日々徒然なるままに

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どちらであっても

2017-06-02 23:42:51 | 神様等について
こんばんは。
昨夜、この辺りはさほどでもないとは申しましたが、やはり結構な雷雨となり、久しぶりの雨となりました。
一夜明けると、これもまた久々の爽やかな空気に包まれており、此処何日かの靄ったような感じはなく気持ちよい朝を迎えることが出来ました。
皆さんお住まいの処は如何でしたでしょうか。
                         
                            

最近、御朱印帳というものが秘かなブームになっているようですね。
うちのような小さな所へも、このひと月程で二、三回とそれほど多くはありませんが問い合わせがありました。
全国の社寺を周られ、そこで御朱印帳に墨書きと朱印を頂くようなのですけれど。
しばらく前には、パワースポットという言葉でこれもまた彼方此方のそのような社寺へ人がお越しになっておられましたね。
その頃からのことなのかな、とも考えますが。

ただ、これもそこへお越しになられ、先ずはそこの神様に礼を尽くして拝礼される、或いはお寺であればご本尊とされておられる仏様を
お参りになれらた、その証として頂戴なさるべきものと考えます。
むやみやたらと数をこなせばよいとばかりに、その御朱印帳を持って社務所等へ行かれ、まるでスタンプラリーかのように貰われるという
ものとは意を異にするものです。

実際、出雲大社に於いても、昨今はそのような方も増えておられるとのことで、御朱印を致す方としても如何なものなのか、と半ば苦慮
しておるとも聞きました。
御朱印を集めることを否定するものではありませんが、社寺に対する敬意をお持ちになられて、今一度何をもってして、そこへいらっしゃる
のか、或いは何のためにそうされるのか、本末転倒されることのないよう、願う次第です。

                             


と少し苦言を呈した感じになりましたけれど。
今日は、この話で終わろうと考えておりましたが、あれ?これで申したいことが終わってしまいましたので、これではどうにも短すぎるな;
と思いまして。
今度は全く違うことで和んで頂こうかと思います。
またぞろ、しばらくお付き合い下さいませ。

                            

夕方、いつもの道を通り散歩に出掛けました。
そこに一台の車が傍らを通り過ぎました。
どうやら、これから通っていく道すがらのアパートの駐車場によく停めてある、ちょっとカッコいい外車のスポーツカーのようでした。
自分がそのアパートに差し掛かると、先ほどの車からちょうどドライバーさんが下りて荷物を取り出しておられるところに出くわしました。し                      
その方が、先ほど自分を追い越したのがわかったのか、初対面ではありましたけれど 「こんにちは」と挨拶して下さいました。
それをきっかけに、なんとなくまだこちらがその車を見ておったものからか、どちらからともなく話が始まりました。し                           
 
                            

その車のナンバープレート自体が広島ではなく、川崎となっておられ、そんなことから県外からの転勤ですねとか、あれこれと話が
続いていきます。
聞けば、転勤といってもこれまでオーストラリア、ドバイ等々、日本のみならずそれこそ世界の様々な処へ行かれていたご様子。
そのドバイ、と聞いて、ついその方の乗っておられる車から「この車関係で?」とうかがうと
「いや、この車は自分の好みで、車に取り付ける部品関連の方の仕事です」とおっしゃいます。
その肝心の部品関連の話も後ほど致したのですが、『ドバイ』と聞いて、これまた思い浮かべたのが、かの地では警察車両が
軒並みスーパーカー揃いだということ。
それを申すと、「あそこはガソリンなんてタダみたいなもんですし、お金あるんでそのスーパーカーにせよフェラーリなんて
 大した金額とは彼らは考えてないんですよ」だとか。
そんなことより、彼の地で一番驚いたというか、困ったことはイスラムの国である為、ラマダーン、断食の習慣があるということだった
そうです。
え、ラマダーンってそのイスラム教の方だけがなさるんじゃないんですか?と訊ねると、
「いや、国全体があの時期はせねばならないんです。ドバイよりもサウジ(アラビア)の方が厳しくて、向こうの方は、まず夜明け前に家族
 全員で食事をし終えて、日中は水も飲みません。もし飲んだのがバレると逮捕となります」と言われます。
それって、外国人も一緒なんですか?と更に問うと
「まぁ、こちらが外人とわかっていますので、それほどきつくはありませんけどね。それでも見つからないようにトイレへ行ってこっそり
 ペットボトルの水を飲んだりしていましたよ。だから現地スタッフはその間、みんな青い顔してましたねぇ、いやぁけっこうしんどかった
 ですねぇ」と話して下さいました。

                                                     

日本でも断食ということは致しますが、おそらく水だけはある程度は許されているのでは、とも思います。
それも、このまだ温暖といわれる地だからこそ出来るのではと思いますが、中東のあの朝晩と日中の非常に温度差のある、しかも乾燥した
地域で致すとなると、並大抵ではないのだろうな、と想像もつかない思いもしますが、それでもラマダーンは連綿としてなされておるのは
たがう事無い事実でもあります。
そのラマダーンの最中にも、やはり日に5回の聖地、メッカの方角に向いての礼拝は欠かさないとのことでした。

                           

日本に於いては、先にも述べましたように各地の社寺へ参り、御朱印帳を頂戴することが流行っておるようです。
片や、イスラムを信仰される人々は、世界の何処へおられようとその教えに忠実に従おうとされています。
(ここで言うイスラム教信仰の人というのは、あくまでも一般的ないわゆる敬虔な方々を指すものとしてお考え頂きたく思います)
どちらも、それらを信仰しない人たちからすれば、何故そのようなことを、といわれるのかもしれません。
しかし、そのどちらの人にも心の根底にあるものは、幸せを希求する気持ちではないか、そう思います。
自らの幸せを願い、その自分の傍らにいる家族の幸せを祈ること。
世界のどこの人々をとってみても、究極の祈りや願いはそこ集約されるのでないのか、そう思います。

神様は外にあるものではなく、自分の内側にあるもの。そう言われる方もおられます。
それもまた真理と考えます。
神様は光であると感じている自分のようなものもおります。
或いは、神様なんてそもそもいやしない、あるわけがない、そう考える人もいます。
ですけれど、自分自身は、今此処にあり、自分自身は幸せでありたいと願う気持ちは、誰しも変わらないと思います。

何処に居ろうと、またその方法は変わろうと、幸せを求める真理は変わらないのではないのか、そう感じます。
この星に住まう自分達、或いは全ての生き物たちがそれを願い祈りながらも、なかなかそうはならない世界でもあります。
それでも、争うことなく、その願い、祈りが本当に訪れる世界でありたい、やはりそう思う自分です。

                          


最後は、まとまったんだか、無理やり結論づけたんだかわからなくなりましたけれど;。
それでも、こんなブログに今日もお付き合い頂きまして、有難うございました。

(文中、また消せない文字が出てきました、申し訳御座いません、お詫びのみ申し上げる次第です)

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