北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

大奥

2014-12-15 13:09:29 | 日記
江戸城の大奥です。






この図面を読み込むのは、設計士の私でも大変です。将軍様(北の某国ではありません。)

は、どこからやって来て、どこで長居して、どの部屋で事に及ぶのでしょうか?悩み始め

ると、キリがありません、、、。(やって来たのは、多分、この図の右下の長い廊下?つ

まり、例の「お成りぃーーっ」の廊下? 「御鈴廊下」と言うらしい、、、。事に及んだ

部屋は「御小座敷」と言うらしいが、特定が難しい、、、。(どうやら、この図の中央の

右側、「御殿向(ごてんむき)」と呼ばれる部分のどこかの部屋ようなのですが、、、。)

左下の巨大なものは、現在の皇居東御苑の江戸城本丸天守台か? 黄色の部分が、女性陣+

将軍様のエリア、白地の部屋は男性陣も居たエリア?)


でも、こんな建物を作った江戸時代の人を、僕は尊敬します。図面の右上に名前のある

「甲良筑前」さんって、どんな棟梁で、どんな人物だっんでしょうね?(新宿の市谷の方に

住んでいたみたい、、、。「筑前」さんですから、九州福岡の人?)


でも、大奥の図面って、たくさん種類があるんです。(多分、途中、何度も手を入れて

増築と改築を繰り返しているしている模様。甲良一族の人達も大変だ、、、。考えてみた

ら、明暦の大火(1657年)で天守閣が焼け落ちていますから、大奥も焼失している訳で、

その前後だけでも2種類はあるんですね。)


昭和58年に岐阜県可児市で見つかった図面です。

(上の図と揃える為に、上下を逆さまにしました。左が北、右が南です。)





小さなストロボが光っている処が「御鈴廊下」でしょうか? この中央を境にして、左の

北半分が「大奥」です。「大奥」の「御鈴廊下」を挟んで手前、境の右(南)は「中奥」

のはずです。「中奥」の右(南)の、三つ並んでいる「中庭」の真ん中の、中くらいの

「中庭」の下(西)が、例の「松の廊下」? (吉良上野介さんは、こんなところを、どっち

からどっちに向かって歩いていたんですかね、、、?)


この図面の右側(南)、たぶん表御殿? の庭に「舞台」のようなものと、出っ張っている

「中門」のようなものがあります。(名称は、もはや「中門」ではないかも知れません。

たぶん「御成玄関」とでも呼んだのでしょうか?)


江戸幕府の中枢のはずなのに、「春日局邸」を、そのまま大きくしただけのようなものを

作ってしまうなんて、昔の人は、素直と言うか、何と言うか、、、、。



もう一つ見つけました。やはり上下を逆さまにしてあります。





この図の左半分は、最初の甲良棟梁の図と、ほぼ同じ時期のものと思われます。



追記 どうやら、甲良筑前の図は、明暦の大火の前、岐阜県可児市で見つかった図面は

   明暦の大火の後、かも知れません。もう少し、気を付けて調べてみます、、、。

   (でも、甲良筑前の図が明暦の大火の前なら、どうして天守閣は石垣しか書いてい
   
   ないのだろう、、、?)


追記の追記  「御小座敷」は甲良筑前の図で、方位の「南」と書いてある、やや左の

        少し下、小さな「月見台」のようなもののある所の「たたみ広縁」の

        奥の部屋と推理しました。(多分、間違いないと思います。この部分の

        三部屋だけ、廻りに「坪庭」があって、他よりプライバシーに凝った

        造りになっているのです。「御小座敷」の西の漢字のたくさん書いてあ

        る部屋が、例の「見届け役」の女の人達の部屋でしょう、、。「中奥」

        から将軍が移動するのも、比較的近距離でスムーズなはずです、、。


        



        お誂え向けの「専用廊下」まで付いているし、将軍様も気が短くて、早く

        行きたいでしょうし、、、。警護のための「小部屋」も、それぞれある

        ようだ、、、。でも、夕方4時以降は、将軍様以外は男子禁制だった

        か、、、? うーん、、、。もしかしたら、女性が小刀か何かを懐にし

        て警護したのかな? でも、それじゃ万が一、逆に将軍様が狙われかね

        ないか、、、。ますます、うーん、、、。)


追記の追記の追記  では、「御中臈(おちゅうろう」(定員8名の部屋を特定するのが

          また大変、、、。)は、どこでお風呂に入って、どこで支度をして

          (化粧などをして、、)、どこで身体上の警備チェック等をを受け

          て、どこを通って「御小座敷」まで行ったのでしょうか、、、? 

          あまり考えると、きりがないので、この辺で止めておきます。

          (でも、設計って、こう言う地道な思考、作業の積み重ねなんで

          す、、、。) 




カーソル動かして「御小座敷」を探してください。









追記の追記の追記の追記   すいません。甲良筑前さんの出身地は、九州福岡ではなくて近江、

                今の滋賀県かも知れません。一族には甲良豊後守宗広さんと言う

                名前の人もいて、名前の中に出身地とは違う地名が、何故か入っ

                ているのかも知れません。今でも『甲良建仁寺流』として何代目

                かの方が「大島」という名字で引き継いでおられるようです。





五つ目の追記  図の上(東)の門は、2018-05-01の記事『伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄

        その2』に出てくる『埋門』(うずみもん)の要件を満たしているよう

        に見えます。(平面図だけからですが、、、。)おそらく石垣の一部の

        ような門で、正面もずらして、半分埋まっているような造りで、門を

        入ると、いきなり階段です。女人の世界の入り口は『埋門』だったの

        です、、、。(『埋門(うずみもん)の要件』の1つは『枡形』?)


六つ目の追記  「御鈴廊下」の先、入って左の白地の部屋に、将軍様が『事に及んだ』

         部屋があったという説もあるようなのですが、、、


         


         何かの『接見』とか『応接』の部屋なら判るんですけど、『事に及ぶ』

         部屋としては、何だか、そんな場所とは思えないんですけど、、、。















  



 



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絵島事件

2014-12-15 11:33:34 | 日記
江島生島事件とも言う。春日局がなくなってから70年後くらいに起きた事件。大奥の江島

さんが、上野と芝の墓参りの後、東銀座の芝居小屋で観劇(昔の人は随分歩きますね、、)

、よせばいいのに役者の生島と遊んでしまい、江戸城に帰るのに遅刻してしまう。(この

あたりは、元モーニング娘の方と大韓航空の社長令嬢の方を足して2で割ったみたいとで

も申しましょうか、、、まぁ、いいんじゃないでしょうか?誰が誰と何をどうしょうと。)

でも後が大変。関係者は斬首、遠島、ご本人の江島さんは今の長野県の高遠藩に「お預

け」になってしまう。今のように「女子刑務所」はないので、高遠藩は大急ぎで「座敷

牢」のような建物を作る、、、。実は、それが復元されて残っているのです。


「絵島の囲み屋敷」と言います。







おそろしい、、、。





もうダメ。万事休す。逃げられません。



追記  江戸の伝馬町牢屋敷には、女性専用の部屋が一部屋だけ用意されていたようです

    が、高遠藩には、そんなものがあったのかどうか、、、? あったとしても、そ

    んな所に「絵島」さんを入れる訳ありませんけど、、、。江戸の伝馬町牢屋敷は

    後で、また出てきます、、、。



追記の追記  15秒あたりにプランが出て来ます。


       




       









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春日局邸

2014-12-13 13:36:40 | 日記
春日局邸です。




春日局(1579年~1643年)の江戸の屋敷のようなのですが、「大奥」などが成立する以前

の、過渡期的な、江戸の町が整備される以前の段階でしょうか、、、?

注意して頂きたいのは、「中門」がありません。「御成玄関」になっているのです。

(少なくとも、春日局さんにとっては、「中門」は関心事ではなかったのでしょう、、。

「御成玄関」の横に「玄関」とあり、おそらく「内玄関」でしょうから、「御成玄関」

は特別のお客さんの時の専用でしょう。道に面して、「門」の図の左のほうに「裏門」

が並んであります。)

「舞台」はあります。(「白州」とあるのに注意!)奥には「外露地」「内露地」「数奇

屋」(茶室)もあって、おそらく当時の最先端アミューズメント施設付き住宅です。

(今で言うと、キクチ科学研究所の大型ホームシアター自動スクリーンとSONYの高性能プ

ロジェクター完備、薄型の大型テレビもついていてアンプもスピーカーも最高級、1.5坪

タイプの最高級ユニットバスには完全自動追い焚き機能付きの全自動ボイラー、料理は最

高級の老舗懐石ケイタリングサービス、アルコールは、、、、私は高いお酒飲まないの

で、銘柄はわかりません、、、、と、言ったところでしょうか、、、、。最後は、やはり

コーヒーでしょうか?)



この「舞台」、だしものは何だったのでしょうか? 「申楽」でしょうか?それとも「猿楽」

なのでしょうか?(少なくとも、「能楽」は明治以降、、、)「能」とか「狂言」だったの

でしょうか?


「申楽」や「猿楽」の前段階?の「田楽」の絵を見つけました。



何かの「門」の下の人々の着ているものからして、どうやら「中世」のようです。「門」の前で

披露?されている芸?は寄席の「色物」のようにも見えます、、、。この芸?を披露?している

人達は、時代が下がった後は、どうなっていったんでしょうか?さらに零落して「門付け

芸人」になったのでしょうか?一部の人は「申楽」や「猿楽」に生き残る道を探して、屋敷の

中の「舞台」でも芸?を披露?して、生き延びたのでしょうか?


『年中行事絵巻』とか『北野天神縁起絵巻』とか『伴大納言絵詞』など、ネットで(便利

な世の中になりました、、、。)、その画像をみたりするのですが、なかなか良くわかり

ません、、、。



追記  それにしても、この「田楽」の絵と、折口信夫さんの言う「中門口」が、僕には

    どうしても結び付きません、、、。これが、どうして後々、能の演目になるの

    でしょうか?



春日局邸の図版は、大田博太郎「書院造」(東京大学出版会1972年第二版)です。「田楽」の

写真は、何かのシンポジウムで、どちらかの大学の先生がプロジェクターで映したものを

参加者の方が撮影したものです。(すこし周りが暗く写っています。「田楽」の字は、元に

なった図版にあったものでしょうか、、、?)


追記の追記  春日局邸はどこに建っていたのでしょうか? おそらく江戸城の中と思われ

       るのですが、ギリシャのドクシアデスさんの理論のように、本丸に建って

       いた春日局邸が、「舞台」のある南端部分を「旧市街」として次第に、北

       の方に、あたかも「新市街」のように「成長」して、最後は天守にぶつか

       ってしまったとは考えにくいのです。(サービスの出入り口も、西と東で

       逆です。)「二の丸」か「西の丸」のどこかでしょうか? 江戸の街中では

       ないと思うのですが、、、。(ドクシアデスさんは昔、一級建築士の試験

       に出たので、一級建築士受験の方は要チェック!!)





   





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舞台の出現

2014-12-13 11:46:56 | 日記
同じく、至文堂 日本の美術 No.121 洛中洛外図より、『洛中洛外図屏風』舟木本右隻

東京国立博物館 方広寺大仏殿付近 の一部分を拡大したものです。


 


方広寺は徳川家康が、その梵鐘の銘文にクレームをつけて、豊臣家を滅亡に追い込んだ

あの寺ですから、16世紀の最後から17世紀の始めにかけての寺です。左の大きな屋根が

大仏殿の屋根と思われます。その裏側、画面の右側(つまり北側)に、「舞台」のような

ものがあって、「桟敷席」のようなものがあり、平土間(お白洲?)にも大勢の「観客?」が

います。寺院の境内でしょうから、なにかの「勧進興行」なのでしょうか?(浅草の浅草

寺の裏側の浅草公園「エンコ」を想い出します。高倉健さんも亡くなりました、、、。)


シェークスピア劇場のグローブ座も1598年ですから、何かの偶然の一致でしょうか?



「舞台も花のヴェロナにて、、、」



『匠明』書院造配置図




中央やや左下の部分に、「中門」と「舞台」が両方あります。



90°振れていますが、その部分と思われる図です。




私の知る限り、「中門」と「舞台」の両方が並存して、現存している遺構はなかったと思

います。図面も、他には見ないように思います。それにしても、どうして「ダブッて」い

るのでしょうか?(「色代」も「広縁」になって、なくなっています、、、。と思ったら、

その奥に大きな「色代」がありました、、、。それにしても大きい、、、。なんで、こん

なに広いんでしょう、、、?)



(一番下の『第69図 広間の図 匠明』の平面図は、設計士の目からすると建築的には、

あまり洗練されていません。柱が多すぎるのです。実は、光浄院客殿は非常に洗練された

建物なのです。広縁と中門との「つながり」の位置の柱を、構造を工夫して柱をなくし

ていますし、広縁にも柱はありません。まるで、中門建築のエッセンスを記念建築として

後世に残さんが為に建てたのでは?と思えるほどなのです。「柱をなくす工夫」は、吉村

先生の山中湖亀倉雄策氏の別荘を、想い起こさせます、、、。)





写真の右手の、開口部と壁の境には、実は柱はありません。(大野さんも、凄い!)

この別荘の場合は、開口部の引き戸の戸袋の「納まり」の為なんですけど、、、。








追記  『舞台』が出現した時に、同時に『観客』も出現したのでしょうか?『観客』

    が出現した時に、同時に『木戸銭』も発生したのでしょうか、、、、?







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松風荘

2014-12-12 13:52:01 | 日記
吉村先生が1954年に、ニューヨーク近代美術館の中庭に設計した、光浄院客殿を参考にし

た展示用の日本建築で、今はペンシルバニア州のフィラデルフィアの公園に移築(1976年)

されているようです。





吉村先生のご自身によるパースです。




東側の唐破風はありません。「上座の間」の「上段」と「書院」の部分が、広縁と落縁が

廻りこむようになっていて、庭園との関係を重視するようになっているようです。

「中門」も、吉村先生のパースでは三方に開けはなれて描かれているように見えます。

(私には、「中門」の東面の連子窓の壁がないように見えるのですが、、、。)


1954年当時の写真も見つけました。



(吉村先生のパースは、道を挟んだビルも正確です、、、。建物が建つ前に、つまり設計

の初期の段階のパースだとしたら、凄い事なんです、、、。)



今現在のフィラデルフィアでの写真見つけました。








「庭園との関係を重視している」様子、わかりますか?












この建物、大工棟梁は『匠明-匠明五巻考』の伊藤要太郎さん(11代目伊藤平左衛門)のお

父さんの10代目伊藤平左衛門さんです。

10代目伊藤平左衛門さんは、さらにお父さんの9代目伊藤平左衛門さんと一緒に、当地、

函館市で、日本で最初の鉄筋コンクリートによる寺院建築の東本願寺函館別院を、設計

施工しています。函館山の麓の教会群のすぐ近くに建っています。







追記  あれ!吉田茂さんも、、、。3′40″あたりから。


















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