英語の論文を読んでしまったので、『超短編アンソロジー』の残りを全部読むことができました。わーい。
おもしろかったのは、
ワイルド「弟子」
吉行理恵「梨の花の揺れた時」
谷川俊太郎「そのものの名を呼ばぬ事に関する記述」
萩原朔太郎「死なない蛸」
逸名「絵師」
ルナール「蛇」
谷川俊太郎「黄いろい詩人」
入沢康夫「樹」
筒井康隆「天狗の落とし文」
谷川俊太郎の「そのものの…」は、まさしく異化のお手本のような作品。シクロフスキー(をはじめとするロシア・フォルマリストたち)が文学にとって非常に重要なものであると考えたこの異化という手法は、あるいは「非日常化」とも訳されたことがあり、そちらの方がこの概念を伝えるのに適しているかもしれませんが、要するに日常見慣れているものを違ったふうに捉え直すことです。そのために、奇妙な語結合が試みられたり、ありふれたものをいかにも異様に描き出すのですが、本作では後者の手法が取られています。そのものの名前を言わないで、まるで初めて見るかのように対象を描写してゆく。そうすることで、われわれのものを見る目は洗われ、思考法そのものが刷新されるのです。
「死なない蛸」は、まるでハルムスの「赤毛の男」の物語のようです。たぶん既読作品ですが、新鮮な驚きがありました(単に忘れていただけなんですが)。赤毛の男の物語は、語り手が語っているはずの対象の人物が、虚無の中に溶けて出し、初めから存在していなかったような印象を読者に与える、極めて不可思議な、忘れがたい作品。一方「蛸」は、水槽で飢えていた蛸が空腹のあまり自分をすっかり食べ尽くしてしまいますが、しかしそれでもその存在は確かに水槽の中にありつづけているのだ、という奇妙な話。身体が無に帰すのは共通していますが、ハルムスにおいては存在自体が怪しくなり、萩原朔太郎においてはむしろ一層その存在が際立ってくる、というふうに両者は好対照を成します。また後者には動機づけが存在することも異なる点として挙げられます。
超短編というのはその「短さ」によって特徴付けられますが、内容的にはどうなのでしょう。必ずしもオチに頼らないところが、編者の本間祐によればその魅力に繋がっているらしい。また、極端に短い物語(それは物語である)の中に世界を一気に凝集してしまうところが一つの特徴であるようです。小によって大を語る、という姿勢が見られるといよいよ超短編らしくなるようでもあります。
ここで、ぼくなりの定義。短い物語の中に世界の不思議を詰め込んだのが超短編である。
あまりにも漠然としていて、ほとんど何も説明できていないことは承知していますが、今のところはこのくらいのゆるさが丁度いいです。
もちろん、ハルムスの短い物語群も超短編の範疇に入ります。世界の不条理さの本質を短い中に描いていますしね。
ところで超短編傑作選というシリーズが出ているみたいですね。図書館に置いて欲しいなあ。
おもしろかったのは、
ワイルド「弟子」
吉行理恵「梨の花の揺れた時」
谷川俊太郎「そのものの名を呼ばぬ事に関する記述」
萩原朔太郎「死なない蛸」
逸名「絵師」
ルナール「蛇」
谷川俊太郎「黄いろい詩人」
入沢康夫「樹」
筒井康隆「天狗の落とし文」
谷川俊太郎の「そのものの…」は、まさしく異化のお手本のような作品。シクロフスキー(をはじめとするロシア・フォルマリストたち)が文学にとって非常に重要なものであると考えたこの異化という手法は、あるいは「非日常化」とも訳されたことがあり、そちらの方がこの概念を伝えるのに適しているかもしれませんが、要するに日常見慣れているものを違ったふうに捉え直すことです。そのために、奇妙な語結合が試みられたり、ありふれたものをいかにも異様に描き出すのですが、本作では後者の手法が取られています。そのものの名前を言わないで、まるで初めて見るかのように対象を描写してゆく。そうすることで、われわれのものを見る目は洗われ、思考法そのものが刷新されるのです。
「死なない蛸」は、まるでハルムスの「赤毛の男」の物語のようです。たぶん既読作品ですが、新鮮な驚きがありました(単に忘れていただけなんですが)。赤毛の男の物語は、語り手が語っているはずの対象の人物が、虚無の中に溶けて出し、初めから存在していなかったような印象を読者に与える、極めて不可思議な、忘れがたい作品。一方「蛸」は、水槽で飢えていた蛸が空腹のあまり自分をすっかり食べ尽くしてしまいますが、しかしそれでもその存在は確かに水槽の中にありつづけているのだ、という奇妙な話。身体が無に帰すのは共通していますが、ハルムスにおいては存在自体が怪しくなり、萩原朔太郎においてはむしろ一層その存在が際立ってくる、というふうに両者は好対照を成します。また後者には動機づけが存在することも異なる点として挙げられます。
超短編というのはその「短さ」によって特徴付けられますが、内容的にはどうなのでしょう。必ずしもオチに頼らないところが、編者の本間祐によればその魅力に繋がっているらしい。また、極端に短い物語(それは物語である)の中に世界を一気に凝集してしまうところが一つの特徴であるようです。小によって大を語る、という姿勢が見られるといよいよ超短編らしくなるようでもあります。
ここで、ぼくなりの定義。短い物語の中に世界の不思議を詰め込んだのが超短編である。
あまりにも漠然としていて、ほとんど何も説明できていないことは承知していますが、今のところはこのくらいのゆるさが丁度いいです。
もちろん、ハルムスの短い物語群も超短編の範疇に入ります。世界の不条理さの本質を短い中に描いていますしね。
ところで超短編傑作選というシリーズが出ているみたいですね。図書館に置いて欲しいなあ。