ランプの散歩荒れ地の今年初めての花です。
やぶの中に咲いていました。
去年と同じで、名前は知りません(笑)
<まえがき>
●幕末、徳川幕府は、薩長土肥を中心とする勢力によって倒され、天皇を傀儡とする明治政府が成立した。
江戸開幕以来250年の中で闘う精神を失った幕府軍は、鳥羽伏見の初戦から後退し、薩長軍に掲げられた岩倉具視らが作った「偽錦旗」と「偽勅」に狼狽した徳川慶喜は、大阪城から海路逃亡し、江戸城無血開城を節目に戦いの中心は、京都守護職を藩をかけて全うした会津藩攻防戦になった。
●会津を孤立させないために奥羽越列藩同盟が作られたが、秋田藩が最初に薩長軍に寝返り、仙台・米沢藩兵、旧幕府軍諸隊・新撰組その他が激戦を繰り返したが、米沢・仙台、そしてついには会津が降伏し、箱館戦争を経て五稜郭で榎本軍が降伏し、戊辰戦争は終結した。
●山形県酒田の庄内藩は、江戸市中取締りの任務を担い、京都と同じように異人切り、江戸市中放火、強盗などを繰り返す浪士のアジトになっている薩摩藩邸に対し、激しい砲撃を加え焼き討ちした。同時に京都を占拠する薩長藩にたいし、大阪から幕府軍を送ったことが、鳥羽伏見の戦争の戦端を開かせることになった。
●僕の父の生地である山形県新庄藩は、薩長側に与し、隣国である精強な庄内藩に駆逐され、現在の国道13号線を北上し、小さな戦闘を繰り返しながら、薩長側の秋田藩内に敗走した。秋田藩は、盛岡の南部藩に大舘に攻め込まれ、南は横手を庄内藩に抜かれ、薩長の軍兵が象潟などに上陸するまで、ひたすら秋田市に向けて敗走した。
<本題>
秋田県横手市増田町真人の国道342号線旧道にある、真人郵便局の向かいにある塚です。
石碑が二つ立っていて、屋根や囲いで風雪を防いでいます。
18日にドライブでこの辺りで道に迷い見つけたのですが、実は僕が近くの増田高校に在学し、父から話を聞いていたご先祖の塚だと聞いていたものです。
僕は、父のほら話だと思い、真面目に調べないままにすっかり忘れ、この日、たまたま道を探して342号のバイパスから旧道に入り、44年ぶりに思い出したというわけです。
父は、「祖父が敗走を続けてきた新庄藩の足軽頭くらいの武士で、追撃してきた庄内藩との戦闘で戦死した時の墓だ」と云っていましたが、僕は全く信用せずに調べることさえしていなかったのです。
傍に近寄ると、右側には比較的新しい墓石で作りなおされた大きい方のお墓に「新藩官軍 義光良基居士墓」裏には「山良基 行年55歳」とあります。曾孫が建立したと書かれていました。
左側の小さく、かなり文字も薄くなった墓は、写真に写りづらくて、ようやく見えたのがこの文字です。
正面には、戒名として「新藩官軍 武山良勇居士」。
裏には、「新藩官軍 菅芳之助墓」。
横には、一部読み取れないものの「○時 明治元年 辰八月八日」。
僕の父が、まったく熱意のなさそうな酔っぱらった話として云っていた「ご先祖様」の墓が、こんな増田町の中にあったのです。
いまさらですが、ほら話だとして一度も調べようとしなかった僕は、父に謝罪しなければならないです。
町内では、その頃血なまぐさい戦闘があり、その印象が強かったので祠として残して、150年間も整備していてくれたことに感謝しながら曾曾祖父芳之助に手を合わせてきました。
新庄藩士の戦史記録を調べてみたら、この菅芳之助について記述がありました。
菅(カン)家は、父の兄弟の長男の家系(芳之助の直系)は静岡に移住して、新庄市には系列の親類はいないそうです。
また、僕の菅(カン)家系統は女系しか子供がいないので、僕が死んだら絶えることになりますが、ご先祖のこの碑はずっと残るのでしょう。
<調査結果>
菅芳之助吉重
新庄藩 銃隊司令士
明治元年8月8日 羽後番場村で戦死 54歳
芳之助の墓は、この増田町と秋田市八橋全良寺にあるようです。そのうち行って調べてみます。
もともと僕は、お墓や石碑の裏の文字を読むのが趣味なので、象潟蚶満寺の草に埋もれた戊辰戦争で戦死した九州の各藩の兵士の小さな墓石などを調べたりしていたので、ご先祖の事ですから機会を見つけて調べてみたいと思います。
サイトのかなり下の方になりますが、確かに全良寺に芳之助のお墓があります。
http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/zenryouji3.html
http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/masuda.html
●僕の名字は、現在は通称の「スガ」にしていますが、正式には「菅」は「カン」と読みます。
菅貴代志はしたがって正確には、カンキヨシ、と読みます。
しかし、住民票なども「スガ」になっているので、そのままできました。
芸名の「音楽結社魂の詩派 きよかん」の意味は、氏名をひっくり返したものです。
実は、山形県は名字の音読みが多いですね。
東海林は「トウカイリン」とか。
●僕の名前が貴代志。
父は、吉清。
叔父さんたちは、すべて「ヨシ」を読みとして名前に有ります。(ヨシジゲ、ヨシナオなど)
今気が付くのもなんですが、新庄藩士芳之助の前の江戸時代から、菅(カン)家は、結構伝統的に「ヨシ」を名前に入れていたのかもしれないです。
なにしろ、僕は、父から話も聞くことはなかったし、祖父とその一族の事は全くわからないのです。
先の戦争によって全員が兵士として出征し、その後地元の山形県新庄市(大蔵村清水)には誰も帰らなかったので、僕の知っている祖父の実家の事は何もないのです。おじいさんの事さえも知らない我が家です(笑)
結局、ずいぶん前に亡くなった父も話をしてくれなかったし、今やだれも知らないおじいさんより前の我が家系の謎の歴史になってしまいました。
●菅(カン)家が、戦国時代の終わりから幕末まで、260年も新庄藩士として続いていたのかどうかはわかりませんし、江戸時代以前がどうなのかも不明ですが、ルーツというものを初めて真面目に考えさせられたのが収穫です。
道に迷ってよかったです(笑)
やぶの中に咲いていました。
去年と同じで、名前は知りません(笑)
<まえがき>
●幕末、徳川幕府は、薩長土肥を中心とする勢力によって倒され、天皇を傀儡とする明治政府が成立した。
江戸開幕以来250年の中で闘う精神を失った幕府軍は、鳥羽伏見の初戦から後退し、薩長軍に掲げられた岩倉具視らが作った「偽錦旗」と「偽勅」に狼狽した徳川慶喜は、大阪城から海路逃亡し、江戸城無血開城を節目に戦いの中心は、京都守護職を藩をかけて全うした会津藩攻防戦になった。
●会津を孤立させないために奥羽越列藩同盟が作られたが、秋田藩が最初に薩長軍に寝返り、仙台・米沢藩兵、旧幕府軍諸隊・新撰組その他が激戦を繰り返したが、米沢・仙台、そしてついには会津が降伏し、箱館戦争を経て五稜郭で榎本軍が降伏し、戊辰戦争は終結した。
●山形県酒田の庄内藩は、江戸市中取締りの任務を担い、京都と同じように異人切り、江戸市中放火、強盗などを繰り返す浪士のアジトになっている薩摩藩邸に対し、激しい砲撃を加え焼き討ちした。同時に京都を占拠する薩長藩にたいし、大阪から幕府軍を送ったことが、鳥羽伏見の戦争の戦端を開かせることになった。
●僕の父の生地である山形県新庄藩は、薩長側に与し、隣国である精強な庄内藩に駆逐され、現在の国道13号線を北上し、小さな戦闘を繰り返しながら、薩長側の秋田藩内に敗走した。秋田藩は、盛岡の南部藩に大舘に攻め込まれ、南は横手を庄内藩に抜かれ、薩長の軍兵が象潟などに上陸するまで、ひたすら秋田市に向けて敗走した。
<本題>
秋田県横手市増田町真人の国道342号線旧道にある、真人郵便局の向かいにある塚です。
石碑が二つ立っていて、屋根や囲いで風雪を防いでいます。
18日にドライブでこの辺りで道に迷い見つけたのですが、実は僕が近くの増田高校に在学し、父から話を聞いていたご先祖の塚だと聞いていたものです。
僕は、父のほら話だと思い、真面目に調べないままにすっかり忘れ、この日、たまたま道を探して342号のバイパスから旧道に入り、44年ぶりに思い出したというわけです。
父は、「祖父が敗走を続けてきた新庄藩の足軽頭くらいの武士で、追撃してきた庄内藩との戦闘で戦死した時の墓だ」と云っていましたが、僕は全く信用せずに調べることさえしていなかったのです。
傍に近寄ると、右側には比較的新しい墓石で作りなおされた大きい方のお墓に「新藩官軍 義光良基居士墓」裏には「山良基 行年55歳」とあります。曾孫が建立したと書かれていました。
左側の小さく、かなり文字も薄くなった墓は、写真に写りづらくて、ようやく見えたのがこの文字です。
正面には、戒名として「新藩官軍 武山良勇居士」。
裏には、「新藩官軍 菅芳之助墓」。
横には、一部読み取れないものの「○時 明治元年 辰八月八日」。
僕の父が、まったく熱意のなさそうな酔っぱらった話として云っていた「ご先祖様」の墓が、こんな増田町の中にあったのです。
いまさらですが、ほら話だとして一度も調べようとしなかった僕は、父に謝罪しなければならないです。
町内では、その頃血なまぐさい戦闘があり、その印象が強かったので祠として残して、150年間も整備していてくれたことに感謝しながら曾曾祖父芳之助に手を合わせてきました。
新庄藩士の戦史記録を調べてみたら、この菅芳之助について記述がありました。
菅(カン)家は、父の兄弟の長男の家系(芳之助の直系)は静岡に移住して、新庄市には系列の親類はいないそうです。
また、僕の菅(カン)家系統は女系しか子供がいないので、僕が死んだら絶えることになりますが、ご先祖のこの碑はずっと残るのでしょう。
<調査結果>
菅芳之助吉重
新庄藩 銃隊司令士
明治元年8月8日 羽後番場村で戦死 54歳
芳之助の墓は、この増田町と秋田市八橋全良寺にあるようです。そのうち行って調べてみます。
もともと僕は、お墓や石碑の裏の文字を読むのが趣味なので、象潟蚶満寺の草に埋もれた戊辰戦争で戦死した九州の各藩の兵士の小さな墓石などを調べたりしていたので、ご先祖の事ですから機会を見つけて調べてみたいと思います。
サイトのかなり下の方になりますが、確かに全良寺に芳之助のお墓があります。
http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/zenryouji3.html
http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/masuda.html
●僕の名字は、現在は通称の「スガ」にしていますが、正式には「菅」は「カン」と読みます。
菅貴代志はしたがって正確には、カンキヨシ、と読みます。
しかし、住民票なども「スガ」になっているので、そのままできました。
芸名の「音楽結社魂の詩派 きよかん」の意味は、氏名をひっくり返したものです。
実は、山形県は名字の音読みが多いですね。
東海林は「トウカイリン」とか。
●僕の名前が貴代志。
父は、吉清。
叔父さんたちは、すべて「ヨシ」を読みとして名前に有ります。(ヨシジゲ、ヨシナオなど)
今気が付くのもなんですが、新庄藩士芳之助の前の江戸時代から、菅(カン)家は、結構伝統的に「ヨシ」を名前に入れていたのかもしれないです。
なにしろ、僕は、父から話も聞くことはなかったし、祖父とその一族の事は全くわからないのです。
先の戦争によって全員が兵士として出征し、その後地元の山形県新庄市(大蔵村清水)には誰も帰らなかったので、僕の知っている祖父の実家の事は何もないのです。おじいさんの事さえも知らない我が家です(笑)
結局、ずいぶん前に亡くなった父も話をしてくれなかったし、今やだれも知らないおじいさんより前の我が家系の謎の歴史になってしまいました。
●菅(カン)家が、戦国時代の終わりから幕末まで、260年も新庄藩士として続いていたのかどうかはわかりませんし、江戸時代以前がどうなのかも不明ですが、ルーツというものを初めて真面目に考えさせられたのが収穫です。
道に迷ってよかったです(笑)