ロシアの作家コロレンコの「森はざわめく」をいま読みました。
けっこうおもしろい。
この本には他にロシア民話集「不思議の不思議」も収められているのですが、時間がなかったのでとりあえずコロレンコの小説だけ。もともとのお目当てですし。
本書は図書館で借りましたが、近所の図書館にはなくて、リクエストして購入してもらいました。前にこのブログで群像社の編集者の方から「ぜひリクエストしてください」とコメントされたので、そのアドバイスにしたがった次第です。近所の図書館には群像社の本は普通に置かれているのですが、たまたま本書はなかったのです。
で、けっこうおもしろい。
若旦那である「私」が狩りからの帰りに森の番小屋に寄り、そこで老人の昔語りに耳をすませます。「森はざわめく」はその物語が主な内容。
民衆的な語り、と言うのでしょうか、訳がいいですね。いかにもお百姓さんという語り口で、昔の旦那の暴虐ぶりや当時の森番の素朴さ・愚かさをまるで目の前に見えるように鮮やかに語り、飽きさせません。コロレンコはウクライナ生まれの作家で、やはり語りの名手だったゴーゴリを想起させますが、負けていません。老人の語りが情緒豊かで、哀愁があり、本当にざわめく森の中で番小屋の外に腰掛けて彼の話に耳を傾けているような気にさせられます。いいなあ、こういうの。
森の主の擬人化は伝統的な昔話の手法で、老人の語る話もそれ自体は伝統的なプロットです。森と対比したときの人間の恐ろしさが物語られますが、旦那の傍若無人でずる賢い行いが糾弾されます。糾弾?いや正義感を持ってその犯罪を暴こうとするのではなく、旦那の残虐さを認めてしまう度量、というか諦念のような感情が老人の語り口には感じられます。現代人のぼくらは、悪い行いを目にすると何でも「それはいけない」「けしからん」と非難してしまいがちですが、19世紀のロシア文学を読んでいると、違う対応に出くわすことがあります。田舎の老人が、さも全てを諦めてしまった調子で、いや全てを悟ったような調子で、「昔はそうだったもんさ」とか「母なるロシアは広いんだ」などと言うのです。決して悪い行いを咎めだてしようとしません。まるで、そうなることが当然みたいに、あるいは何もかも初めから許してしまっているというふうなのです。
チェーホフの傑作「谷間」にも似た場面があります。乳飲み子を殺された若い母親に向けて言う田舎の老人の「母なるロシアは広いんだ」という言葉は本当に広大で奥行きがあり、ぼくはこの小説は極めてロシアらしい小説だと思っています。ロシアの度量の大きさを如実に表している文学作品です。コロレンコの「森はざわめく」にもまた、そういう広さがあります。
これは、いい悪いの価値判断では測れないと思います。確かに、悪いことに対して「悪い」と述べることは、現代の社会生活では必要不可欠な義務とも言えます。批判的に物事を受容する能力は情報リテラシーの一つでしょう。でもだからこそ、19世紀ロシアの片田舎のような、全てをそのまま受け入れてしまっている世界にたまらない郷愁を感じるのです。善悪に縛られ窒息しそうになりながらせせこましく生きているぼくなどは、この善悪を超越したような「全許容」の世界を、まるでファンタジーみたいに感じてしまうのです。憧れ?それはたぶん読書という異世界の冒険で得られる、貴重な感慨なのでしょう。
悪が頻りに糾弾される現代は住みよくなったでしょうか。それとも、悪が巧妙化するだけで何も変わらないでしょうか。いずれにしろ現代人は、黙って悪行を許容することはできません。それはファンタジーではありえないですが、現実を生きるぼくらの、いささか悲しい務めなのでしょうね。
けっこうおもしろい。
この本には他にロシア民話集「不思議の不思議」も収められているのですが、時間がなかったのでとりあえずコロレンコの小説だけ。もともとのお目当てですし。
本書は図書館で借りましたが、近所の図書館にはなくて、リクエストして購入してもらいました。前にこのブログで群像社の編集者の方から「ぜひリクエストしてください」とコメントされたので、そのアドバイスにしたがった次第です。近所の図書館には群像社の本は普通に置かれているのですが、たまたま本書はなかったのです。
で、けっこうおもしろい。
若旦那である「私」が狩りからの帰りに森の番小屋に寄り、そこで老人の昔語りに耳をすませます。「森はざわめく」はその物語が主な内容。
民衆的な語り、と言うのでしょうか、訳がいいですね。いかにもお百姓さんという語り口で、昔の旦那の暴虐ぶりや当時の森番の素朴さ・愚かさをまるで目の前に見えるように鮮やかに語り、飽きさせません。コロレンコはウクライナ生まれの作家で、やはり語りの名手だったゴーゴリを想起させますが、負けていません。老人の語りが情緒豊かで、哀愁があり、本当にざわめく森の中で番小屋の外に腰掛けて彼の話に耳を傾けているような気にさせられます。いいなあ、こういうの。
森の主の擬人化は伝統的な昔話の手法で、老人の語る話もそれ自体は伝統的なプロットです。森と対比したときの人間の恐ろしさが物語られますが、旦那の傍若無人でずる賢い行いが糾弾されます。糾弾?いや正義感を持ってその犯罪を暴こうとするのではなく、旦那の残虐さを認めてしまう度量、というか諦念のような感情が老人の語り口には感じられます。現代人のぼくらは、悪い行いを目にすると何でも「それはいけない」「けしからん」と非難してしまいがちですが、19世紀のロシア文学を読んでいると、違う対応に出くわすことがあります。田舎の老人が、さも全てを諦めてしまった調子で、いや全てを悟ったような調子で、「昔はそうだったもんさ」とか「母なるロシアは広いんだ」などと言うのです。決して悪い行いを咎めだてしようとしません。まるで、そうなることが当然みたいに、あるいは何もかも初めから許してしまっているというふうなのです。
チェーホフの傑作「谷間」にも似た場面があります。乳飲み子を殺された若い母親に向けて言う田舎の老人の「母なるロシアは広いんだ」という言葉は本当に広大で奥行きがあり、ぼくはこの小説は極めてロシアらしい小説だと思っています。ロシアの度量の大きさを如実に表している文学作品です。コロレンコの「森はざわめく」にもまた、そういう広さがあります。
これは、いい悪いの価値判断では測れないと思います。確かに、悪いことに対して「悪い」と述べることは、現代の社会生活では必要不可欠な義務とも言えます。批判的に物事を受容する能力は情報リテラシーの一つでしょう。でもだからこそ、19世紀ロシアの片田舎のような、全てをそのまま受け入れてしまっている世界にたまらない郷愁を感じるのです。善悪に縛られ窒息しそうになりながらせせこましく生きているぼくなどは、この善悪を超越したような「全許容」の世界を、まるでファンタジーみたいに感じてしまうのです。憧れ?それはたぶん読書という異世界の冒険で得られる、貴重な感慨なのでしょう。
悪が頻りに糾弾される現代は住みよくなったでしょうか。それとも、悪が巧妙化するだけで何も変わらないでしょうか。いずれにしろ現代人は、黙って悪行を許容することはできません。それはファンタジーではありえないですが、現実を生きるぼくらの、いささか悲しい務めなのでしょうね。