11月1日(木)
ランチ中、デザイナー女性のスマホが鳴った。
「うあ!久しぶり」歓声をあげる。暫く会話をして私にスマホを渡す。
甘ったるい声で「好久不見!西瓜的老板、元気」
「今、南京にいるよ」何年ぶりかに聞く声だ。
「おお!好久不見了、月餅」私は言った。
「西瓜的老板 何言ってるの、あたし、いまはゲッペイではないよ」
彼女は弊社で仕事していた。
中国人の旦那が日本へ国費留学生として一流大学で研究生活。
後を追って彼女も留学。
ところが、旦那は研究論文がアメリカのIT機関に認められてアメリカに行ってしまった。彼女には南京に残した小学生の男の子がいた。
義父母に預けていた。
家族は三つの国分かれて生活した。
大学を卒業して中国には戻らず、上海空港で子供を引き取り
アメリカに渡った。義父母には空港で冷たい対応されて泣いた。
アメリカでグリーンカードを取得、アメリカ人になった。
彼女は南京に暮らしていたころより、必ず中国を脱出してアメリカに渡ると決意していた。
正しく実現させたのだ。
逞しく頭の回転がすこぶる速かった。
アメリカで貿易会社を立ち上げ、仕事で生まれ故郷の南京に来ていた。
小学生だった息子もUCLAの大学生なった。
「西瓜的老板、南京に来て」
「あたしがいるから大丈夫よ、お父さん共産党員だけれど
西瓜的老板のこと良く分かってるから」
「私も中国に入国するにはビザが必要になって日本人と同じように
世界の何処の国も行けるようになった」
「私日本語できるから南京でしゃべると日本人に間違えられて
あの小さな島の事で馬鹿な中国人に殴られてしまう」と笑う。
彼女は現在、弊社でデザインの仕事していり女性(日本人)と
芸術系大学造形学科の同級生なのだ。
彼女がアメリカに行ってしまったので代わりに紹介してもらって
現在仕事している。
彼女が日本にいた頃は30歳だったので40歳過ぎだが
「私はみんなに30歳にしか見えないと言われる」と言う。
先ほどの会話での月餅(ユエビン)は彼女のニックネーム。
顔が真ん丸で目も真ん丸なので中国の月餅とからかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%A4%85
「目は丸いが顔は痩せたよ」!
写真をメールで送ってきた。
ユーモアのある明るい女性だった。
弊社には今まで5人の中国人が働いた。
最初は男で上海出身。
上海で税務署のような仕事をしていたが
かなり便宜を図り汚いこともした。
中国には入られないので日本に来た。
カナダ在住の中国人女性に350万円払って
結婚してカナダに渡った。
それから音信は途絶えた。
次に北京から留学した女性が働いた。
当初、私に北京語を教えるために会社に来たが
展示会等の仕事を手伝うようになった。
聡明で美しくプライドが高い女性だった。
お金を借りて留学だったので貸してくれた
日本でクラブを経営する中国人女性の店で働かねばならなかった。
その事が嫌で辛いと言った。
彼女は日本が好きでなく北京に帰りたかった。
卒業して北京に帰り日系企業に勤めている。
次に来たのが大学院に留学した上海女性。
彼女は大学院を終えると日本の貿易会社に勤めている。
大学院生の代わりに来たのが同じ大学にいた南京女性で後にアメリカに渡った。
その幼馴染が5人目の中国人。
今は永住ビザも取得して中野でお店を開き
時折弊社の仕事の手伝いをする。
先週母親が上海で癌で亡くなり帰国中。
台湾には本省人と呼ばれる台湾人の現地社員がいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%9C%81%E4%BA%BA
息子が台湾留学後、現地日系メーカーに勤務した。
5年前 帰国して弊社の仕事をしたので
中国人採用もそれほど必要なくなった。
みんな個人的には親しく楽しい交流だったが
日本人には常識マナー、公共心が当然のごとく
幼いころから備わっているが、彼らは非常に疲れるらしい。
堅苦しい日本生活では順応できないのだ。
共産主義国家で生きていくための方便として
面従腹背が瞬間的に垣間見られる。
小さな交流にも国家間の諍いで気まずい思いする。
しかし、弊社は輸入が主なので商売間の嫌がらせはない。
品質も20年前と比較すると格段に良くなった。
いつの日か同窓会をしたいと想うのだが?