私は 長いこと、子ども達の送り迎えを 車でしてきた。
黄色い軽自動車をママ専用に買ったのは
娘が幼稚園に入園した時の 送迎用だった。
その前に 娘が3歳の時から 音楽教室へ通うのに 送り迎えをした。
いや その前に 娘が スイミング・スクールに通う時にも 送り迎えをした。
あれは まだ娘のお誕生前、ベビー・スイミングのクラスが
比較的近くにあったので
頑張って 1500ccの亭主の初代のクルマで通ったのだった。
不思議と 亭主は 子どものことなら OKを出してくれて
経済的には辛かったけれど
文句を言わずに 通わせてくれた。

名前を忘れた小さな葉っぱの植物。玄関脇に地植えにしたら花が咲いてびっくり。
間もなく妊娠して
小さい子のクラスと マタニティー・スイミングを 同時に開いてくれたので
一緒にプールに入った。
出産前に 娘は 保育園に バスで通うようになったけれど
私は 身体も温まるし 腰痛にもいいので
せっせとマタニティーのクラスに通って
クロールができるようになったんだっけ。
息子が生まれてからは 息子のベビー・スイミングで 一緒にプールに入った。
音楽教室には 必ず息子を連れて行った。
亭主は その頃は 毎日家に居たけれど
決して 送り迎えはしてくれなかったし
なにしろ 私は
子どもの送り迎えがなければ 家から出してもらえなかったから
どちらか(たいていは息子)が 熱を出したり お腹をこわしたりして
お教室をお休みすることが続くと
家の中に 食べるものがなくたった。
亭主は お教室でも 買い物でも
決して 子どもを見ていてやるから 行って来い、とは言わなかった。

去年 ギンナンを蒔いた。
最初の葉っぱが スカートをはいたのがメスで ズボンがオス、と聞いたが
葉っぱは全て裂けていて オスばかり、という結果に。
形から メスと思えたギンナンも 葉っぱは裂けていた。
娘の塾通いが始まったのは 諸般の事情から(涙)比較的早かった。
算数と国語。
中学になると 数学と 国語と 英語。
部活の時には 練習試合の会場まで
地図を頼りに 送って行ったりもした。
中学3年になると模擬試験会場まで乗せて行くようになった。
部活の試合も 模擬試験も 休日ばかりだったから 大変だった。
高校受験の頃には 娘自身が高望みをしていたせいもあって
毎晩 遅くまで 塾に居た。
娘は 家では 勉強できない体質だったので。
(これは 現在も続いている体質(?)のよう。)
これには 亭主も協力してくれたが 亭主はいつも居るとは限らなかった。
なにしろ11時近くまで塾に居るので
迎えに行く時間になると 私は眠くて死にそうだった。
毎日 毎日 寝不足で
毎日 毎日 お昼寝をして
夜のお迎えのパワーを残しておくのだった。

お願い、アゲハさん、このレモンと パセリにだけは 卵を産み付けないで。
娘の高校入学と同時に 息子が中学に。
今度は
同じくらい遠くの学校へ通うふたりを 朝 送っていくために
早起きするようになった。
遅くまで寝ている亭主が 朝の送りをやってくれていたのは
私が退院してからの わずかの期間だった。
娘が高校を卒業してラクになると
息子の高校卒業まで、もう少し、もう少し、
と思いながら 頑張ってきた。
息子が免許を取得して
そんなこんなの アッシー・ママとしての存在が 終わりを告げる。

お願い、アゲハさん、あっちにある柚子の木は もう大きいから、
あっちなら 卵も幼虫も そのままにしておいてあげられるから。
娘は ときどき帰ってくる。
何の用があるのか?という時もある。
昔の友達と飲み明かす、とか しゃべりまくる、とか
それなりに大事な用件があるんだろうと想像している。
そんな時に 免許を取ったばかりの息子と出かけて来たりして
私が勤めようと思っていた「慣らし運転」を
娘がさっさと引き受けてしまった。
ある日 駅に向かう娘を 息子が送っていった。
「帰りは、初めての ひとりでの運転だな。。」
と独り言を呟いてた息子。
帰って来たときは 往復に要したのと同じくらいの時間を 車庫入れに使い、
なんとか こすらずに バックで入れていた(汗)。
さすが、切り替えしを4回やって 卒検を一度 落ちただけの事はある。
オーケー、オーケー。
卒業検定と違って、何回やっても 大丈夫だからね!(笑)。
黄色い軽自動車をママ専用に買ったのは
娘が幼稚園に入園した時の 送迎用だった。
その前に 娘が3歳の時から 音楽教室へ通うのに 送り迎えをした。
いや その前に 娘が スイミング・スクールに通う時にも 送り迎えをした。
あれは まだ娘のお誕生前、ベビー・スイミングのクラスが
比較的近くにあったので
頑張って 1500ccの亭主の初代のクルマで通ったのだった。
不思議と 亭主は 子どものことなら OKを出してくれて
経済的には辛かったけれど
文句を言わずに 通わせてくれた。

名前を忘れた小さな葉っぱの植物。玄関脇に地植えにしたら花が咲いてびっくり。
間もなく妊娠して
小さい子のクラスと マタニティー・スイミングを 同時に開いてくれたので
一緒にプールに入った。
出産前に 娘は 保育園に バスで通うようになったけれど
私は 身体も温まるし 腰痛にもいいので
せっせとマタニティーのクラスに通って
クロールができるようになったんだっけ。
息子が生まれてからは 息子のベビー・スイミングで 一緒にプールに入った。
音楽教室には 必ず息子を連れて行った。
亭主は その頃は 毎日家に居たけれど
決して 送り迎えはしてくれなかったし
なにしろ 私は
子どもの送り迎えがなければ 家から出してもらえなかったから
どちらか(たいていは息子)が 熱を出したり お腹をこわしたりして
お教室をお休みすることが続くと
家の中に 食べるものがなくたった。
亭主は お教室でも 買い物でも
決して 子どもを見ていてやるから 行って来い、とは言わなかった。

去年 ギンナンを蒔いた。
最初の葉っぱが スカートをはいたのがメスで ズボンがオス、と聞いたが
葉っぱは全て裂けていて オスばかり、という結果に。
形から メスと思えたギンナンも 葉っぱは裂けていた。
娘の塾通いが始まったのは 諸般の事情から(涙)比較的早かった。
算数と国語。
中学になると 数学と 国語と 英語。
部活の時には 練習試合の会場まで
地図を頼りに 送って行ったりもした。
中学3年になると模擬試験会場まで乗せて行くようになった。
部活の試合も 模擬試験も 休日ばかりだったから 大変だった。
高校受験の頃には 娘自身が高望みをしていたせいもあって
毎晩 遅くまで 塾に居た。
娘は 家では 勉強できない体質だったので。
(これは 現在も続いている体質(?)のよう。)
これには 亭主も協力してくれたが 亭主はいつも居るとは限らなかった。
なにしろ11時近くまで塾に居るので
迎えに行く時間になると 私は眠くて死にそうだった。
毎日 毎日 寝不足で
毎日 毎日 お昼寝をして
夜のお迎えのパワーを残しておくのだった。

お願い、アゲハさん、このレモンと パセリにだけは 卵を産み付けないで。
娘の高校入学と同時に 息子が中学に。
今度は
同じくらい遠くの学校へ通うふたりを 朝 送っていくために
早起きするようになった。
遅くまで寝ている亭主が 朝の送りをやってくれていたのは
私が退院してからの わずかの期間だった。
娘が高校を卒業してラクになると
息子の高校卒業まで、もう少し、もう少し、
と思いながら 頑張ってきた。
息子が免許を取得して
そんなこんなの アッシー・ママとしての存在が 終わりを告げる。

お願い、アゲハさん、あっちにある柚子の木は もう大きいから、
あっちなら 卵も幼虫も そのままにしておいてあげられるから。
娘は ときどき帰ってくる。
何の用があるのか?という時もある。
昔の友達と飲み明かす、とか しゃべりまくる、とか
それなりに大事な用件があるんだろうと想像している。
そんな時に 免許を取ったばかりの息子と出かけて来たりして
私が勤めようと思っていた「慣らし運転」を
娘がさっさと引き受けてしまった。
ある日 駅に向かう娘を 息子が送っていった。
「帰りは、初めての ひとりでの運転だな。。」
と独り言を呟いてた息子。
帰って来たときは 往復に要したのと同じくらいの時間を 車庫入れに使い、
なんとか こすらずに バックで入れていた(汗)。
さすが、切り替えしを4回やって 卒検を一度 落ちただけの事はある。
オーケー、オーケー。
卒業検定と違って、何回やっても 大丈夫だからね!(笑)。