「ハードボイルド」と言う言葉を聞いて思い出すのは、
今でも 内藤陳の「オラ、ハードボイルドだと!」(爆)。
それくらい、
私は本来 ハードボイルドという分野には縁がない。
一方で、私も 北方謙三という作家(→こんな人)が
ハードボイルド作家と呼ばれていることぐらいは知っていた。
だから 彼が『三国志』(集英社文庫、2001.6.18~2002.6.18、571円)
を書かなけりゃ
彼の著作には手も出さなかったろう。
北方謙三という作家は‘漢(おとこ)’を書くことに優れた作家なのだそうだ。

文庫版『三国志』とクラさんのブロッコリー。
ブロッコリーの芯は、もちろん、ぬか漬けに(笑)。
『三国志』を文庫で楽しんだ後、
待ちに待っていた『水滸伝』の文庫版の配本が
ようやく始まった。
(現在、4巻まで。 集英社文庫、2006.10.25~、630円)
ちなみに、第9回 司馬遼太郎賞受賞。
文庫化に際し、著者はかなりの手入れを行ったと言われている。
ファンはこれらに
『<北方>三国志』 とか
『<北方>『水滸伝』 とか
<北方>という冠を付けて呼んでいる。
それまでの『三国志』や『水滸伝』とは
一線を画している、と言いたいのだろう。
それは私にも理解できた。
いや、実は『三国志』も 『水滸伝』も
横山光輝のマンガでしか読んでいないので
それまでに出版されたいくつもの小説と
どう違うのかまでは 私にはわからない。
わからないけれど、
それまで持っていたイメージとは随分違うのだ。
わたしは
かつて 『<北方>三国志』を読んだ時、
次々に出てくる登場人物に
次々に感情移入してしまい、
それがまた 敵や味方だったりするものだから
エライ、フクザツな気持ちになって困惑したものだった。
それは 人物の書き方も 物語の流れも自然なので
人々が 実際に そこに生きて 呼吸をしていて
体温があるかのように感じられるから。
そして 感情移入して読んでいれば
つい応援してしまうものだと思うのだが
次の章に入ると
また別の国の別の武将や参謀の感情の揺れに
自分も揺さぶられる、という感じ。
すると さっきまで敵の人物になりきっていた自分と
心の中で葛藤が生まれてしまって
非常に困ったものだ。
その中でも 一番 印象に強く残っているのは
呂布の最期。
不覚にも 涙ぐんでしまった。
息子に 『北方三国志』を薦めながら
「私、これ読んでると 次々に主人公が変わって、
そのたびに その主人公が好きになるのよね~。
一番好きなのは、呂布!」
と話していると、
亭主は 「敵じゃないか!」と笑ったのだが
敵だろうと何だろうと 魅力的な‘漢’は魅力的なの!
そして 呂布の最期は 哀れを誘う。
こんな読者は珍しいのか?と思っていたら、
『青春と読書』(集英社)2006年11月号の特集の中の
北方謙三との対談で
ロックンローラー・吉川晃司が
「『北方三国志』では 呂布が一番好きなんです 云々。」(p10)
と発言していたので
ああ、私だけじゃない、と安心?した(笑)。

さて、『水滸伝』という物語は、
なんでも 900年も前の中国の
民間説話の寄せ集めみたいなもので、
70回本、100回本、120回本、などがあるそうだ。
それぞれに 矛盾するところ、不自然なところがある。
著者はこれを解体し、再構築し、一から書き直したので
その労力は膨大なものだろう、
時間と、筆力と、勇気が必要だ、ということだ。
(北上次郎 『水滸伝』1巻解説 p385)
そして そのためには
中国版にはない人物・組織を取り込み、
キャラクターを変え、背景を作り直し、
新しい挿話、新たな人物を創作し、
独創的な物語を作り上げる必要がある。
らしい。
(同 p386)
そもそも『水滸伝』というのは、
‘替天行道(たいてんぎょうどう)’の旗を掲げて
梁山泊に集った豪傑たちが
「腐敗した時の政府に対して反乱を起こし、
壮大な戦いを挑む物語」(吉田伸子 『青春と読書』同p18)
なのだが
結末は哀れ。
志をもって集まった英雄・豪傑たちが
次々と闘っては死んでいく(はずだ)。
だからこそ ‘漢’の物語なのであり、
重要なのは‘死にざま’なのであり、
要するに つまり 人は‘生き方’なのであり、
「ひとの生き方の物語、
人生の物語として 読んで欲しい。」
(北方謙三 『青春と読書』 同p13)
物語なのだ。
第2巻の帯に
「人間の想像力が及ぶかぎりの、
壮大な物語を書きたい。
私という創造者の矜持をかけて。」
という著者の言葉があるが
壮大と言えば壮大、
だって 梁山湖に浮かぶ天然の要塞、名づけて‘梁山泊’は
その横幅が 湖の幅より広かったりするのだ!(爆)
(『青春と読書』2006年12月号、p104所収 「世界でひとつだけの地図」)
文庫版の第3巻のはじめに地図が載っているが
そういった原文の随所に見られる矛盾点を
一枚の地図に収めてしまうがごとく、
大胆 且つリアルに再現された
もうひとつの 別の物語と思った方がいいのかもしれない。
その再構成力が <北方>という冠に表れているのだろう。
その再構成力のおかげで
状況や舞台設定、登場人物などを
容易に想像できるのはいいのだが
各巻頭の こういった人物像は

・・・・・・ちょっと困る。
東洋人なのだから、
なにも ジュリアーノ・ジェンマに似てなくてもいいのだが。。
先に述べた対談の中で 北方氏は
「小説の中での死に対して、
俺はある種の憧憬を持っている。
だから 死に方というのが 大事なんだよ。」
と語っている。
その‘死に方’が これから次々にでてくるはずで、
ある書店員さんなどは
「そのたびに涙を流していたので、
電車の中や休憩時間に読むことができなかった」
(『青春と読書』2006年11月号 同p16)
そうなので、
いつも 電車に乗る日は読書の日、と楽しみにしている私は、
どうしようかな~と迷っている。
今でも 内藤陳の「オラ、ハードボイルドだと!」(爆)。
それくらい、
私は本来 ハードボイルドという分野には縁がない。
一方で、私も 北方謙三という作家(→こんな人)が
ハードボイルド作家と呼ばれていることぐらいは知っていた。
だから 彼が『三国志』(集英社文庫、2001.6.18~2002.6.18、571円)
を書かなけりゃ
彼の著作には手も出さなかったろう。
北方謙三という作家は‘漢(おとこ)’を書くことに優れた作家なのだそうだ。

文庫版『三国志』とクラさんのブロッコリー。
ブロッコリーの芯は、もちろん、ぬか漬けに(笑)。
『三国志』を文庫で楽しんだ後、
待ちに待っていた『水滸伝』の文庫版の配本が
ようやく始まった。
(現在、4巻まで。 集英社文庫、2006.10.25~、630円)
ちなみに、第9回 司馬遼太郎賞受賞。
文庫化に際し、著者はかなりの手入れを行ったと言われている。
ファンはこれらに
『<北方>三国志』 とか
『<北方>『水滸伝』 とか
<北方>という冠を付けて呼んでいる。
それまでの『三国志』や『水滸伝』とは
一線を画している、と言いたいのだろう。
それは私にも理解できた。
いや、実は『三国志』も 『水滸伝』も
横山光輝のマンガでしか読んでいないので
それまでに出版されたいくつもの小説と
どう違うのかまでは 私にはわからない。
わからないけれど、
それまで持っていたイメージとは随分違うのだ。
わたしは
かつて 『<北方>三国志』を読んだ時、
次々に出てくる登場人物に
次々に感情移入してしまい、
それがまた 敵や味方だったりするものだから
エライ、フクザツな気持ちになって困惑したものだった。
それは 人物の書き方も 物語の流れも自然なので
人々が 実際に そこに生きて 呼吸をしていて
体温があるかのように感じられるから。
そして 感情移入して読んでいれば
つい応援してしまうものだと思うのだが
次の章に入ると
また別の国の別の武将や参謀の感情の揺れに
自分も揺さぶられる、という感じ。
すると さっきまで敵の人物になりきっていた自分と
心の中で葛藤が生まれてしまって
非常に困ったものだ。
その中でも 一番 印象に強く残っているのは
呂布の最期。
不覚にも 涙ぐんでしまった。
息子に 『北方三国志』を薦めながら
「私、これ読んでると 次々に主人公が変わって、
そのたびに その主人公が好きになるのよね~。
一番好きなのは、呂布!」
と話していると、
亭主は 「敵じゃないか!」と笑ったのだが
敵だろうと何だろうと 魅力的な‘漢’は魅力的なの!
そして 呂布の最期は 哀れを誘う。
こんな読者は珍しいのか?と思っていたら、
『青春と読書』(集英社)2006年11月号の特集の中の
北方謙三との対談で
ロックンローラー・吉川晃司が
「『北方三国志』では 呂布が一番好きなんです 云々。」(p10)
と発言していたので
ああ、私だけじゃない、と安心?した(笑)。

さて、『水滸伝』という物語は、
なんでも 900年も前の中国の
民間説話の寄せ集めみたいなもので、
70回本、100回本、120回本、などがあるそうだ。
それぞれに 矛盾するところ、不自然なところがある。
著者はこれを解体し、再構築し、一から書き直したので
その労力は膨大なものだろう、
時間と、筆力と、勇気が必要だ、ということだ。
(北上次郎 『水滸伝』1巻解説 p385)
そして そのためには
中国版にはない人物・組織を取り込み、
キャラクターを変え、背景を作り直し、
新しい挿話、新たな人物を創作し、
独創的な物語を作り上げる必要がある。
らしい。
(同 p386)
そもそも『水滸伝』というのは、
‘替天行道(たいてんぎょうどう)’の旗を掲げて
梁山泊に集った豪傑たちが
「腐敗した時の政府に対して反乱を起こし、
壮大な戦いを挑む物語」(吉田伸子 『青春と読書』同p18)
なのだが
結末は哀れ。
志をもって集まった英雄・豪傑たちが
次々と闘っては死んでいく(はずだ)。
だからこそ ‘漢’の物語なのであり、
重要なのは‘死にざま’なのであり、
要するに つまり 人は‘生き方’なのであり、
「ひとの生き方の物語、
人生の物語として 読んで欲しい。」
(北方謙三 『青春と読書』 同p13)
物語なのだ。
第2巻の帯に
「人間の想像力が及ぶかぎりの、
壮大な物語を書きたい。
私という創造者の矜持をかけて。」
という著者の言葉があるが
壮大と言えば壮大、
だって 梁山湖に浮かぶ天然の要塞、名づけて‘梁山泊’は
その横幅が 湖の幅より広かったりするのだ!(爆)
(『青春と読書』2006年12月号、p104所収 「世界でひとつだけの地図」)
文庫版の第3巻のはじめに地図が載っているが
そういった原文の随所に見られる矛盾点を
一枚の地図に収めてしまうがごとく、
大胆 且つリアルに再現された
もうひとつの 別の物語と思った方がいいのかもしれない。
その再構成力が <北方>という冠に表れているのだろう。
その再構成力のおかげで
状況や舞台設定、登場人物などを
容易に想像できるのはいいのだが
各巻頭の こういった人物像は

・・・・・・ちょっと困る。
東洋人なのだから、
なにも ジュリアーノ・ジェンマに似てなくてもいいのだが。。
先に述べた対談の中で 北方氏は
「小説の中での死に対して、
俺はある種の憧憬を持っている。
だから 死に方というのが 大事なんだよ。」
と語っている。
その‘死に方’が これから次々にでてくるはずで、
ある書店員さんなどは
「そのたびに涙を流していたので、
電車の中や休憩時間に読むことができなかった」
(『青春と読書』2006年11月号 同p16)
そうなので、
いつも 電車に乗る日は読書の日、と楽しみにしている私は、
どうしようかな~と迷っている。