先週、次男坊の卒業式があった。
なんとか、無事に卒業証書を校長先生から、
わが倅は奪い取った(笑)
僕の倅は、生まれつき重複障害を持っていて、聞くことも、言葉を発することもできない。身体もチョット不自由だ。さらに知的にも問題があり、従って校長先生から卒業証書を戴くのではなく、奪い取る次第となる(笑)。
よって、彼の通っていた高校は聾学校の重複障害クラスだ。彼が通学していた間に、多くのことを教えられた。
一番、印象的なのは、
世間巷では、" いじめ"が話題になっているけれど、
僕の知る限り、 この学校には、
陰湿な”いじめ”の問題が、存在しないことだった。
単一障害で、聴力に問題をあるだけの子供達は、自らがハンデキャップを背負って成長してきたせいか、他人の痛みやハンデキャップに対して敏感に感じることができ、さらに躊躇なくヘルプの行動ができるようだ。
そこには、いじめを醸成させるような、虚栄とかつまらない傲りなんて存在しないのだろう。
彼らは、とても僕の倅に対して優しかった。
概して、健常者はハンデキャップを持つ人をヘルプすることに、躊躇してしまうことが多い。
電車の中で、年寄りや体の不自由な人に席を譲るタイミングを逸するなんてのは、その典型だ。
この場合、意識したり潜在的に行動するのをためらう原因はなんなのか?
恥ずかしい(なんで?なんとなく…)
誰かが、やるだろう…
自分も疲れているから…
なんで、俺が譲らなくちゃいけないんだ?
向かいに座っている、 自分より若そうな人に心の中で(アンタなんで譲らないのよっ!)なんて呟いたり、
・・・・ てなことを健常者は思っていたりして、行動せず、無関心を装う。
ところが、少なくとも僕が知る聾学校の仲間達は、
こんなつまらない心情とは無縁のような気がする。
重複障害をもった、うちの倅にたいして、先生方に促される事もなく、自然にサポートしてくれる。
彼らは、人間として素晴らしい。そして、いま学生仲間とのそんな成長を支えてきた先生方と学校に敬意と感謝を心からひょうしたい。
直接聞いたわけではないけれど、その根本にあるものは、
ハンデキャップを個性のひとつとして受け容れる教育
の存在ではなかろうか?
僕は、勝手にそう解釈している。
翻っておもうに、
健常者だけが、通う学校では
きっとそんな事は、教えないのかもしれないし、ハンデキャップを持った仲間の存在が近くに居なければ、現実感を伴わないのかもしれない。そして、彼らが必要としているのは単なる憐みや同情でもないことを、教える場であって欲しいと願うのだが、現実はそうではないらしい。
過去、次男が誕生するまでは、自分自身が、そうだった。
接し方が解らないので、行動を躊躇してしまっていた。
それを言い訳に傍観者で無関心を装っていた。
何らかの障害を持った子供達の成長は、健常者に比べれば
遅かったり、不完全だったりする。
だからこそ、小さな細かい成長が良く見えると思う。
そもそも、ウチの場合は他の子供達と比較することがナンセンスなのだから、
その小さな成長を素直に喜べる。
健常者の多くは、自分で可能なことが標準だと勘違いして、
それを尺度に、比較評価し、喜び、嘆き、悲しみ、怒る。
そして、自らが作った尺度で、自分自身の中にストレスを抱え込む…
不必要な遠慮や、煮え切らない歯切れの悪い言葉、その態度にイライラして、
「なんで、こんなとが出来ないんだっ!」
「こんなの、出来てあたりまえだっ!」
と激しく言葉を浴びせてしまう。
・・・・ 言われた側は、そもそも尺度が違うので、
「鳩が豆鉄砲!」
状態だ、罵声を浴び、罵られ彼にとっても、
自分自身を否定された気分になって、それが再びストレスとなる。
それは、相互理解なんて言葉からほど遠い世界だ。
人間には、人其々のいろいろな尺度があることを理解する事ができない人は、
自らの意思や思いが、相手にうまく伝わらないことにストレスを感じしまう。
相手の言い分を認めることを、妥協してしまうことだと勘違いしてしまっている。
この状態は、悪循環で不毛を生む。
様々な尺度は、人其々の個性と思えば、ストレスも感じずに
ハッピーな気分になるんだが、
聾学校の倅の仲間達を観察していると、
大人の世界が大人気ない世界
・・・にも見えてくるのだった。
先生、同級生 倅とおやぢを勉強させてくれて、
3年間ありがとう。
なんとか、無事に卒業証書を校長先生から、
わが倅は奪い取った(笑)
僕の倅は、生まれつき重複障害を持っていて、聞くことも、言葉を発することもできない。身体もチョット不自由だ。さらに知的にも問題があり、従って校長先生から卒業証書を戴くのではなく、奪い取る次第となる(笑)。
よって、彼の通っていた高校は聾学校の重複障害クラスだ。彼が通学していた間に、多くのことを教えられた。
一番、印象的なのは、
世間巷では、" いじめ"が話題になっているけれど、
僕の知る限り、 この学校には、
陰湿な”いじめ”の問題が、存在しないことだった。
単一障害で、聴力に問題をあるだけの子供達は、自らがハンデキャップを背負って成長してきたせいか、他人の痛みやハンデキャップに対して敏感に感じることができ、さらに躊躇なくヘルプの行動ができるようだ。
そこには、いじめを醸成させるような、虚栄とかつまらない傲りなんて存在しないのだろう。
彼らは、とても僕の倅に対して優しかった。
概して、健常者はハンデキャップを持つ人をヘルプすることに、躊躇してしまうことが多い。
電車の中で、年寄りや体の不自由な人に席を譲るタイミングを逸するなんてのは、その典型だ。
この場合、意識したり潜在的に行動するのをためらう原因はなんなのか?
恥ずかしい(なんで?なんとなく…)
誰かが、やるだろう…
自分も疲れているから…
なんで、俺が譲らなくちゃいけないんだ?
向かいに座っている、 自分より若そうな人に心の中で(アンタなんで譲らないのよっ!)なんて呟いたり、
・・・・ てなことを健常者は思っていたりして、行動せず、無関心を装う。
ところが、少なくとも僕が知る聾学校の仲間達は、
こんなつまらない心情とは無縁のような気がする。
重複障害をもった、うちの倅にたいして、先生方に促される事もなく、自然にサポートしてくれる。
彼らは、人間として素晴らしい。そして、いま学生仲間とのそんな成長を支えてきた先生方と学校に敬意と感謝を心からひょうしたい。
直接聞いたわけではないけれど、その根本にあるものは、
ハンデキャップを個性のひとつとして受け容れる教育
の存在ではなかろうか?
僕は、勝手にそう解釈している。
翻っておもうに、
健常者だけが、通う学校では
きっとそんな事は、教えないのかもしれないし、ハンデキャップを持った仲間の存在が近くに居なければ、現実感を伴わないのかもしれない。そして、彼らが必要としているのは単なる憐みや同情でもないことを、教える場であって欲しいと願うのだが、現実はそうではないらしい。
過去、次男が誕生するまでは、自分自身が、そうだった。
接し方が解らないので、行動を躊躇してしまっていた。
それを言い訳に傍観者で無関心を装っていた。
何らかの障害を持った子供達の成長は、健常者に比べれば
遅かったり、不完全だったりする。
だからこそ、小さな細かい成長が良く見えると思う。
そもそも、ウチの場合は他の子供達と比較することがナンセンスなのだから、
その小さな成長を素直に喜べる。
健常者の多くは、自分で可能なことが標準だと勘違いして、
それを尺度に、比較評価し、喜び、嘆き、悲しみ、怒る。
そして、自らが作った尺度で、自分自身の中にストレスを抱え込む…
不必要な遠慮や、煮え切らない歯切れの悪い言葉、その態度にイライラして、
「なんで、こんなとが出来ないんだっ!」
「こんなの、出来てあたりまえだっ!」
と激しく言葉を浴びせてしまう。
・・・・ 言われた側は、そもそも尺度が違うので、
「鳩が豆鉄砲!」
状態だ、罵声を浴び、罵られ彼にとっても、
自分自身を否定された気分になって、それが再びストレスとなる。
それは、相互理解なんて言葉からほど遠い世界だ。
人間には、人其々のいろいろな尺度があることを理解する事ができない人は、
自らの意思や思いが、相手にうまく伝わらないことにストレスを感じしまう。
相手の言い分を認めることを、妥協してしまうことだと勘違いしてしまっている。
この状態は、悪循環で不毛を生む。
様々な尺度は、人其々の個性と思えば、ストレスも感じずに
ハッピーな気分になるんだが、
聾学校の倅の仲間達を観察していると、
大人の世界が大人気ない世界
・・・にも見えてくるのだった。
先生、同級生 倅とおやぢを勉強させてくれて、
3年間ありがとう。
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