2011年7月13日(水曜日)晴れ
少し日々の、この暑さに身体が慣れてきたかな~!という感じがする。
いつの間にか、元々、黒い肌が更に日焼けで真っ黒になった。!
”熱中症の発生時期は暑さの始まった時期の身体の調整がまだ出来ていないと時に
起こりやすいと言われる”が・・・
年を重ねると暑さにも鈍感になって危ないらしい。注意しなくては!
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現役当時、顧問の先生が
”まず動け、動かなければ、風もおきぬ”と良く言ったものだ。
それには、
常に好奇心を持つことだそうである。
知らないこと・わからないことに何故・何故が・・・
子供が成長すると時に”あれこれ聞き廻るのと”同じ事。
大人になると、学習を少々受けているため
”恥ずかしさ・わかっているつもり”が先行する。
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昨日のつづきで
海野宿の入り口にある白鳥神社を調べた。
私はここの巨木が余りにも凄いので興味を持った。
白鳥神社概要:
案内板によると「この神社は
古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、
この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、
古代から中世の豪族
、
海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としています。
往古より本海野の住民を始め近郷近在の人々より産土神として崇敬の念をあつめ、
春と秋には例大祭が行われています。 」とあります。
又、この地(海野白鳥河原)は
木曽義仲が治承5年(1181)に挙兵した地とされ、樋口、今井、根井、楯氏を始め信州、西上州の武将3000騎が終結したと伝えられています。
拝殿前にある御神木(樹高30m、幹周5.8m)を始め境内
にはけやきや杉などの大木があり"白鳥神社の社叢"として
昭和56年に東御市天然記念物に指定されています。
★この神社には又近々軽井沢に出かけるので訪れてみたい。
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次に海野宿の事をもう少し調べてみたら以下の様な
聞きとりの調査談話が出ていたので、転記して個人の備忘録として
利用させていただく。
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≪海野について≫
「海野」の名は、正倉院御物麻布に書かれた墨書に
「信濃国小県郡海野郷戸主爪工部君調(へぬしはたくみべのきみちょう)」として残る。
かつて、東信濃第一といわれた豪族・海野氏が居館を構えた地でもある。
江戸時代、中仙道は日本橋から碓氷峠を越え、追分宿で北国街道と分離し、
和田峠を越えて、諏訪に抜ける。
一方、北国街道は、追分宿から小諸宿を経て海野宿に通じていた。
この街道は、
加賀前田家など諸大名の参勤交代の道であり、善光寺への参拝者の道、
佐渡から江戸へ金を運ぶ金の道でもあった。
海野宿は、旅籠23軒、伝馬屋敷63軒という繁盛期もあった。
江戸の文化がいち早く伝たわり、
琵琶や謡曲、俳諧などをたしなむ気風も培われた。
昭和62年4月28日には、重要伝統的建造物群保存地区の選定を、
文部省から受け、往時の姿を残したまま、人々が暮らし、日々見学者を迎えている。
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≪聞き取りから≫
海野宿宮下家(鍵屋)の、宮下さん(77才)から、伺った話である。
(平成19年12月8日)
①海野宿と宮下氏
海野がなぜ残ったかというとね、徳川幕府は上田を恐れて、ここを、北国街道の宿場として残したんです。一種の砦ですね。
昔川のほとりは、物流の拠点として、とても栄えたんです。
海野の願行寺も、成沢川のほとりにあったでしょ。
山で切った木材を上流から流し、願行寺のところで、陸揚げし船積みして、
運び出したんです。
だけど、成沢川に土石流があり、願行寺も流されました。
海野宿は、何度も土石流に見舞われたの。地形を見ればわかります。
「ばっぱの坂」も、土石流の跡ですよ。文明の利器ってのは、ありがたいです。
テレビで、土石流の起こる様子を、説明していたよね。
土石流っていうことは、話には聞いてましたが、
初めて、実感としてわかりました。
それから、土石流というのは、すごい勢いで土砂が遠くへ押し流されて行くから、
土石流の通った跡は、崖になるんです。
昔、教員してたとき、「河岸段丘」なんて教えてたけど、
あれは、土石流が流れていった跡ですよ。
(海野を襲った土石流について(「東部町歴史年表」による)
*1688(元禄元)年、大雨、山抜けの災害起きる。
7月5日からの降雨は16日夜に至りて、はなはだしき降雨となり17日には、大出水、 山抜けあり、この日大屋橋が流れた。
*1730(享保15)年、東田沢で山泥水押し出し、
海善寺村で19戸流失し、二人死亡。千曲川大洪水。
なかでも7月27日夕刻より降り出した雨は、28日も降り続き、
29日は晴れたが、夕方よりまた激しい豪雨となり、
8月1日まで続いた結果、未曾有の大洪水となった。
水害のため、田中宿は本陣問屋の機能を失った。世に「戌の満水」という。
盲橋より西、家残らず。)
それからね、海野宿には
、「ひやべい」というものがあるんです。
奈良にはそういう言葉が残っているそうですが、
どういう字を書くかは知りません。
「ばっぱの坂」は千曲川からの川風の通り道。
「ひやべい」は間違いなく、風除けですよ。
うちは、武士は武士でも、実際に戦場に赴くのではなく、後方支援なの。
物資の輸送などを行うのです。
戦争が始まる前に、くじのようなものを引いて、どちらに付くかを決めるので す。

源氏と平氏が戦った、壇ノ浦の合戦のときは、そのくじ引きで、
うちは源氏についたの。それが、不思議なんだけど、うちが付くと勝つんですね。
うちは
、村上水軍と行動をともにしていました。
大三島(おおみしま・瀬戸内海)は外国から来ると最初に上陸するところで、
そこが水軍の拠点です。
海野氏(海野幸隆は、真田家を継ぎ、真田幸隆と名乗る)は
、村上水軍に仕えていたんです。
一条天皇の皇子が佐久(長野県佐久市)の五稜郭近くに、地所をもっていたんですって。 そこに村上氏も付いてきたらしいのね。宮下は村上氏について歩き、武士の輸送など、
権力の裏付けを担っていたんです。
上田城主は真田・仙石・松平と続くんですが、うちは松平の殿様のときに、
取り立てられ、右の脇本陣を仰せつかったのです。
②屋号の由来
うちの屋号は
、「鍵屋」といいます。
なぜ、「鍵屋」というかですが、ある方が教員採用試験受けたとき、
「標高700mのところに、取れる産物を記せ」という問題が出たの。

何だと思いますか?昔ね、鹿児島の姶良(アイラ)火山が爆発し、
マグマが流れたとき、鉄鉱石の層の上に、礫層が乗っかったの。
その礫層が「鍵」で、礫層は、その下に鉄があるという証拠。
土の中に棒を挿して、礫の層を見つけるんですって。
うちの屋号「鍵屋」っていうのは、本当はそういう意味なんです。
私は、こういう話はなかなか、人には言わないできました。
新張(みはり・東御市新張)の神社のところに道があるでしょ。
その高さが、鉄鉱石が採れた高さなんです。
昔の人は山の色を見て、金が出るか鉄が出るかわかったそうです。
聖徳太子が黒馬に乗って富士山を駆け下りてきた、という話がありますが、
富士山は火山でしょ。
溶岩が流れてくる様子ですよ。
聖徳太子の一族は、鉄を精錬する技術を持って、
日本にやって来て、明日香の里に入ったということです。
浅間山でもマグマが噴出し、鉄などの金属が、
どっかんどっかんとれました。
当時、鉄鉱石は地産地消。
どこにも運ばないで、その地で精製しました。
ここにも製鉄遺跡があります。
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③宮下藤右衛門さんと
真田町傍陽(そえひ)
宮下藤右衛門さんについてお話するね。
藤右衛門さんは真田信之(昌幸の長男、昌幸は真田幸隆の三男)の家老職だったとき、
真田家が敵方の豊臣秀吉に銃を調達し、
200両の代金を受け取ったことが徳川方にばれてしまったの。
その責任者として
藤右衛門さんが「
放し討ち」にあったというんです。
武士なら切腹でも、商人なら切腹を免れるということで、
武士でない藤右衛門さんが全責任を引き受けて、
新井の宿(本庄市)に隠遁し、そこにお墓があるそうです。
真田町傍陽の萩にも、お墓があります。
私は、萩には行ったことありますが、
新井は息子の車で、通ったことがあるだけです。
本当のお墓は、新井だと思いますよ。
そこにも子孫はおいでるそうです。
藤右衛門さんの子孫のお墓は、松代の願行寺にもあります。
松代へは、20年以上前に行きましたが、藤右衛門さんのお墓は、区画だけありました。
宮下藤右衛門さんの家は、海野宿の右脇本陣で、
うちの楓おばあさん(文久年間の人)は、たぶん、そこで生まれた人です。
このおばあさんは利発で、家運を盛り立てた人だと、聞いています。
今年のNHKの大河ドラマ「
風林火山」に、「真田家家臣宮下」という
人物が登場しました。残念ながら、名前は出なかったんだよね。
苗字だけで。宮下藤右衛門さんのおとうさんかおじいさんだと思います。
真田町傍陽(そえひ)は、のろし台があったところです。
傍陽という地名は、のろしからきています。
そこは、宮下氏の拠点でした。宮下氏は、情報と深く係わってきたということです。
うちの家系には俳句や短歌を詠む人が、ときどき出ます。
宮下柳哉さんも俳人として名を成した方ですが、
★★
俳句や短歌は、昔は情報を伝える手立てだったの。

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真田幸隆(海野幸隆)について
真田幸隆は、武田信玄に与し、村上義清に奪われた砥石城を奪還した功績を認められ、
真田城(松尾城・住蓮寺城ともいう)の城主となることができた。
幸隆の孫、真田昌幸も、上田城を築くまで、この真田城を本城としていた。その間、傍陽は、重要な情報収集の拠点として機能した。
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④用水路(横堰)と土石流
海野氏がね、なぜこれほど有名になったかというと、わけがあります。
菅平高原から水路を引いてきたんですよ。
祢津に「横堰」(よこせぎ)という地名があるでしょ。
海野氏は、あの高さに水平に堰を作り、菅平から水を引いたんです。
田植えのころは、雪解け水が大量に流れてきます。
堰を切ると、同じ時期に一斉に田植えができるんです。
その水路を引く技術者は皆、韓国から来ているそうです。
今から203年前にも、土石流があり、その水路が全部流れてしまったそうです。
土石流の痛手で、
宿場の家屋敷をお上に買ってもらい
この様な政策は今でも災害時に早く対応してもらいたいですね~!
、
よそに移った家がありました。
明治になって、その家が通産省の所有になり、
塩尻(西上田)から、養蚕教師として赴任した方が、
その家に住んだのです。
そのため、ここ海野は、貞明皇后が訪問されるほど、養蚕業が盛んになったのです。
⑤白鳥神社と三分(みわけ)
海野の願行寺は、上田に移り、最後に松代にも移りました。
海野の白鳥神社は、不思議なことに「上田」を飛ばし、いきなり松代に移っています。
日本武尊の遠征の地には、宮城という地名がついています。
箱根にも「宮城」というバス停がありました。聞いてみるとやはり、
日本武尊がおいでたところだということでした。
あなたの住む宮城県もそうですよね。
日本武尊を奉って、坂上田村麻呂が歩いたところに、白鳥神社があるんです。
白鳥神社は諏訪にもあります。
海野の白鳥神社は昔、三分(海野宿から1.2キロ東)にあったんですよ。
昔は、海野から祢津へお嫁に行くとき、必ず三分を通って、
神社をお参りしてから行ったそうです。
海野の人にとって、三分は大事な場所だったんですね。
三分は、上田藩にとっても重要な場所だったと思いますよ。
三分から、海善寺、神科、神川までが、藤原氏の領地だったと聞いています。
三分は屯倉で、地名からも藤原氏がいたことがわかります。
三分には三分川がありますね。
昔は川の近くは、うんと栄えたんです。
三分の白鳥神社が流されて、海野宿に移ってきたと、昔から聞いていました。
三分は、海野の古城のあったところ。
でもお城の跡は、千曲川の氾濫で、
いまでは、川原の真ん中になってしまいました。
昔、小諸の殿様が、戦わずして領地を増やす方法を考えたんですって。
千曲川の上流小諸藩では、
堤防の角度を少し変えて、川の流れを、
自分の方の領地が増えるようにしていたんですって。
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⑥明治維新と宮下氏
明治維新は、大変革でした。
昔は帆掛け舟が一番安全だったんです。
船は風待ちもありますが、荷は減らないでしょ。
陸では、追いはぎが出れば、荷は半分以下に減ってしまったそうです。
殿様の領地換えのときも、帆掛け舟を使ったそうです。
明治になって、鉄道ができると、
それまでの優れた交通手段を一切やめてしまったんですね。
外国では、今でも水運を大事にしています。
うちはその水運を担っていた家系でもあり、
明治になって、水運が廃れたら、陸にあがった河童のようなものです。
(聞き書き:了)
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少々、史跡・歴史・故事・いわれ・地名の流れ を勉強できた。
やっぱり地元の方が語る歴史には重みがある。なあ~!