鉾巡行とか、いろいろな魑魅魍魎は好ん

で描いている様な気もするのですが、、、。



図版は両方とも、至文堂 日本の美術 No.121 洛中洛外図 辻惟雄 篇 より、部分を

使わさせていただいてます。ありがとうございます。(至文堂の『日本の美術』シリーズ

は最近、休刊になったようですが、すばらしいシリーズで、どれほどお世話になった事か

、、、、建築関連でも、「秘境の建築」「近代の住宅建築」「文化財建造物の保存と修理

の歩み」「近世の芸能施設」「近世の住まいと屋敷構え」など気になる本がたくさんある

ので、今度、東京に行ったら、大きな本屋さんと神田の古本屋さんに走らねば、、、。

やはり、手にとって中身を確認したいのです、、、。)







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玄関と式台

2014-12-11 13:30:37 | 日記
今では、特に住宅の入り口は、普通に「玄関」と言います。ですが、これは禅宗のお寺の

方丈などの入り口の呼び名から来ているようです。おそらく室町時代くらいからで、一般

的には江戸時代から、そう呼ばれるようになったようです。




大徳寺大仙院本堂の「玄関」です



前に出た、園城寺光浄院客殿の東面です。



とってつけたような「唐破風」の入り口があります。まるで記号のようについています。

どうみても「後付け」にしか見えません。建築的な「納まり」として見ても、かなり無理が

あるように思えてなりません、、、。


「匠明」の図です。



じつはこれ、「主殿の図」と言う名前です。


右上に「色代」とあります。「色代」は、今で言う「式台」のことのようです。この建物、一体

、「唐破風」がなかったら、どこが入り口なのでしょうか? もちろん、偉いお坊さんや大事

なお客さん達と、身の回りの世話をするような人たちでは、出入り口も別々だったのでし

ょうけど、、、。それにしても不思議です、、、。(神様はどうなったのかしら?神様と

お釈迦様じゃ、上手くいくわけありませんよね、でも、それを摺り合わせたのが日本人

だったんでしょうけど、、、。)


大田博太郎さんの「書院造」(東京大学出版会1972年第二版)に、次のような記述がありま

す。少し長くなりますが、引用します。


   中世の一般の邸宅においては、なお引き続いて中門廊が、ごく短くはなりは

   したが、出入口としての機能を保持していた。その有様は『洛中洛外屏風』

   に描れた細川殿などをみてもよくわかる。この形は近世初期の書院造にも、

   そのまま引き継がれている。『匠明』の「主殿の図」にはごく短い中門廊が

   突出し、その東側の南端が扉、次が連子窓、その次(公卿座のところに当たる)

   に軒唐破風をかけ、扉を開いている。この立面は光浄院客殿でみることができ

   るが、これは寝殿造中門北廊の形をそのまま残したものであった。


その図版です。




次の記事の『洛中洛外図屏風』の細川管領邸の転写らしく、人物が省略されているようで

す。(でも「雲」があるので、違うかもしれません、、、。)




大徳寺大仙院本堂玄関の写真と図版は、大田博太郎「書院造」(東京大学出版会1972年第二

版)よりお借りしています。みなさん、お買い求め下さい。




   





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『中門』の変遷 その2

2014-12-06 13:11:18 | 日記
法然上人絵伝(知恩院蔵)の法然の父、美作国久米郡押領使漆間時国の家です。(週刊朝日

百科、日本の歴史、中世Ⅰ-②中世の村を歩く、寺院と荘園2002年、より)





廊(中門廊?)で「宿直(とのい)している。」は折口信夫の記述と重なります。


貴族社会が宗教的権威なり経済力を失って、壮大な寝殿造りなどを維持できなくなり、

徐々に規模が縮小していきます。(もともと権威も経済力もない貴族は大きな家屋敷?は

構えられなかったと考えられます、、、。)


まず、東三条殿です。(10~12世紀くらい?)




同じ頃ですが、堀河殿という建物です。(11世紀くらい?)




まだ「対屋」は東も西もあります。



関白藤原基房小松第(12~13世紀くらい?)



「対屋」はなくなっていますが、「透渡殿」と「二棟廊」はあって、「中門廊」と

「中門」もあります。


関白藤原基道六条堀河第(12~13世紀くらい?)



「透渡殿」はありませんが、まだ「二棟廊」はあります。



藤原定家第(12~13世紀くらい?)



「二棟廊」もなくなり、「寝殿」に直接「中門廊」が、くっついています。



藤原定家は小倉百人一首の撰者ですが、後半生は鎌倉時代の人なのですね。それでも、そ

の家には「中門廊」は残っていたのです。(前にも書きましたが、「中門」と「中門廊」

の表記の違いは、私には、まだ、わかりません、、、。鵠沼の林達夫さんの自宅の玄関

までのアプローチには「定家葛(ていかかずら)」が植わっていたような、、、、。)





どんなに時代が下がって規模が縮小しても、「中門」だけは残ったのですから、その時代

までは、「必須」な理由があったのです。そして「中門」は最後に消えてなくなってしま

うのですが、おそらく、それは「芸能の変遷(もしくは芸能の出現?)」と何らかの関係が

あったのではないでしょうか?

(実は、消えてなくならなかったのですが、それは又もう少ししたら、、、。)




追記  最初のカラー写真は、一般の方にイメージが判りやすいかと思って載せたのです

    が、これは「地方豪族の家」であって「貴族」ではないのです。新興勢力の武士

    階級に、どの程度、貴族社会の暮らし方や文化が影響を及ぼしていたかは、私に

    は、まだまだわからない事ばかりです。



地の黄色の図版は、全て彰国社版、改訂増補、建築学体系4-1日本建築史 昭和52年より

お借りしております。ありがとうございます。


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追記の添付写真

2014-12-05 16:28:06 | 日記
前の記事と追記の添付写真です。


瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書)に載っている「忌屋(いみ

や)」の写真です。(昭和10年の写真ですから、たぶんもう残っていません、、、。愛知

県振草村ですから、現在の愛知県北設楽郡東栄町、つまり折口信夫が民俗採訪になんど

か訪れた「花まつり」の村、、、。妹島和代さんの実家が近い、、、。)





そして、京都府の綾部の産屋の遺構の写真です。(内部の写真もあります。このブログの

「産屋」の記事のカラー写真と同じものと思われます。)





そして、、京都山崎妙喜庵の茶室「待庵」です。





(安井杢のホームページの写真を使っちゃいました。久佐君、堪忍して!)


追記  「産屋」もアジール、「茶庭」もアジールです。武士も茶庭の中では、刀を腰

    からはずします。「刀掛け」もあって茶室の中に刀は持ち込めません。「茶庭」
 
    には結界としての「中門」も残っています。


追記の追記  読み返してみると、女の人の「月のもの」の期間の待避所?(それも夜だけ

       の場合もある。)の「忌屋(いみや)」、「待屋(たいのや)」、「別屋(べつ

       や)」、「他屋(タヤ)」、が「産屋(うぶや)」とゴッチャになってしまっ

       ている。「呪術的思考」としかでも言いようがない、、、、。とにかく、

       少なくとも論理的ではない、、、。

       「産屋」もアジール、「茶庭」もアジール、もチョッと乱暴だ、、、、。


追記の追記の追記 「産屋」がアジールと言うのは、昔の「遠流」(壱岐、佐渡、八丈島

         など)をイメージして頂くと良いのかもしれません。このブログの

         最後の方で出てくるはずの「刑務所」も同じか、、、? (女性の方に

         は、あまり良くないイメージで申し訳ないのですが、、、。) 




クイズ  妙喜庵待庵は床の間が北なのですが、東の屋根と西の屋根で勾配が違います。

     どうしてでしょうか?




     





追記その4  京都山崎妙喜庵の茶室「待庵」には昔から『新築』か『移築』かの議論が

       あるようなのです。「産屋」としての「待屋」は、『主屋』の側や周囲に

       「くっつく」ように付属する、たいていの場合は屋根も一段低い『下屋

       (げや)』としてあったようなのですが、利休は若い頃、当時の堺の街中

       や周辺の農村部で『下屋』としての「待屋」を見たことがあったのか?それ

       ともなかったのか、、、? (だいいち、当時の堺の街中や周辺の農村部の

       人々は、一体どこで出産をしていたのか、、、?)いずれにせよ茶室「待庵」

        は、妙喜庵の『主屋』に『下屋』のように『くっついている』のは間違いな

       いように思うのですが、、、。でも、『後からくっついているみたい』だから

       『移築』とは限らないのが難しいところで『主屋』の完成後に何年かしてから、

       増築として『新築』した可能性もある訳で、全面解体修理でもして、棟木や桁

       に対する垂木の納まりの変更跡とか、勝手の入り口の結構な段差の納まりの

       変更跡とかが確認されない限り、本当のところは判りそうにありません、、、。



       (僕自身は、今のところは、どちらかと言うと『移築派』と言うことにして

        おきます、、、。)







      
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『中門』の変遷 その1

2014-12-05 14:03:07 | 日記
本線に戻ります。宗教世界の衰退に伴って、門付け儀礼(近世以降の門付け芸ではなく、

神人?などによる儀礼としての門付け)の行われる場所(舞台?)としての中門が、どのよう

に変遷したかについて、何とか説明してみようと思うのですが、その前に、、、


このブログの最初の方の、京都府綾部の「産屋」について触れた文章で、次のように書い

たのですが、


   産屋と書いて「うぶや」と読むようです。待屋とも対屋とも書くようです。

   (読みはどちらとも「たいや」のようです。)京都府の綾部に遺構が今でも

   残っています。


これを教えてくれたのは、瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書)

です。途中に漢文があるので、そのまま載せてみます、、、(34ページから35ページ)





瀬川清子さんは、「寝殿造りの対屋と忌屋のタヤと何かのつながりがあるのではないか

と思う。」と書いています。もう一度、東三条殿の図を見てみます。





「東中門」から「東中門廊」を抜けて、さらに進むと「東対」とありますが、これは東の

「対屋」と考えます。これはいったい何の部屋?(建物?)なのでしょうか?何かしら女性に

関係のある部屋?(建物?)としても、どうしてこの位置なのでしょうか?(ここで出産したの

でしょうか?ここで出産したのでなければ、どこで出産したのでしょうか?)


私は高校3年のとき男女を通じて古文で最低点を取り、担任の中石孝先生(現代国語の先

生でした。)に職員室に呼ばれました。(漢文も推して知るべしです、、、。)古文や漢文

の勉強は大事だなと思い知らされております、、、。(現役高校生の皆さん、大学受験に

必要な科目だけ勉強するなんて、そんな勉強はよしましょう!)



瀬川清子さんは秋田県鹿角市出身で、学校の先生をしながら柳田国男さんの民俗研究に

参加された方です。秋田県にはもうお一人、折口信夫さんのただ一人の女性の弟子の、

男鹿市舩川出身の穂積 生萩(ほづみ なまはぎ、澤木数枝 )さんもいらっしゃいます。

舩川は折口信夫最北端の地です。



瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書、東京書籍)は当時900円で

した。どうぞ、お買い求め下さい。



追記  この「待屋(たいのや)」を見て、京都山崎妙喜庵の茶室「待庵」を思い起こしま

した。この文章を読むまでは「人を待つ」から「待庵」なのかな?くらいにしか考えてな

かったのですが、利休は「産屋」の「待屋」から「待」の字をとって「待庵」にしたので

はないでしょうか?人は誰でも(世俗の武人だろうが)生まれたときは、赤ん坊だったのだ

よ、と言う利休のアイロニーなのではないでしょうか?


















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