Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

路上に咲いたアニメーション

2009-09-26 02:18:45 | アニメーション
渋谷で『路上に咲いたアニメーション ライアン・ラーキン』を観てきました。
ライアン・ラーキンはアニメーション監督。ぼくは6年ほど前に彼の作品を観たことがあったのですが、それっきりで、それほど気に留めていない作家でした。2005年に彼の数奇な半生をアニメーション化した作品がアカデミー賞を受賞したことで再評価が進んだそうですが、そのことも知りませんでした。2007年に彼が亡くなり、そして今年には日本で彼の全作品が公開される運びとなりましたが(奇蹟だ)、それにも大いなる喜びを感じていたというわけではありませんでした。ただラーキンは優れたアニメーターですので、それで観に行くことは行くけどね、という気持ち。

ですが、ぼくはたぶんラーキンへの認識を改めなければいけない。とりわけ「ストリート・ミュージック」は紛れもない傑作です。既に観たことのある作品ですが、当時はそれほど印象に残らず、これが偉大な作品だという認識はありませんでした。今日、二度目の視聴をしましたが、すごい…

マクラレンのように軽快でパテルのように変容する、これほど自由で愉快で美しいアニメーションは他にほとんど例がないのではないでしょうか。抽象アニメーションの作り手ということで、サザーランドがマクラレンの後継者と呼ばれているそうですが、その音楽に合わせた動きの軽快さを真の意味で最初に継承していたのはラーキンだったのかもしれない、と思わされました。

まことに自由で変幻自在なそのアニメーションは色彩も豊かで、「動き」というアニメーションの最大特性を奪ってしまったとしても、それでも鑑賞に十分耐えうるほどの美しさを備えています。水彩の抽象画は輪郭がぼんやりしていて、隣接する模様と完全に溶け合っています。色の移ろい具合が見事で、精密な写実画よりもより多くのものを描き出している気がしました。スクリーンに映し出されているのは、ただ赤や黄や青といった色の「染み」で、それがぼやぼやと風景のようなものを形作り、様々な時刻における景色を現出させています。絵画の特徴として、小によって大を語る、みたいなことがありますが、まさにそれですね。少ない情報だけでより多くの情報を観客の脳にインプットしています。

しかしながら、ラーキンの真骨頂はやはり「動き」にあります。「ウォーキング」(かつては「歩く」と訳されていた)では、ただただ人間の歩くという動作をアニメートしていて、それだけで一個の作品に仕立て上げています。これは実写をトレースしたものではないか、と思っている人もいる、という話ですが、それは明らかに違っていて、アングルや遠近法などが実写ではありえないそれになっているし、様々な誇張が見られます、肉体のバランス、足の大きさなどで。アニメーションというのは単に人間の動きを模倣していてはつまらない、とぼくは思っていて、そこにどのような誇張を加えるか、が大事なはずです。もちろん、見過ごされている人間の動きを「発見」し、それを忠実に再現することは興味深い試みですが、それをグロテスクに誇張するのはより芸術的な方法だと言えるでしょう。ブラザーズ・クエイの人形が人間を模倣していないのは、恐らく彼らがそのことに自覚的であるからです。

日本で、ただ「歩く」という動作だけで一つの作品を作れる人を挙げろと言われれば、森本晃司が頭に浮かびます。あと、「やどさがし」の近藤勝也とか。ラーキンの軽快さは出せないかもしれませんが、しかし彼ら独自の動きの美学は表現できると思っています。

ラーキンの遺作、少し残念な出来でした。どこまでラーキンが関わったのか、専門家でないぼくには分かりかねますが、動きにキレがない気がしました。絵はラーキンのもののようですけれど、アニメートまで彼が担当したのでしょうか。全盛期を髣髴させるよいところもあったのですが、全体的に見て、傑作とは言い難い。悲しいですね。

ちなみに、初期作品「シランクス」は初見でしたが、これは隠れた名作かも。メタモルフォーゼがふんだんに使われており、アニメーションの醍醐味を感じることができました。

ライアン・ラーキン。今までそんなに関心なかったけど、立派なアニメーション監督だったんだなあ。ちなみに彼は若き日の栄光を捨てホームレスに身をやつしましたが、そこらへんの詳細はクリス・ロビンソン『やせっぽちのバラード』で説明されているのでしょう。土居さんという、ぼくの大学の先輩に当たる学生(話したことはなくて一方的に名前を知っているだけだけど)が翻訳をしていて、歳が近いのでちょっと悔しいけど、ラーキンの作品がとてもよかったので宣伝しておきます。ぼくは読んでいないのですが…