Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

帝都最後の恋

2009-09-03 01:38:20 | 文学
ミロラド・パヴィッチの小説『帝都最後の恋 占いのための手引き書』(松籟社、2009)を読みました。

パヴィッチ(またはパヴィチ)はご存知でしょうか?邦訳として、『ハザール事典』『風の裏側』が出版されていますが、日本ではそれほど話題にならなかったそうで、それほど知名度のある作家ではないようです。が、

すばらしい作家です。

嘘だと思われた方、是非『ハザール事典』をお読みください。これは、ぼくの人生の読書ベスト10に入るかもしれません。「事典」とあるものの、れっきとした小説です。パヴィッチは小説の線状性(始まりがあって終わりがある)を破壊している、とは『帝都最後の恋』の解説でも書かれていますが、『ハザール事典』はそれを体現した小説で、事典形式ですのでどこから読み始めても構わないし、どこで読み終えても構いません。極論を言えば、本を読み終えなくてもよいのです。気になる項目をぱらりとめくり、少しの間読んだら、電気を消してベッドに横になったっていいわけです。しかし全部を通して読むことをぼくはお勧めします。というのも、事典形式でありながら、この本は細部が緻密といえるほど別の細部と結びついており、全体としては夢の狩人の物語になっているからです。その上おもしろいことに、この本には女性版と男性版があり、両者で内容が一部異なります。

いつの間にか『ハザール事典』の紹介に終始しているので、ここらで本題に。『帝都最後の恋』はタロット占いにしたがって読み進める本、という体裁になっていますが、日本でタロットを所有している読者はあまり多くないと思われ、したがって事実上は本書の場合は最初のページから最後のページまでを順に読んでいく、という通常の小説と同様の読書方法が一般的だと言えるでしょう。その点で『ハザール事典』のような奇抜さはありませんが、しかし内容はパヴィッチらしい。

「相変わらず、夢とうつつは互いに相手をすっかり忘れてしまうのだったが、自分の名前が何だったかはもう分かっていた。彼は、ハエをつかまえるように、自分の思いをつかまえようとしたが、うまくいくのはまれで、たいては逃してしまった。つかまえても掌に残るのは死骸だけだったり、あるいは羽をもがれてなお飛び立とうとあがくものばかりだった。そして気がつくと彼の負傷した胸の跡に、生きた肉の代わりに、小さなしっぽのような一房の赤い毛が生えていた。」(p.112)

『帝都最後の恋』は3つの家族が複雑に錯綜する物語ですが、その構成を支えているのは奇想と新鮮な比喩です。上記の引用を読めば、そのいくばくかが分かることと思います。とりわけパヴィッチの繰り出す奇妙な出来事は驚きの連続です。本書には、三回の死を持っている男が登場しますが、彼はその死の光景を前もって芝居で演じさせてしまいます。男は、三度の死を経てもなお生き続けます。また舌の下に秘密を隠している人物、自分の乳房を唇と同じ色で塗り、体から桃の香りを放つ女、などなど。本当はもっといっぱいあるのですが、多くがエロティックであるため、ここでは自重します。なお、パヴィッチの作品にはエロティックな箇所が多数あり、ロシア語の訳書にはその集成(『エロティック物語集』)さえ存在します。

『ハザール事典』と同様、この小説も細部が他の細部と密接に結びついているため、慎重に読めば色々な謎が明らかにされていることに気が付きます。登場人物紹介は奇妙なあらすじにもなっており、最初に目にしたときはその人物相関図が複雑すぎてちんぷんかんぷんですが、読んでいる最中は役立つこともあるでしょう。

パヴィッチは非常に現代的な作家です。ウェブのハイパーテキスト機能(リンク機能)がパヴィッチの小説の特性であると言え、紙媒体の小説を破壊する作家であるかもしれません。実際、彼はウェブ上でも小説を発表しているようです。では、紙媒体の小説のよさはどこかというと、それはまず手元に置いておけるということ、それから(そのため)熟読できるということでしょう。特にパヴィッチの作品は中味が充実していて、読むたびに新たな発見がありそうなので、常に手元に置いておけるというのは強みであるはずです。また、どこからでも読める、というのは従来の小説の構造を壊すものでありながら、しかしどこでも気軽に読み返せることにも通じ、実は紙媒体に適していると言えるかもしれません。したがって、パヴィッチという作家は反対方向(ウェブか紙か/将来か旧来か)へ向かう力を抱えるある意味で引き裂かれた、アンビバレントな人物でありますが、それこそが現代的であるとも言えます。

いずれにしろ、『帝都最後の恋』をはじめ、パヴィッチの小説はグロテスクな想像力と構成に支えられた、読書の愉しみを助長し掘り起こしさえする稀有な書物であるでしょう。