2月も終わりの土曜日の何時もの昼食時の何気なく「最近お客さんがネットで店の事など見ておられる方が来られるね」と娘と話していました。
「それブログというもんや。お父さんもブログに書いてみたら」と言われました。
「そうやな・・。長いようで短い人生、いろいろな中で81年間生きてきたんやし・・。今更恥もないし・・。四分(よんぶ)の堅気と六分(ろくぶ)の好奇心で過ごしてきた人生・・。」と思い。
「何か書くは・・」と娘に伝えました。
(昨年1月から娘夫婦に店を任せました。少し時間が出来たので、これ迄の人生を振り返ろうと1941年(昭和16年)1月の誕生から(私の走・馬・灯の風)と題し、慣れないパソコンにその時々の写真をアルバムから探し出し、A4用紙に文章と共に書き記しています。現在110ページ。進行中です。)
人生振り返って、人より強かった好奇心が良くも悪くも禍したのかもと思う今日この頃です。
【第1話 3~4歳頃の思い出】
隣の畑の大きな防空壕
昭和19年~20年の思い出です。新町北大路上る東側、今の店の1軒おいた隣に100坪余りの畑が有りました。そこに通りに沿って巾1.50m、深さ1m、長さ10m位の防空壕が掘って有りました。上側は畳を被せて有りました。所々に出入り口が開いていました。空襲警報が鳴るとその防空壕へ入りに行きました。
ある昼間に防空壕に入った時に西空の上空を編隊を組んだ数機の飛行機を見た事が有りました。それを狙って地上から砲弾を撃っているのでしょうか。飛んでいる飛行機の遥か下で破裂した弾の白い煙を見た時が有りました。弾が届かない高い所を飛んでいる飛行機に見とれていた思い出が有ります。
又ある夜に空襲警報が鳴り防空壕に入った時の事です。真っ黒な西空にサーチライトの青白い光が何本も南北左右に動き、爆音が響く上空を照らしていました。飛行機を探しているのかと思いました。爆音が小さくなって消え去る迄と暗闇の中の青白い光に怖さを感じ乍らも好奇心で顔を向けていた思い出も有ります。
母親に連れられて板切れ拾い
新町紫明通りの北側。当時は師範学校(現在は附属小・中学校建立)の塀の南側に細い道が有りその道にそって疎水が流れていました。疎水の南側は道路に沿って家が立ち並んでいました。そこが戦火の時の緩衝帯として強制疎開になったのでしょう。大きな家が順次壊されていきました。その壊された建物の塀の部分の板切れを拾い、煮炊きものの燃料として使っていました。母親に乳母車に乗せられ板切れを持って帰る為に何回か行った記憶が有ります。
疎水の北側から見ていると大きな2階建ての建物が屋根瓦と柱だけ残し、その家の主な柱に綱を括り付け大勢の大人の人が掛け声をかけ引っ張っている光景でした。家がだんだん傾き大きな音と土煙と共に崩されていきました。そのすざましい光景に乳母車の中にしゃがみ込み乍らこわごわ目を向けていた様子(好奇心)が未だに忘れられません。
その疎水も昭和28年頃の工事で地中に埋められ、現在は加茂川から堀川通り迄、せせらぎの流れる美しい紫明通りになっています。
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