ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

お墓の話

2008-03-25 | なんとなく仏教?
私の実家には お墓があって 父が眠っている。

会った事もない祖父も 最期は認知症だった祖母も入っている。

入っているのは、お寺の歴代の住職が眠っている墓所で、
病気で倒れる前の父が きちんと整備しておいたものだ。




亭主の実家の墓地は 義母が亡くなって初めて作った。

立派な墓石に こだわりの文字が刻まれている。

今のところ 義母がひとりで眠っている。







私の 今年のテーマカラーは、薄いピンク。






私の昔の勤め先に アルバイトで入ってきたある女の子は
女性正社員全員が未婚なのに ひとりだけ結婚した。

彼女は あるお寺の跡取り息子とレンアイし、ケッコンをしたのだった。

話を聞くところによると
お姑さんという人、これがなかなかユニークで面白い人のようだった。

「死んでまで お父さんと 一緒の墓になんか 入りたかないわよ!」

と 公言していらしたようで、
「その時、お父さんは?」と聞くと
となりで しょんぼりとしながら お母さんの発言を
黙って聞いていらしたのだという。

そのお寺さんでは 歴代住職の墓地と
寺族(住職の家族?)の墓地とは 別になっているらしかった。

私の実家は みんな一緒になってしまうけれども。

いろいろなんだなあ、と思ったことだった。







自動車屋のアニキからいただいたお歳暮のシンビジウムがこの色だったのは
単なる偶然。






「姑とは 一緒の墓には 入りたくない」
という嫁は多いのだそうだ。

私も 姑と同居でもしていたら そんな気分になったのかもしれない。



先日は 新聞の人生相談に
まだ生きている両親の 将来の墓地をどうしたらよいか、
という相談が寄せられていた(→自分勝手な父の墓 どうしよう

墓をどうするか、という問題に 
「身勝手」ということがかかわってくるのは
残されて 先祖をまつる人間の心情として 
「それは、イヤッ」というのがあるからだろう。

(わからないでは、ない。。)



この相談者のお母さまも 
夫婦一緒の墓には入りたくない、とおっしゃっているようだ。

(わからないでは、ないのだが。。。)



お父さんの実家の墓は 伯父さんが守っている。

一方、お母さんの実家の墓を守っているのは、末っ子のお母さん。



お父さんを 実家のお墓に入れるには 
伯父さんの許可が必要だろうと思う。

伯父さんが 「ダメ!」とおっしゃった場合、
別の場所を考えなくてはならない。



弁護士の回答にも

伯父さんの承諾が得られなかった場合、

「祖父の墓は、 お兄さんの直系の家族が入るのが普通です。

 実家を出て独立して一家を構えた方は、入れないのが通常でしょう。

 したがって、おっしゃるように、父上の墓を作るか、

 お寺と相談して別の供養の仕方を考えるしかないと思います。」

とある。

別のお墓を お父さんのために建てる、というのは お金がかかる。

相談者は きっと違う方法を検討するだろう、と 勝手に想像(笑)。







薄いピンクの花が咲く予定のヒヤシンス。






でも、どうして 独立して一家を構えたら 一緒のお墓に入っちゃいけないの?

実家が田舎で 今も田舎住まいの私には 解りかねる。

大家族主義では いけないのか?

核家族化したからこその、問題点も多々出てきたことを知っている私たち。

それでも 宅地開発のためならば、と
ぽんぽこ狸の出没するような山を切り開き、
家を建てて エッチラオッチラ 通勤や通学に時間を割いてきた私たち。

墓地開発のために またまた山を切り崩して
将来はどうなるか?

少子高齢化の影響で
そのうち どんどん 無縁墓になっちゃうんだよ?!



だったら このムラの人たちの 畑の中の墓地みたいに
一応 家ごとには分かれているけれど
親戚一同、みんな、ここ!という収まり方の方がいいんじゃない?

今の世で 一緒に暮らすのは 気苦労があって大変でも、
お墓でならば みんな一緒で いいんじゃない?






一方、回答者によると
相談者のお母さんは 墓地を 事実上管理しているというだけで
使用権は 実家の当主にある事も考えられる、という。

ややこしい。

「入れて。」と言われたら、「いいよ。」と言って 入れてあげるのよ、
そう公園や幼稚園で習ったのではないかいな?

そうして、オキナワ式に お墓の前で、みんなで大宴会!(爆)

(あ、宴会ができるほどには 広くないね。。。。。)




まあ、だいたいが、
死んじゃったら みんな 仏さま
(または、仏さまになる修行中の人)なわけだよね?

だったら、誰と一緒の墓に入るのか、なんていう小さなことには、
だれもこだわらないよね?

死者となってしまったからには、
小さなことにこだわらず、おおらかに見守っててほしいよね。

文句は言わないはずだよね(笑)。

「T子さんの話」(2008年2月16日の記事)のT子さんによると、
死者の魂は 一瞬のうちに 
行きたいと思う場所にすっ飛んでいけるのだそうだから、

どこへでも 行きたいところに行けばいいよね?

(だから、富士山の見える墓地、なんてのは ナンセンスなのだとか。

 確かに、富士山が見える、という景色は やはり気持ちがいいと思う。

 だから、死んでからではなく、生きているうちに行きたいね。

 あ、そうか!

 残された遺族がそこに行きたいから、そういう場所にお墓を作るのか!)





亡くなった後の魂は 
それまで苦労させられた人とか 毛嫌いしていた人とかを
区別して 受け入れたり 受け入れなかったりする、というんだろうか?

ねえ、お母さん、娘さん。

どんなお父さんでも、
骨になっちゃった後ならば
ちょっとガマンして 入れてあげようよ。







ピンクの花が咲く予定の、チューリップ。どんなピンクだろう?






私自身の死後のことは 
残された者たちが やりたいように、やりやすいように、
やればいい、と思っている。

(半分、そんなの、どうでもいいや、と 思っている。

 でも、それは、内緒。)



お彼岸に見た夢

2008-03-23 | なんとなく仏教?
変な夢を見た。

亭主と私が 泊りがけで出かけている。

出かけた先は、霊園。

どの墓地を買おうか、と 悩んでいるのだ。

翌朝、
亭主が私に向かって
「お前は真剣に考えていない!」と怒る。

「いや、そんなことはないけど。。」と思いつつ、
私は 分譲墓地の隣の園芸店で買ってきた花を
ホテルで愛でているのだ。



そして 夢の中には登場しなかったけれど、
その墓地のそばのお寺で
ウチの息子が修行中、ということになっていた(笑)。

修行させてもらえるようなお寺なら 大きなお寺のはずだが、
夢の中には いっさい、出てこなかった。

もし私が 甥っ子が修行した道場を知っていたら
夢の中に お寺も そこで修行する息子も
霊園の向こうあたりに 見えていたかもしれない、と思うと、
悔しい(笑)。

息子よ、アンタは ちゃんと修行していたのか?(爆)






先日 散歩で フキノトウを見つけた。





「葬式仏教と言う言葉は 仏教を悪く言う場合に使うし、
私も 残念な思いで使う。

ところが 20日の朝刊に
「<葬式仏教>は日本の誇り」という一文が寄せられており、
私の目を引いた。

書いたのは 末木文美士(すえき・ふみひこ)氏。

(筆者関連記事→死者とともに“生きよ”

筆者は 
「葬式仏教というのも、それなりに悪いことではないと思っている。」
と言う。




氏によれば、
近代文明の誤りは、死者を忘れてしまったことなのだそうだ。

だから、
葬式仏教という形で、
死者とかかわり続けてきたことは、
日本の仏教の誇るべきところであるとさえ 思っている、
と述べる。

他国の近代文明については 全く無知の私には
これは正しいのかどうかは 判断できない。

けれど
続く
「死者なくして、生者だけでやっていけると思うのは、
 生者の傲慢である。」
の文には 深く頷いてしまう。

仏教は、そして 葬儀は
死者のためと言うよりも むしろ 生きている者のためにある、
と思っている私には
理屈ではなく 共感してしまう一文だ。







意地の悪いことに、何故かフキノトウは 他所の家の塀の中にあることが多い。
いくら 住む人のいなくなった家でも 入り込んで採って来るわけにはいかない。






今日、その葬式仏教も大きく変わりつつある、と著者は言う。

それが‘家’制度の崩壊によるものだとは
私も気が付かなかった。

‘超’が付くほど田舎の当地でさえも
葬式のありようは 大きく変わってきており、
まだまだ変貌の途中、といった感がある。

隣組が健在であるのに 互助制度は崩壊しつつある。

‘家’制度にも 近隣の‘互助’制度にも
気に入らないこともいっぱいあるが
残すべき部分も多々あるはず。

今 ちょうど なし崩しになってきつつあって
ムラの人々は 混乱しているように見える。

高齢者がどんどん鬼籍に入っていって
全共闘世代が実権を握った時に
(田舎では 60歳を過ぎないと 
 これからも発言権はないだろうと思われる。)
お寺は どんな風に変わっているのだろうか。

不安であるとともに 
私は大いに楽しみにしている。

末木氏は
「死者との関わりを、どのように新しく構築しなおすことができるのか。」
と書いているが
それはすなわち
「生きている人との関わりを どのように構築しなおしていくのか?」
ということだと思う。

若き僧侶たちよ、勤勉であれ!





きょうはお彼岸明けの日。

みなさんは ご先祖の墓参りにでかけたろうか?

私は 今年もやっぱり 行けずに終わる。



仏教の堕落は世襲制から始まったのか?

2008-03-14 | なんとなく仏教?
寺院の名簿?が 戸籍の役割を果たすようになったのが
確か江戸時代。

‘葬式仏教’の始まりだ。

でも それ以前から
僧侶が 実の子息を 自分の正統の跡取りとして承認する、
というのはあった。

なんと、平安時代末には すでにあった。

これには、びっくりする。

つまり 実の子どもが生まれるようなことを、していたわけだ。

そんなことが 認められていない時代だったはずなのに。

その後 女房・子どもと一緒に 教団を形成する宗祖もでてくる。

もう、どうにでもなれ!だ(笑)。







冬が終わる、という次期に 今年は 土手の下で‘野焼き’が行われた。
‘野焼き’は 県の条例で禁止されているが 
去年 強風の日に 枯れた草に火がついた事から 
地元の人たちが考えたのだろうと思う。






やっぱり 私は
子どもが必ず親の後をとって 後継者になるのが
当たり前に繰り返されるようになって
仏教の堕落は極まってきたのでは? と思っている。

仏教が、お寺が、つまらなくなった!







黒い土手と野鳥。 たぶん、アオサギだと思う。
初めて見た時には 鶴かと思って興奮した!(笑)
条例で禁止されているけれど、「病害虫の駆除のため」という一文があれば
野焼きは 容易に許可されるらしい。






私が学んだ仏教学部には
お寺の跡取り息子がいっぱいいた。

跡取り娘もいた。

次男・三男で 婿入り希望者もいた。

そして 臆面もなく
「実家の跡をとる」
「お婿さんをもらって実家の跡を取る」
「喰えるお寺に婿に行きたい」
とノタマッテいた。

実は私も 実家の寺の跡を取るのだろうと周囲から思われていたし
親も「あわよくば」という感じでいた。

(貧乏で、「喰えるお寺」じゃないのに。)

姉は 東京で サラリーマンの息子(それも、長男)と付き合っていて
実家に戻る様子はなかったのだ。

私は そんな周囲に反発していたから 
そんなふうにだけはならないように(爆)気をつけていた。

しかも、大学に入って 反発が一層強まったのだ。

それは。。。







土手の芝焼きをすると たくさんのゴルフボールが出てくる。
カラスがくわえてきたのか?
私は拾って持って帰って 愛犬のおもちゃにする。
噛み砕いたのを見ると ボールの芯には いろんな種類があることがわかる。






何の疑問も持たずに(少なくとも、持っていないように見えた)
跡を継ぐ、と考えるオトコどもが不思議でならなかった。

覇気がない! とも思った。

女性に対しても、なぜそう思えるのか?と 不思議だった。

イヤラシイ、とも思っていた。



仏教学部は 偏差値が低くても入学できた。

僧侶を目指す学生が みんな馬鹿に思えた。

実際、
坊さんになるには 国語と音楽さえできれば
勉強はできなくてもいい、とか

(つまり、お経がちゃんと読めさえすれば 
 英語も数学もできなくていい!)
 
男の兄弟がいっぱいいる中で
一番デキの悪いのが お寺の跡をとることになった、とか

(しかも、本当に、兄弟で一番不出来な子だった!)


私が通っていた宗門関係の大学に入学することを説得するために
親が息子に 車を買ってやった、とか

(しかも、本当に、
 バカ! としか言いようのない外車を買い与えるんだ!!!

 たとえば、ムスタングを買ってあげるから、
 あの大学の仏教学部に入ってね、とか。

 バブルの始まりだったのかね?)

そんな話は いっぱいあった。



あんな奴らと 付き合ったり 結婚したりなんて、絶対するもんか!
と 私は思っていた。



成績の悪い学生達は 不真面目に見えた。

仏教の勉強さえ、マジメにやっているようには見えなかった。

だいたいが、
あんな奴らが僧侶になって 寺の跡を継いで、お経を読んで、
死者が成仏できるのか?!

本気でそう思っていた。



そんな私も 
就職して 結婚して 子どももできて アタフタしていて
ようやく落ち着いてきた頃

彼らの噂を風の便りに聞くと、
なんと、あの不真面目馬鹿たちが 
意外にも マジメにやっているらしいことがわかった。

そんなもんなのかな~~~~?



あんな大きくて有名なお寺の息子が 
あんなアホンダラで どうするんだろう?
と思っていたアホンダラ先輩も
もうそろそろ有名な住職になってきている。

ふとした折に写真入の消息を見つけると
昔と同じ顔で 
少々老けていたり、ふっくらふくらんでいたり、の姿で
それなりにやっているみたい。

あの頃の私がしていた反発や心配って、
必要のないものだったのかしら?







焼いても踏んづけても 野の植物は元気だ。






一昨年 
実家の甥っ子が 僧侶になるための修行をした。

これで一人前の一歩手前、というところまできた。

私は安堵した。

実家の姉も闘病中だが
その夫で 住職である義兄も 持病を持っていて 
発作を起こしたこともあるという。

(だいたいが、太りすぎなんだよ!)

これで 何かあっても、安心だ、
そう 私は 思った。



仏教は、寺院は、こうして堕落していくのだろうか?

あれほど嫌っていた寺院の世襲に安堵するなんて、
私は 
ずっと こうした矛盾した考えを持っていたのか?!



ひとつ 嬉しかったのは
甥っ子が 僧としての道を歩き始めたことを
お檀家さんたちが喜んで下さっている、と聞いたこと。

お檀家さんというのは 
イバラキの 実家の周りの 農村地帯の 
あの強い訛りの(笑) 村の人たちで(いや、最近は市民になった)、

姉や私や それから甥っ子たちのことを
小さい頃から見知っている人たちだ。

(義兄は 実家の跡を弟に任せ
 東京の会社を退社して 
 父に弟子入りして 
 本山で修行もして
 父の死後、実家の寺の住職になった。

 近所の人たちが義兄に初めて会った頃には 
 義兄は30歳くらいだったと思う。)

そんな人たちが すごく喜んでくださっている。

甥っ子が伺うと 喜んでくださる。

甥っ子を 可愛がってくださる。

そして 同年輩のお檀家さんたちは
住職である義兄に向かって
「早く代替わりしろ!」と 冗談を言うそうだ。

(冗談でなかったら大変だ! 笑)

また 甥っ子は 年寄り達に とても‘ウケ’がいいそうなのだ。

オバチャンは 嬉しいよ。

叔母バカしてるけど、
世襲制も、悪いことばかりじゃ、ない、よね(汗)?







「生命の再誕」といった勢いを感じる。






世襲制でないとしたら、どうなるか。

私の想像が当たっているかどうかはわからないけど

いろんな規則がたぶんあって

このお寺の住職が亡くなって
(または、夜逃げして? または、追い出されて?)
ポストが空きました、となった場合、

近所のお寺さんから 派遣されてきた人が
本山の承認を得て 住職(または兼務住職)になる、

あるいは 本山から派遣されてきた人が
近所のお寺さんに認めてもらって住職になる、

そんな感じかと思う。

いずれにしても
「こんな人がいいな」と お檀家さんが望んだとしても
その通りになることは 滅多になさそう。



それまでの 良く知っている住職やその子息が
(田舎の場合、それこそ100年以上も前からの付き合いだったり;汗)
 
それまでどおりの付き合いを継続していける、という
安定した関係では なくなる。

より安定を求めるようになった年寄りたちにとっては
不安材料になるかもしれない。

だから、
多少 デキが悪くても、という気分も わからないではない(苦笑)。



一方、跡取りのいないお寺さんの場合、

現住職には 
次期住職になる僧侶を 選び出し、一人前にするという責任が 
少なからずあり、

後継者が赤の他人の場合、
それは かなり大変な仕事になるだろうと想像する。

実際、養子を取ったり 夫婦養子で後継者を入れたりした場合の
若い人と 熟年者との 仲というか 相性の良し悪しは大切で、

跡をとるつもりだったが 止めて 寺を出てしまった
(跡をとらせるつもりだったが、出て行かれてしまった)、
などというあちこちの噂は 耳にしてきた。

(『雲の上のキスケさん』で、キスケさんはひとり息子だとか。

 キスケさんの両親はどうするんだろう?)

(映画『パッチギ!』の男の子は 跡をとったみたいだったね;笑)



それが 跡取りが自分の子息ならば
ある程度の事までは やはり やりやすいはず。

(そして、‘ある程度’以上の事は  本人の自覚次第で、
 周りがどんなに教え諭しても 
 本人が自ら求めなければ習得することはできないのでは?)







きょうは、ホワイト・デー。 
過日出かけた亭主からは 
既にコージー・コーナーのホワイト・チョコレートをもらってある。
さっき 冷蔵庫から出して食べた。 もちろん、美味しかったよ!





まとまらないのに、エラソウなタイトルをつけてしまった。。。



免許を取得した息子の運転する車に乗って 実家に行って
久々に甥っ子の顔を見たのは
去年の5月のことだった。

甥っ子の頭は ボサボサに伸びていたのだった。



天人の五衰

2007-09-24 | なんとなく仏教?
「天人の五衰」っていうのは、
「天界」に住む人の寿命が尽きて死ぬ時に
(って言っても、人間の寿命とは違って 
 桁外れに なが~いんだけどね)

5つの徴候が見られる、という話。









① 衣服が垢で汚れる

② 頭の上の華鬘が萎える

③ 体が汚れて異臭がする

④ 腋の下に 汗が流れる

⑤ 自分の座席を楽しまない

つまり、浮浪者みたいになるというか 
ただの老人になっていく?

(広辞苑の「五衰」の項に書いてあるのって、
 言葉が難しすぎ!)









倶舎論によると 上の「大の五衰」の他に「小の五衰」もあって、
こちらは

① 楽しい声が起こらない

② 体の輝きが 急になくなってしまう
  (つまり 天人って 光ってるの?)
  
③ 沐浴した時に 水が身体に付着してしまう
  (つまり それまでは 水に入っても濡れなかった?)

④ 周りの光景に執着してしまう

⑤ 目をさかんに パチパチする

だそうで、なんかこれは 
昔を懐かしむ 老人性うつになりかけた老人みたい?

(参考:『佛教語大辞典 縮刷版』中村元著、東京書籍、1981、5、20)









天人じゃない身には
もっと早く顕著に老いの衰えが出てくる。

母の遺伝子のお陰で 私は白髪が遅かったが
50歳になって
眉毛にも(驚) 鼻毛にも(愕) 
ちらりと白髪が見えるようになった。

シモの毛に白髪があるんだから(恥)、 
カミの毛にもきっとあるだろうと思う(涙)。










天人もきっと 年をとると
記憶力や 集中力がなくなってくるんじゃないだろうか?

娘にデジカメを取られてしまった私のために
亭主が新しいのを買ってくれたけど







まだ使えこなせないで居る(汗)。

きょうは以前に写した画像を集めてみた。

いつ撮ったものやら?(汗)

盆棚

2007-08-14 | なんとなく仏教?
暑い。 

お盆だ。 

お盆は暑いと決まっている。

それにしても、暑いんだけど・・・・・・・・・。(タメイキ)






去年は盆棚をどうしたか覚えていないのだけれど
忙しい上に 義母の新盆が頭にあって
頭の中が忙しかった。

イバラキの亭主の実家に 新しい盆棚を作って飾るから
我が家のは別にいいか、
ということになったような気がする。

お位牌を作って持っているのに
そんないい加減なことでいいんだろうか?(冷や汗)



お盆には 
普段は仏壇の中に納められている仏さまやお位牌を
仏壇の外に出すのが大事、ということだ。

だから、とりあえず、仏壇のそばの出窓に出してみた(笑)。

いいんだろうか、こんないい加減で(苦笑)。








仏壇の中に納まっていた いろいろな仏さまもご一緒に(笑)。

国内の観音さまとか 東南アジアのお土産の如来さまたち。

(我が家は海外旅行は行ったことがない。

 高崎観音くらいだね。)

みなさん、どうか、仲良くね(笑)。

お茶とご飯は上げたけど
・・・ウチにはお膳がないんだった!(涙)





仏壇から出したら 次は結界だと思う。

結界にするための小さな笹くらいは 売ってるらしいから
来年は笹を4本買ってきて
四隅にガラスの空き瓶を置いて 笹を立てて

それから 縄を買ってきて 笹の周りをぐるりと取り巻いて
なんとか結界を張ってみようと思う。

・・・出窓じゃ無理か。。。



でもなんとか 四角く縄を張りたいし 

縄を張ったら そこにはピラピラと飾りを付けたい。

いい加減すぎる我が家だけれど
少しずつ それらしく
日本文化の継承を計ろうと思う。



土・日・祝祭日に忙しい我が家。

お盆休みも忙しい。

今年はお盆の前が週末で お盆の後が週末。

忙しい日が続く。

そんな中、
亭主は先日 土曜日だというのに 実家に帰った。

盆棚を 義父と一緒に組み立てて来たらしい。

忙しいって言ってるのに!

でも 忙しいのは 私じゃなくて 亭主だから。

ご勝手にどうぞ。


費用

2006-10-03 | なんとなく仏教?
『東京タワー』の中で

「息を引き取ってそれほど時間も経たないうちに、
 様々なことが他人主導で行われることに憤りを感じながらも、
 かといって自分ではなにをしていいのかもわからない。」(p.385~)

と書かれている。

これは 身内の死に接した人の
ほとんどが感じることではないだろうか。



続けて

「この葬儀屋の中年男性は礼節だけはわきまえているが、
 その他の感情は一切表面に出さず、
 ただてきぱきと動く。

 こうすることがボクたち遺族とのバランスを取るための
 マニュアル的行動なのだろうか。」

とある。

義母が亡くなった時に来てくれた業者は
女性だったけれど
笑っちゃうほど、本当に こんな感じだった。


EEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE

画像は 夏の間中、そして今も咲き続けて
ず~っと見ごろのままの
ゴマノハグサ科 アンゲロニア属 エンジェルラベンダー。

PPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPP


オカンは 毎月三千円ずつの90回払い、
一番安い27万円の葬式プランに加入していて
もう70回くらい「払うとった」。

けれど 
葬儀の請求書は 200万くらいに「なっとった」。

「なんでもかんでもオプション料金になっとる。」(p.418)



私は 14年前の父の時も
今回の義母の葬儀にも
いくらかかったのか、まったく知らない。

ただ 遅れて着いた娘と私の前で

義母が「枕直し」をした部屋の隣で

義父や義弟や亭主が
業者と話して 次々といろいろなことを決めていくのを 

半ばぼうっとしながら
見ていたり 聞いていたりしていたのみ。



その中でも 時々
「それは オプションになります。」
という言葉を聞いた覚えがある。

オプション料金であることを
はっきりと業者は伝えるべきだし

たいていは伝えているだろうと思う。

そして
それらを合計した見積もりを
キッチリと計算して
提示しているだろうと思う。

世の中、
悪い業者はいるものだけれど
それほど多くはないだろうと思う。



ただ 

身内が亡くなった時というのは
何故かうろたえるものだし

予想もしていなかった死、という場合は
もう何が何だかわからないし

はっきり言って
何がどうでもかまわない、
という気分になるかもしれない。



以前テレビで 
役所広司が出演していた番組で
(たぶん 今年8月15日の「ガイアの夜明け」)、

喪主役の役所広司が 悲嘆に暮れて 
葬儀屋の社員に向かって
「もう、なんでもいいから、おまかせします!」
とやっていた。

それでも 見積もり金額は
キッチリ出してもらって
よ~く確かめて
うんとよく考えなければならない。かもしれない。

そのテレビ番組では
何年か前の葬儀費用、
全国平均は236万円、と言っていたと思う。

今はもっと少なくなっているような気がする。



これが 葬祭業者だったら
見積もりが出るからまだいいのかもしれない。

お寺さんに渡すお布施となると
それがない。

ないのは当然なのだ、
出す側が いくら渡す、と決めるものだから。

商品をお買い上げになるわけではないから、
定価が決まっているはずもない。

布施というのは 修行のひとつで、
私たちが その修行を お寺さんを相手に
「させていただく」ものなのだから。



戒名料も同様。

金額が決まっていることの方がおかしい。

決して
戒名料をたくさん払うのはイヤ、
でも 院号をつけてほしい、
なんてことは思ってはいけない。

戒名料は いくらでもいいのだ。(建前は。)

いくらでもいいのだったら、
どんな戒名でもいい、と思わなくてはならない。

(ただし、お寺としては
 戒名料も お布施の額も
 高額の方が やっぱり、嬉しい。。)



私の考えでは
戒名というのは
現世において どれだけの功徳を積んだか、によって
選び 付けられる 出家後の法名であって、

それを 
亡くなった人の代わりにお願いして
亡くなった後に付けてもらうということは
代わりに 慌てて 功徳を積む事が必要。

だから
はっきり言えば それは 現金で いくら渡すか、
という問題になる。

お金がなくても
功徳を積んだ人ならば
良心的なお寺さんなら
立派な戒名をつけてくれるはずだ。

そして 
立派な戒名というのは
これは 世間の常識とは違うのかもしれないけど
長けりゃいい、というものでもないような気がする。



個人の見解の問題だけれど
私は
感性に合って 
すんなりと受け入れられる文字と音の戒名がいいな、と思う。

故人を髣髴とさせる戒名、というものがあるのは、事実。

要は 文字と 発音した時の音、だと思う。

ちなみに私は

遺影は撮ったけど
戒名を付ける準備はあまりしていない。

好きな文字を考えてはいるんだけど(笑)。

(義母の戒名には 
 義父の意向で
 「明」の文字が入った。
 
 ネアカそうな字を入れたかったようだ。)



最後に。

お寺さんも 受け取ったお金に対しては
領収書を書いてくれる。

相続などの際に必要になることもあるらしいので

遠慮なく領収書を要求すればいいと思う。

まさか 怒り出したり 断ったりする坊さんは
いないと思うのだが。

(セカンド・オピニョンをとる、と言うと
 怒り出す医師もいる、という話だから
 わかんないけど。)

初七日

2006-09-11 | なんとなく仏教?
家に戻って
忙しい一日を過ごしてすぐ
2006年3月の日曜日が来た。

この日は義母の初七日で
私は亭主の実家に向かった。

葬儀のあとで
私は実家の姉に
「お義父さんを 十日やそこらは
 ひとりにするなよ。」
と言われていた。

「う~ん。」
と返事をしておいた。

難しい、と感じていたからだった。



この日曜日に
それまでひとり残って泊まってくれていた義弟が
家族の待つ家に一度戻り、
そして単身赴任先に帰る、というので

もう少しの間 義父をひとりにしないように、と
私と亭主(と我が家の子どもたち)で話し合った。

亭主はどうしてもはずせない仕事で出かけることになっており、
私が代わりに朝早く電車で向かうことにした。

我が家の手伝いは 
子どもたちが私に代わってやってくれるはずだった。



義母が亡くなった日に 息子が乗ったという
午後一時のバスに乗ろうと
上野から乗った常磐線を降りた駅で
バスを待つ。

ずいぶん待ったが バスが来ない。

バスは電車ほど時刻表通りではないけれど、
と思いながらよく見ると
そのバスは日曜・祭日には運行されていなかった。

ふだん 休日に家を空けることはあまりないので
すっかり忘れていたが 日曜日だったんだ!

たっぷり30分以上待っていたのに
次のバスまでは まだまだ1時間くらい待つ。

がっかりしてタクシー乗り場へ。

5千円以上払って、ようやくたどり着くと
義弟はそろそろ家を出る、というところだった。



一緒に祭壇の前に行き、
3人で手を合わせた。

これで初七日法要を無事に終えたつもり。



初七日から一週間ごとに二七日、三七日・・・
と四十九日まで7回の忌日がある。

それぞれ大切な区切りで
昔は丁寧な家では
そのたびに法要をやっていたかもしれない。

家族で集まって手を合わせれば
それが供養、と私は思っている。
 
義母がいつも持ち歩いていたハンドバッグに入っていたという
「勤行儀」というのを
亭主が家族分コピーしてくれてあったので
それをひと通り読み上げる、という
本格的(?)法要になった。



そのコピーした紙を 
私はなくしてしまった。

前にも書いたが 昔使った本格的(!)お経本を
私はどこかにしまい忘れている。

家にあるかもしれないし
実家にあるのかもしれないが
何十年も見て触っていないのは確か。

数年前に100円ショップで見かけて買っておいたもので、
義母の「勤行儀」によく似た、
「○○宗の勤行儀」(だったかな?)という薄っぺらいお経本も
どこへいったかわからなくなっている。

バチが当たったらどうしよう?



ところで
七日ごとの忌日には 
それぞれ仏さまが決まっている。

亡くなった人を守ってくれるのだそうだ。

これは 追善供養の考え方と
道教の十王信仰が融合したものだそうで、
つまり、こんな組み合わせ。

初七日---不動明王、秦広王

二七日---釈迦如来、初江王

三七日---文殊菩薩、宋帝王

四七日---普賢菩薩、伍官王

五七日---地蔵菩薩、閻魔王

六七日---弥勒菩薩、変成王

七七日---薬師如来、泰山王



・・・・・・変換と言うのは便利な機能だ。

自分で漢字で書くと大変だ。



それから

百箇日---観世音菩薩、平等王

一周忌---勢至菩薩、都市王

三回忌---阿弥陀如来、平等王

となっている。種本では(笑)。

○○王と書かれた十王信仰の王さまは
私はなじみがなく、
閻魔王しか聞いたこともない。

こんな仏さまや神さまに守っていただきながら
亡くなった人はお浄土を目指すのだろうか?



義弟は帰るときに 私に
「家の中は 向こうもこっちも
 一応全部 クリーナーはかけておいたから。」
と言う。

びっくり。

マメな義父にマメな亭主。

義弟はそのなかでもノンビリヤと思っていたが
意外なまでにマメな人だった。

私は正直、助かった。

クリーナーと言うのは 
重いものを引っ張って歩く力仕事、
おまけに腰をかがめるので腰痛になる。



私の務め、と思って
お料理だけは一所懸命にさせていただいた。

義母の仏前にも供えた。

お風呂に入っても やはり髪を洗うことはできなかった。

読経(どきょう)

2006-08-27 | なんとなく仏教?
他の人たちが集まってくる前に、
姉夫婦と一緒に
なんとか早めに葬儀場に着いた。

喪服を着て。

そうして葬儀が始まったわけだが
今の私の頭の中では
記憶が吹き飛んでいて
覚えていない。

次に覚えているのは
葬儀が始まって
落ち着いた時のこと。

私は最前列の 義父、亭主の次に並んで座った。

私の隣には我が家の子どもたち。

すぐ後ろの列には 義弟一家の四人が座った。

すべて、椅子席。



この、「椅子」というのは、
ひじょーーに、大事。

実家の父の本葬儀の時には
義兄の新住職就任儀式(晋山式;しんざんしき、と言う)も兼ねていたので
やたらに長く、
実家の本堂に 2時間はたっぷり座っていた。

しかしこの時
私は足首をひどく捻挫してしまっており、
正座椅子を使っていたので助かったのだった。

しびれてしまった足をぐずぐずさせるのも
みっともないし プライドもあるし。。。(笑)



義母の葬儀のこの日は 
朝から強めの雨が降り続いており、
椅子であることばかりでなく、

駐車場が広いこと(田舎では全員 車で動く)、
いったん建物の中に入ったら
あとは雨に濡れる心配がないこと、
お手洗いが広くて 列を作って並んで待つ必要がないこと、
などなど、
自宅葬ではかなわない利点が多々あった。

斎場を借りての葬儀になって
本当にありがたかった。



葬儀が始まって間もなく
私が強く思ったのは
お経が退屈だ!
と言うことだった。

笑わないでいただきたい。

叱らないでいただきたい。

熱心な学生だったとは言えないが
仮にも仏教学部の卒業生である
寺の娘の私が

「ああ、お経、たいくつ。」

と思ってしまったとしても
不思議ではないと思う。

誰だって退屈なのではないだろうか?

仏教会はもっと工夫して仏陀の教えを説いてほしい!



そうしたら
ふと 聞き覚えのある部分が!

私は 葬儀を執り行う資格はないが
葬儀の際に読まれるお経を
読む練習をしたことはある!

(お経本だって、持っている!)
(どこへやったろう?涙)

その中の ちょっとしたリズムで印象的な部分にさしかかっていたのだ。

ああ!

私、このお経、知ってる!(笑)

それは、「懐かしさ」だった。



意味は よくはわからないまでも(苦笑)、

すこしは だいたいは ちょっぴりは(笑)

どういうことが書いてあったか、
漢字の感じで 想像できたものだった。

ああ、これで退屈しなくて済む、
と 正直 ほっとした。

あくびをかみ殺す回数が減るというものだ。

隣の亭主にバレたら 後で叱られるだろう。

でも 眠いものは眠いのだ。

全員、そうだったろう。



それでも 私の大学の先輩だという僧侶は
なかなかの美声でもあり、

しかも 法則(ほっそく)や歎徳(たんどく)の部分(だと思う)で
かなりわかりやすい日本語で
義母の生前を語ってくれたので
しんみりと聞き入ることができた。

これは
亭主の実家の坂道を降りたところの寺の住職さん、
貴方のおかげ。



退屈していようがいまいが、
葬式だろうが結婚式だろうが、
おかまいなしなのが、ホットフラッシュ!(笑)

この日は冷たい雨が降っていたこともあり、
館内は暖房中。

着物の私は全く寒くない。

寒くないどころか(笑)。

けれど私は日ごろから
電車の中でホットフラッシュに備えて
背筋を伸ばして座っているという鍛錬を積んでいるので(笑)
苦もなく座っていられた。

椅子の背に帯を押し付けることもなく。

その背中を 汗が つー、つー、つー(爆)。

送り盆

2006-08-16 | なんとなく仏教?
子どもの頃、イバラキの実家の辺りでは
おぼんは13、14、15日の三日間だった。

15日がお盆ということだが
それなら13日と14日はどうなるのだろう。

お迎えをしておいて
前夜祭みたいに前祝いをしておいて
15日は厳粛にお盆行事?

そんなわけないなあ(笑)。



当地ではきょう、16日が送り盆ということで
一日余分にある。

きょうは どこの家でも
白くて味のないお団子を作って(笑)
家族そろってお墓にご先祖を送りに行くのだろう。



お団子が好きな我が家の子どもたちは
今朝
娘の運転するワゴンRで亭主の実家に向かった。

ついさっき 無事に着いたと電話が入ったところ。

ほっとした。

母の心配は際限がない。



甲子園では 北関東は全滅してしまった(涙)。

ミック・ジャガー(64歳)は声がでなくなってしまい、
ローリングストーンズの欧州ツアーはスペインで一時(?)中止。

野菜は高値安定。

美味しいきゅうりとナスを買わずにすんでいる、
ありがたい我が家。



今夜は亭主と私も 亭主の実家に向けて出発する。

写真は 
事務所の前の夏花壇。

今年の私のテーマカラー、
クリーム色のアフリカン・マリーゴールド。

通夜振る舞い

2006-08-05 | なんとなく仏教?
お清めも2回あった。

お通夜と、葬儀と。

やはり記憶がごっちゃになっていて
どちらのことだったか あまり定かではない。

そんななか、
お通夜のことだった、とはっきり思い出せるのは
義母の友達との挨拶だった。


通夜振る舞いの席で
私は長男の嫁、と自分に言い聞かせながら
おいでくださった方々にお酌をしながら
挨拶をしてまわった。

いろんな人が来ていた。

私たちの結婚式以来の親戚も多かった。

そんな人の顔は まったく覚えていない、
まるっきり初対面のよう。

通夜・葬儀と二日も一緒にいたのだから、
今は覚えているだろう、と聞かれても
う~~ん、と首をひねってしまう(汗)。

けれど
義母の友達の顔は、もう忘れない。



私がビールやウーロン茶の瓶を持って行くと
「私たちはね。」
と向こうから話しかけてきてくれた。

「お義母さんとは 小学校からの仲間でね。」

「女学校も、ずっと、一緒だったのよ。」

ああ、知ってる。

よくお名前を伺っていた。

義父の口からも 名前は度々出てくる、
義母の友達。

幼馴染で、その後もずっと友達。

イバラキの田舎の城下町の中心地(笑)で生まれ、育ち、
そのまま実家の跡を取ったり 近場に嫁いだりして
昔の三人娘そのままに
オババになってからも にぎやかに一緒に遊んでいた。

そう、スミちゃんにハナちゃん。

義母が二階の窓から竹馬に乗り出したという子どもの頃からの、
文字通り、竹馬の友(笑)。

義父も この人たちは特別扱いで、
一緒に義母の見舞いに来てもらったりしている。



お転婆な義母の友達らしく、
このおばあさんたちも 
若々しく、元気で 生き生きしてて、
そしてにぎやかだ。

そのにぎやかさを眺めながら
不思議な気分になった。

ああ、
ここに義母がいれば、
同じように笑いさざめき合っていたはず。

というか、一番にぎやかだったはずなのに。

そこに義母がいないことの、不思議。



後日 ハナちゃんから昔の写真を借りてきた亭主は
その写真をコピーにとって義父に渡した。

(どこまでもアナログな亭主だ。

 スキャナーというものを手に入れるチャンスだったのに。。)

その写真を見ると
小学校や女学校の同級生、というだけではなく、
スミちゃんとハナちゃんは義母と一緒に
女学校を出た後、
編み物学校に行っている。

(義母はその後 一念発起、
 別の学校に入り、資格をとって 公務員となる。)



そして 昨日撮ったばかりの白黒写真のように
素晴らしい保存状態の その写真を見ると、

小さいと思っていた義母は
伸びやかに四肢を伸ばした
大柄な若い女性で、

小さいと思っていた目は
切れ長で大きく、
なかなかに華やかな面立ちの女性だった。



長男の嫁の活躍のほどはわからなかったが、
終始なごやかにお清めは終わり、
義弟一家は 実家に帰った。

斎場にも泊まれる、とのことだったので
義父と我が亭主と子どもたちは
そこに泊まることにした。



いつだったか、
長男の嫁は明日の着物の着付けがあるので、と
早々に実家に帰ってしまった、という話を読んで
「んまあ。」
と思った記憶があったが

なんと それとそっくりおんなじ事を
私がすることになろうとは。

あらかた来客が帰ったところで、
私は姉夫婦と一緒に 着物を持って
実家に帰った。

あってはならないことをしているような気分。

でも助かった。

寒くて風邪をひきそうなこの時期に
ドライヤーのない亭主の実家で
髪を洗わずに何日も過ごしていたので。

姉の家のお風呂を使わせてもらい、
バスタオルやドライヤーを貸してもらい、

庫裏の母の部屋で ふたりで眠る。

のんびりゆっくりの一晩を過ごした。

お通夜

2006-08-03 | なんとなく仏教?
斎場のバスに乗って お通夜に向かう。

隣近所の人たちにも バスの出る時間は伝えてあったが、
誰ひとり現れない。

どうやらみんな車で向かったらしい、と
予定時間に出発した。



隣近所が 葬儀を手伝うのが常識のムラだから、
手伝わなくていい、と言われたら 
バスにも乗らないんだなあ、と思った。

隣組に手伝ってもらわないというのは
本当に気楽だ。

ただ、自分たちの食べるものは
自分たちで用意しなくてはならない。

私の住む当地のやり方でも
家中、台所中にいろんな人が出入りして、
家具を動かしたりしてくれる。

わけのわからないことになる反面、
家族・親族は 食事の心配をしなくていい。

亭主の実家は ふたり兄弟だから9人前で済んだが
私の実家、義母の実家、義父の本家等々から人が来て
食事もとることにしていたら
とんでもないことになるところだった。



それに 私は
亭主の実家にしばらく泊まっていない。

それどころか、
年に一度 亭主が子どもたちを連れて帰省する時も
(この時も わが家族は 亭主の実家に泊まらない)、

私だけこちらで留守番をしていたりしていたので
さっぱり勝手がわからない。

「ねえ。

 どこかに お茶托がたくさんないかしら?」

「ええと、たしか、このあたりに・・・。」

夏休みと お正月とに 
必ず泊りがけで帰省している義妹の方が 
何でもよく知っている。

長男の嫁とは名ばかり、
私は本当に役に立たない(涙)。



この日は 私は 黒いズボン姿での出席。

寒い寒い 小雨の降る日で
通ったことがあるような、ないような 
なあんにも建物がない所をバスはゆく。

笑っちゃうくらい、
なあんにもないのだ。

そしたら 突然 ゴージャスな建物が現れて、
びっくりした!

斎場は 焼却場と隣り合わせに建っている。

こんな雨の降る寒い日には
だれも雨に濡れずに、寒い思いをせずにすむ
斎場での葬儀は やはり とてもありがたい。



この時に驚いたのは、
いつも私が不満に思っている亭主の仕事、

あの、やたら忙しいだけで
あまり儲からない仕事の、

関係者の方々が
ひとり残らず、お通夜に来てくださったことだった。

これには 本当に びっくりした。

明日は亭主も出席するはずだった仕事があり、
お通夜にしか来れない、ということで
来てくださったのだが

なにせイバラキの、
しかも まわりになあ~~んにもない田舎のこと、

おいでくださるだけで大変だったろうと思うと

日ごろ不満にばかり思っていたものだからなおさらの事、

ありがたく思えて感激してしまった。



亭主は 小学生の頃、
クラスの委員長をしていたらしい。

生徒会の方は 副会長だったと言う。

けれど会長が次男坊だったため、
同窓会の委員は
長男の亭主が引き受けたのだそうだ。

誰も ウチの亭主が 実家を出て
よそで所帯を持って生活する、とは
思わなかったのに違いない。

けれど実際は
亭主は高校を出てから
東京を経由して当地に来ているから
イバラキの実家に戻ったことはない。

だから、亭主の学年は(一学年一クラス)
クラス会をしたことがないのだそうだ。



けれど 今回
亭主の実家の葬儀に際しては
誰が中心になってくれたのか、

やはり地元に残った人たちだろうと思うが
あちらこちらに連絡をまわしてくれたらしく、
亭主も 義弟も 
懐かしい面々の顔を見ることができたようだった。

そして誰もが
義母の死に驚き、
たぶん社交辞令ではなく、心から悼んでくれたようだった。



ところで、
「死化粧・死装束」で書いたように、
義母の顔はやたら白くて 
満足のいく肌にはお化粧できていなかったのだが

お通夜の時に見ると
見違えたようにキレイな肌色になっていた。

きっとプロが プロとしてのプライドが許さない、とばかり
恥ずかしくないように仕上げをしてくれたのだと思う。

これに対しては
言葉に出して感謝したかったのだが
とうとう言わずに終わってしまった。



それどころか、
きれいになった義母を見た人たち(女性が多かった)から
「家族でお化粧したんだって?」
と聞かれたときには 肯定しておいた。

本当に義母は
生きていたときよりも美人になって
とっても、とっても、きれいだった。

もともとしわの少ない人だった。

明るい肌の色、ほんのりほほ紅、
唇に紅を差して
眉は すこーし、現代風(笑)。

自慢したいくらい、義母はきれいだった。

享年76歳。

死化粧・死装束

2006-07-28 | なんとなく仏教?
時間軸を元に戻そう。

もう忘れてしまいそうだ。

斎場が混んでいて使えなかったので
義母の葬儀は3月にずれた。

お通夜まで日にちがあいたので
仮通夜をすることになった。

亭主はやりかけの仕事をしにいったんこちらへ帰り、
私の喪服用の長襦袢を持って
仮通夜に間に合うように実家に戻った。

楽しくない記事を読みたくない方は、
ここまでで止めといて。



私が 亭主の実家に着くとすぐに
亭主は「お前に頼みたいことがある。」
と繰り返していた。

もったいぶって。

それがやっと 何の用かわかった。

「やってもらいたいことがある。

 ○○ちゃん(義弟の妻)と お前と 
 △△(娘)と  ◇◇(義弟の長女)とで

 おばあちゃんに化粧をしてもらいたいんだ。」



かまわないよ、と答えた。

昔 小学生の頃
生まれた寺で葬儀を出した時に
割り箸にまいた脱脂綿でお清めをした記憶がある。

湯灌というやつだろう。

(父の葬儀の時には 湯灌はちゃんとやったろうか?)

おばあちゃんの身体だもの、
それに 娘たちにも 別れの儀式として
やってもらってもいいだろう。

そういう年齢に ふたりとも達している。

それに やりたくないような場所は
業者が全部やってくれるはずだ。

お化粧くらい、なんとかなるわよ。

そう思った。

亭主には亭主なりの 思い入れのようなものが
あったようだ。



その、死化粧をしたのが、
仮通夜の前だったか 後だったか、
定かでない。

記事にするには時間も経ち過ぎているが、
あの頃の記憶は 断片的で
順序がわからなくなっている。



仮通夜に来てくださったのは
山道を下って行った先の 程近い集落にある、
由緒ある寺院の住職だった。

なんと、私の大学の先輩らしい。

実家と同じ宗派だ。

他に用事もあった私は、
(何の用事かは忘れたが)
お茶出しを義妹に頼んで、顔を出さなかった。

年齢はいくつか上で、
大学で私と顔を合わせたことはないと思うが。



死化粧や納棺は
仮通夜の後だったのではないか、と
私は思っているが
 
亭主は 前じゃなかったか、と言っている。

常識的にはどちらなんだろう?

時間の感覚がなくなっているのと同時に、
連日 お天気が悪く、
薄暗い印象が続いていたせいでもある。

とにかく、
業者が来て、
納棺の前の義母の顔のお化粧は 
私たち嫁ふたりと 孫娘ふたりの四人でやった。

他の家族と 幾人かの親族は 
大きな衝立をはさんだ向こうの座卓に座っていた。

業者の人は 男女ひとりずつで、
慣れない私たちに
やさしくてきぱきと指図してくれた。

向こうは、慣れていない親族に 
慣れきっているはずだ。



手当たり次第に集めてきた義母の化粧品から
新しいようなものを選び、
持ってきてあった。

おばあちゃんの肌を 私が担当することにした。

けれど 最初から 行き詰ってしまった。

義母のつめたい肌に
ムラのないように ファンデーションをのばすのは
不可能な気がした。

そこまでは 私も根性が座っていない。

ファンデーションを省略し、
おしろいだけをつけた。

普段、色黒だと思っていた義母の肌は
いつになく白く透き通っていて
死んだ人みたいで嫌だったが
重ねておしろいをつけても 
生気を含んだ色にはならなかった。



頬紅を 孫娘 二人に差してもらった後で

口紅を義妹につけてもらった。

これは 私より余程 慣れているはずだから。

眉は 娘に描いてもらった。

娘は 義妹よりもずっと 慣れているはずだから。

頬紅も 口紅も 眉墨も。

いつもの見慣れた義母のもの、
見慣れた色のものだった。

けれど 突然色白になった義母には
いつもより鮮やかな色を差したようになった。



その後
業者の指示に従って
義母の着替えをした。

こちらは、家族全員で。

死装束へ。

笑っちゃいけないけど、
手甲・脚半の旅支度、
三途の川の渡し舟の運賃、六文餞に
ワラジに、杖まで用意する。

足袋は左右反対にする。

途中、何度か、
「見苦しいところもございますので、
 あちらでしばらくお待ちください。」
と言われ、
衝立のこちらに追いやられる。

また呼ばれては 次々と
旅支度を整えていった。

手甲・脚半を身に付けさせる時には
こちらの手に触れる義母の肌の
あまりの冷たさに ドキリとしてしまう。

義妹と一緒に選んだ
上品なグレーの地に 
パステルカラーの華やかな色刺繍を施した付け下げを
装束の上に掛けてもらった。

これに合う帯も 「これだ!」と思うものを載せた。

納棺した時には 見えなくなってしまったが。



義母の実家の自動車屋からは
跡を継いだ甥っ子(つまり、亭主の従兄弟)夫婦が
来てくれていた。

この自動車屋では
先日 お婆さん、つまり義母の義姉が
突然 お風呂場で亡くなり、葬儀を出したばかり。

この夫婦の紹介の、業者だった。

自動車屋の葬儀の時も
同じように指示されたらしいが、

「俺ァ、まるっきり 根性なしでよ。

 ひとっつも出来ねえで、
 全部、業者にやってもらったど。

 オメエら、偉いよ。」

突然 動かなくなってしまった身内の身体に触れることは
怖くてできなかった、と
後で話してくれた。

そこのお婆さんの時は 今回とは逆に
急ぐように葬式を出した。

動転して それどころではなかったことと思う。

「あんたら(息子二人と 嫁二人、孫四人)
 みんなに 支度してもらって、
 おばあちゃんは、幸せだ。」

義父はそう言って めろめろに泣いた。

枕直し

2006-05-13 | なんとなく仏教?
「わ」ナンバーのナビ付きコンパクトカーで到着した娘と私が
満開の福寿草を見ながら 家の中に入っていくと

義母は 南西の角の奥座敷に
枕を北にして
布団の上に寝ていた。

香炉には香がたかれ、
ろうそくが灯り、
一輪挿しに花が一本。

こういうことをするのを
「枕直し」というのだそうだ。



臨終行儀というのは しちめんどくさい。

お釈迦さまが亡くなった時の様子に似せるから
こんな事になる。

お釈迦さまが涅槃に入られた時、
頭北面西(ずほくめんさい)といって、
頭を北にして、顔を西に向けてたんだって。

(でも 神道でも頭は北にすると
 『新・お葬式の作法』に書かれている。)



そうそう、
この時「逆さ屏風」と言って 
屏風を逆さまにする。

さすが、義父母の家には
ちゃあんと屏風があって、逆さまにされていた。

昔々、私の実家で葬儀があった時
屏風がボロい破れ屏風だったのを思い出した。

もちろん儀父母の家の屏風は
キレイだったが。

屏風がないお家ではどうするのかな?

とにかく 
こういうことを葬儀屋さんが
きちんと仕切ってやってくれたようだ。

もちろん 葬儀屋さんがしなければ
義父がきちんとやっていたはず。



枕飯(まくらめし)がどうなっていたかは、
もう覚えていない。

枕飯というのは 
炊き立ての白いご飯という大ご馳走を
山盛りにして箸を立てる。

これは、
できたら生き返って食べてほしいという
願いの表れなんだって。

隣の座敷では
身内の者が集まって
業者と葬儀の段取り、打ち合わせ。

広い部屋も大きな座卓も すごく狭く小さく感じた。

義父、亭主、義弟。

近くに住む、義父の兄(つまり、伯父)の家の嫁と、
やはり近くに住む 義母の実家の嫁。

亭主にとっては 一番年長のいとこの嫁サン。

それに、同じイバラキ県内に住む私の実家の姉夫婦。



亭主は私の顔を見るなり、
葬式は斎場でやるから、と告げた。

期日は何日、とも言った。

数日先になる。

斎場の都合で先延ばしになるのだそうだ。

やはりそうか。

この家は ものが溢れてて 狭いものな。

恥ずかしいことだとは思うけれど、
それほど狭くもない屋敷に 物が溢れ、
少々手狭になっている。

親戚の顔を思い出し、隣組の人数を数えると
どえらい騒ぎをして片付けなければ
葬儀を執り行える広さではない。



隣組はともかく、
義父も義母も兄弟姉妹の数が多いし、
プライベートな領域がなくなってしまうのは
義父も亭主も義弟も
もちろん嫁である義妹や私も嫌だし困る。

斎場を使ってもらえるのはありがたい事で、
私は正直、ほっとした。

四苦と医療

2006-02-25 | なんとなく仏教?
四苦八苦という言葉がある。
 
仏教語だ。



四苦は ご存知の方も多いだろう。

生老病死。ほら、変換できるし。



生まれること。老いること。病むこと。死ぬこと。

この四つが 人の苦しみの代表。

とは言え、これらは誰にでもやってくるもの。

強いて言うなら 病気は人によってはほとんど縁がなく、
また人によっては 縁が深いが。



この4つの苦しみすべてと 医療とは 関係が深い。

仏教の教理と 医療とを 何らかの形で結びつけて
理想の医療はできないものか。

キリスト教系の医療施設はある。

仏教系のそれは 極端に少ない。
(あることは、あるが。)

「生き方上手」な高齢で元気なおじいさん医師を見るたびに
あんな医師が 仏教の教えをもとに 人の心の棘も
ケアしてくれたらいいのになあ。と思う。

医療と仏教は 矛盾しないと思う。



いつも ぼんやり思っていることを書いてみた。

写真は 土手のホトケノザ(仏の座)。

お盆

2005-08-15 | なんとなく仏教?
お盆=盂蘭盆、

盂蘭盆とは、
サンスクリット(古代インドの言葉)で
ウッランバーナ(ullambana)を 
中国で音を写した言葉だ、
みたいなことは習った。

かすかに記憶がある。
(今、辞典で調べたし。)



最近では、
別の説もあるらしい。

イラン語の ウルヴァン(urvan)が語源だ、
というのだ。

イランの ゾロアスター教を信じる民族に
ソグド族というのがあって、
死者の霊をウルヴァンと呼んで大切にしてきたとか。

私としては、
イランの方の言葉、というほうが
ぐろーばるな気分に浸れて、
ゾロアスター教やイスラム教の人とも
仲良くなれそうな気がして、
ロマンがあって いいかなあ。



せっかくの月遅れのお盆だから、
お盆の話を。

仏説盂蘭盆経というお経がある。

でも、これは、偽経。

つまり、お釈迦さまが お話した内容ではない。

だけど、大事なのは、
みんながそれを 仏さまの教えだ、と思って
信じてきた、ということ。



どんな国の どんな宗教も
地形や気候や歴史に左右されつつ、
民衆に浸透していったからこそ、
宗教として残っているわけで。

ここからここまでが だれそれの教えで、
そこから先は 土俗信仰だ、なんていう線引きは
誰にもできない。

これは、キリスト教でも 同じことが言える。

だから、
中国の儒教の教えを身にまとった仏教を
日本式に取り入れた仏教が 
古代インドの仏教徒違ったからって、
なにも卑屈になることはない。

日本人にとっては、
日本の土俗信仰や 農耕儀礼とくっついた
日本の仏教が、ホンモノ。

だと、思う。



そのお経には

超能力者の目連(もくれん)という
お釈迦さまの弟子の話が出てくる。

目連さんは その超能力で
お母さんが餓鬼の世界に落ちているのを見て、
なんとか救いたいと思った。

お釈迦さまに相談すると、
「7月15日が 安居(あんご、お篭り勉強会)の最後の日で、
 懺悔(さんげ、=ざんげ)のために
 お坊さんが みんな集まってくるから、
 その大勢のお坊さんに 供養しなさい。」

目連さんが 言葉のとおりにすると 
お母さんも 餓鬼の苦しみから救われた。

この場合の、「供養」というのは、
具体的には、飲み物と食べ物。

だからって、飲み放題、食べ放題して、
酔っ払うお坊さんは、やっぱり、嫌い。

おとっつあんが のんべえだったから、
のんべえが 大嫌いになった?

いやいや、おっかさんも のんべえだったのだ!

「アタシは、オトナになっても、
 絶対、お酒を飲むヒトにはならないぞ!」

そう固く心に誓った幼い日(笑)。

でも こう暑いと、
湯上りのビールを 誰が責められようか?(笑)