会津に「みしらず柿」というのがある。
子どもの頃には 毎年 親戚の どこかから送られて来て
寒くなってくる頃には 毎日 柿を食べていた。
今年は 珍しく その‘身不知(みしらず)柿’が届いた。
そして 長く忘れていた風景を思い出させてくれた。

幼い頃、
柿の皮むきは 父がしてくれることは ほとんどなく、
母がひとりで担当していた。
4つ年上の姉が むいてくれることもあったが、
これも 父と同じくらい、まれなことだった。
私は、(どうやら)柿が好きだ。
食べたい。
食べるには、皮をむいてほしい。
梨はともかく(?)、柿は 皮をむかないと、(私は)食べられない。
母がいないと、誰も、むいてくれない。
そこから、私の包丁使いは始まった。
そう、私は 柿で 皮のむき方を覚えたのだった(笑)。
始めの頃は 危ないから、と母は止めようとしていた。
けれど その頃 食べるために田んぼや畑に出ていた母には
座っている時間は少なかった。
母に「むいてやれ」と言われて
姉は ますます むいてくれなくなった(苦笑)。
いいもん、自分でむくもん、と言う気分でむきはじめたら、
案外、むけるものだ(笑)。
父には 時おり
「なんだ、身がちっちぇえ(小さい)ねえ。」
とか、
「皮と身と どっちが多いか、わがんね。」
とか言われていたが
時おりまだ渋いのも混じっている見知らず柿は
厚めに皮をむいて ちょうどいいことも多かった。
そう、見知らず柿は 渋柿を焼酎で渋抜きして作る。
だから、待ちきれない思いで木箱を開けると
焼酎の匂いがしたし、
かじり付いたら まだまだ渋かった!ということも多かった。
もう 何年も 渋柿をかじっていない。
というか、子供たちは かじったことがあるだろうか。
あの‘しぶ’というものは どうしてあんなに 渋いんだろう?(笑)
口も 顔も ひん曲がる!
柿の木箱は
いい加減な板を いい加減に合わせて作ったものが多かったように思う。
りんごを輸送するのに 木箱を使ったのは
そんじょそこらに材料があったから、と
最近 何かで読んだが
りんごの木箱は 割としっかり作られていて 頑丈だった。
だから 姉も 私も
小学校に入学して お古の机(正座して使う文机)をもらうまでは
リンゴの木箱を使って お絵かきやぬり絵を楽しんだ。
柿の木箱は しばらくは取って置くものの、
ガタガタな作りなので
いつも そのうちバラバラにして 燃やしてしまうのだった。
私はたいてい 柿の実の実る季節には 風邪をひいて熱を出し、
暖かな日に 父が 暇を見つけて 我が家の柿をもいでくれる時に
外にでるのを母に止められたものだった。
けれど 父が 家族の輪の中心に居て
わいわい言いながら 柿をもいでくれるのは
滅多にない 楽しい団欒のひと時だった。
竿の先に 二股に分かれた金具や木の枝をくくりつけて
実った柿の枝に刺して、
竿をぐるりと回す。
竿に捻られた柿の実を付けた枝が折れて
そのひょうしにボトリと実がおちる。
きゃあきゃあ言いながら それを拾うのだ。
折れた枝に 実がいくつもついていると、
得をした気分だった。
実家の柿はなかなか甘くならなくて
それが悔しかったけれど
それと 収穫の時の楽しみとは 別なものだ。
近年 県内でも 山郷の方へ行くと
実が収穫されない地域が増えたと聞く。
秋の 柿の実は美しい。
鮮やかな色に染まって 風景を飾ってくれる。
その柿が たわわに実ったはいいが
重さに枝をたわませたまま
木登りして盗む悪童もいないまま
冬の風景にうつろっていく。
父はよく 柿の枝を 収穫する時に折り取るのは
柿にとってもいいのだ、と言っていた。
柿の収穫は 木の枝の剪定を兼ねていたらしい。
そうすると ああして
こぼれんばかりに実を付けたまま冬を迎える柿の木は
剪定をしてもらえずに 疲労するのだろうか。
そう思うと
美しい柿の赤が 寂しい色に見えてくる。
柿の実をかじっていると
藁葺き屋根の すきまだらけの オンボロ実家の
寒くなってきた季節の、
そこだけは‘ぬくとい’(温かい)こたつの辺りが思い出される。
今年はもう いただいた柿は食べ尽くしてしまった。
また、来年、だ。
近年 レトルト・パウチしたような柿を
かなり暖かくなってから見かけるようになった。
お、柿だ! とは思っては見るものの、
暖かくなってからは、どうも、食べたい、という気分にはなれないなあ!
追記:柿は ビタミンCが豊富で 注目の食材なのだとか。
フランス語では そのままKAKIというらしい。
でも 私が愛してるのは オシャレなKAKIじゃなくて
素朴な柿なんだなあ。
(12月25日)
子どもの頃には 毎年 親戚の どこかから送られて来て
寒くなってくる頃には 毎日 柿を食べていた。
今年は 珍しく その‘身不知(みしらず)柿’が届いた。
そして 長く忘れていた風景を思い出させてくれた。

幼い頃、
柿の皮むきは 父がしてくれることは ほとんどなく、
母がひとりで担当していた。
4つ年上の姉が むいてくれることもあったが、
これも 父と同じくらい、まれなことだった。
私は、(どうやら)柿が好きだ。
食べたい。
食べるには、皮をむいてほしい。
梨はともかく(?)、柿は 皮をむかないと、(私は)食べられない。
母がいないと、誰も、むいてくれない。
そこから、私の包丁使いは始まった。
そう、私は 柿で 皮のむき方を覚えたのだった(笑)。
始めの頃は 危ないから、と母は止めようとしていた。
けれど その頃 食べるために田んぼや畑に出ていた母には
座っている時間は少なかった。
母に「むいてやれ」と言われて
姉は ますます むいてくれなくなった(苦笑)。
いいもん、自分でむくもん、と言う気分でむきはじめたら、
案外、むけるものだ(笑)。
父には 時おり
「なんだ、身がちっちぇえ(小さい)ねえ。」
とか、
「皮と身と どっちが多いか、わがんね。」
とか言われていたが
時おりまだ渋いのも混じっている見知らず柿は
厚めに皮をむいて ちょうどいいことも多かった。
そう、見知らず柿は 渋柿を焼酎で渋抜きして作る。
だから、待ちきれない思いで木箱を開けると
焼酎の匂いがしたし、
かじり付いたら まだまだ渋かった!ということも多かった。
もう 何年も 渋柿をかじっていない。
というか、子供たちは かじったことがあるだろうか。
あの‘しぶ’というものは どうしてあんなに 渋いんだろう?(笑)
口も 顔も ひん曲がる!
柿の木箱は
いい加減な板を いい加減に合わせて作ったものが多かったように思う。
りんごを輸送するのに 木箱を使ったのは
そんじょそこらに材料があったから、と
最近 何かで読んだが
りんごの木箱は 割としっかり作られていて 頑丈だった。
だから 姉も 私も
小学校に入学して お古の机(正座して使う文机)をもらうまでは
リンゴの木箱を使って お絵かきやぬり絵を楽しんだ。
柿の木箱は しばらくは取って置くものの、
ガタガタな作りなので
いつも そのうちバラバラにして 燃やしてしまうのだった。
私はたいてい 柿の実の実る季節には 風邪をひいて熱を出し、
暖かな日に 父が 暇を見つけて 我が家の柿をもいでくれる時に
外にでるのを母に止められたものだった。
けれど 父が 家族の輪の中心に居て
わいわい言いながら 柿をもいでくれるのは
滅多にない 楽しい団欒のひと時だった。
竿の先に 二股に分かれた金具や木の枝をくくりつけて
実った柿の枝に刺して、
竿をぐるりと回す。
竿に捻られた柿の実を付けた枝が折れて
そのひょうしにボトリと実がおちる。
きゃあきゃあ言いながら それを拾うのだ。
折れた枝に 実がいくつもついていると、
得をした気分だった。
実家の柿はなかなか甘くならなくて
それが悔しかったけれど
それと 収穫の時の楽しみとは 別なものだ。
近年 県内でも 山郷の方へ行くと
実が収穫されない地域が増えたと聞く。
秋の 柿の実は美しい。
鮮やかな色に染まって 風景を飾ってくれる。
その柿が たわわに実ったはいいが
重さに枝をたわませたまま
木登りして盗む悪童もいないまま
冬の風景にうつろっていく。
父はよく 柿の枝を 収穫する時に折り取るのは
柿にとってもいいのだ、と言っていた。
柿の収穫は 木の枝の剪定を兼ねていたらしい。
そうすると ああして
こぼれんばかりに実を付けたまま冬を迎える柿の木は
剪定をしてもらえずに 疲労するのだろうか。
そう思うと
美しい柿の赤が 寂しい色に見えてくる。
柿の実をかじっていると
藁葺き屋根の すきまだらけの オンボロ実家の
寒くなってきた季節の、
そこだけは‘ぬくとい’(温かい)こたつの辺りが思い出される。
今年はもう いただいた柿は食べ尽くしてしまった。
また、来年、だ。
近年 レトルト・パウチしたような柿を
かなり暖かくなってから見かけるようになった。
お、柿だ! とは思っては見るものの、
暖かくなってからは、どうも、食べたい、という気分にはなれないなあ!
追記:柿は ビタミンCが豊富で 注目の食材なのだとか。
フランス語では そのままKAKIというらしい。
でも 私が愛してるのは オシャレなKAKIじゃなくて
素朴な柿なんだなあ。
(12月25日)