京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

高台寺 十牛庵①本館・庭園見学

2020年07月31日 09時20分00秒 | 日記
 7月30はNHK文化センターの講座で高台寺十牛庵に伺いました。





門を入り玄関へのアプローチだけで期待が膨らみます。
案内されたのは大広間です。三面が大きなガラスに覆われ庭園が一望できます。





座敷部分はひらまつさんがオーナーになられてから改装された部屋です。







床柱は樹齢150年の梅の木。さらに十数年寝かした材だそうです。
天井には松と竹が使われ部屋全体で"松竹梅"になっています。

庭園前は板張りになっていて芸舞妓さんが舞を舞う舞台となっています。

庭園と館内の説明は高台寺十牛庵の亭主兼料理長の藤原誠さんがして下さいました。







庭園はかの七代目小川治兵衛の作庭です。
最初はあまり"植治"を感じなかったですが、手水や灯籠、伽藍石、その他の景物や植栽をみるとやはり"植治"のエッセンスが詰まった庭園だとわかります。
景石も鞍馬石や貴船石がふんだんに使われ明治41年に大阪の豪商・清水吉次郎の数寄者ぶりが伺えるます。

三年前にひらまつさんの所有になった時にはかなり荒れていたそうです。三年を費やしここまで整備されたようです。









二畳台目の本格的な茶室も備わっています。数寄屋建築の第一人者"中村外二工務店"が作られ、茅葺きは京都美山の職人さんが葺かれたそうです。

次に館内をご案内して頂きました。









二階にも数部屋がらあり、西側の部屋からは八坂の塔、遠くは左大文字や愛宕山まで見渡せます。
今のご時世でしょうかテーブル席がメインですね。

調度品も河井寛次郎の陶器に棟方志功の絵がさり気なく飾られています。









調理人がお客様の前で調理する板前割烹の部屋も備わっています。














お軸は琳派の流れを組む酒井抱一で鶴と亀の絵です。美術館にあってもおかしくない逸品です。







次に京懐石編です。









斎藤道三の虚像と実像② 呉座勇一先生

2020年07月28日 09時15分00秒 | 日記
 呉座先生の講座についての2回目です。

信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を進めた永禄11年(1568)から天正10年(1582)本能寺の変までの15年間を1年1冊にまとめた太田牛一の『信長公記』ですが、太田牛一の自筆本を含め多くの伝本があります。

しかし、自筆本にはない「首巻」を伴うものが複数存在しています。
後に付け加えられたと考えられています。

太田牛一は"創作はしていない"と明言しています。しかし、信長の"うつけ"ぶりを記すなど物語的な逸話が多く記述されています。

しかし、問題なのはこの時期には牛一は信長に仕えていない可能性が指摘されており、聖徳寺の会見も伝聞情報と考えられています。

小瀬甫庵『信長記』(1611年頃)や竹内角斎『絵本太閤記』(1797-1802)の内容も『信長公記』の内容を踏襲し道三の先見の明を賞賛しています。(斎藤家もやがて信長に滅ぼされる事)

⚪︎最近の斎藤道三像

山路愛山『豊太閤』(1908年)
「(光秀の謀反について)美濃の斎藤氏も、備前の浮田(宇喜多)氏も、四国の長曾我部氏も、あるいは織田氏ていえどもその成立の始めを尋ねたらば、義理の学問より言えば罪氏をだも容れざるものあらん」

物集梧水編『東西修養逸話』(1911年)では「斎藤道三、油売りより立身す」とあり、明治時代に立身出世を重視する風潮が強まる中で肯定的な評価も見られるようになります。
明治政府の"富国強兵"政策の拠り所のひとつになっていたのかもしれないです。

徳富蘇峰『近代日本国民史』
その中で聖徳寺の会見を紹介しています。
「道三は坊主より油売りとなり。油売りより美濃長井の家臣となり、その長井を殺し、さらに長井の主人たる土岐を放逐したる強か者である。この老獪の道三と、ようやく二十歳になった信長との会見は、如何にも面白い対照ではないか」「さすがは悪党でも、道三は道三じゃ。美濃が婿引き出物となることは、道三の予言通りである」と記述しています。

司馬遼太郎『国盗り物語』(1963-66連載)

司馬遼太郎の言葉
「新しい秩序の創造者として歴史は信長という天才をむかえるわけだが、信長という才能の出現には系譜がある。信長の先駆的人物として私は斎藤道三に興味をもち、それを書いた、、、(中略)、、、悪人が故に近世を創造する最初の人になった」と述べていて司馬遼太郎は斎藤道三を高く評価していると思います。

この歴史小説の影響は非常に大きいですね。

斎藤道三の実像

「春日匠氏所蔵文書」の(永禄3年)7月21日六角承禎書状には道三嫡男義龍の出自について書かれています。
「義龍の祖父である新左衛門尉は京都妙覚寺の法華宗の坊主であったが還俗して西村と名乗り、長井弥二郎に仕えた。美濃国内の内乱に乗じて才覚を働かせて次第に出世し、長井一族になった。また、義龍の父である左近大夫(道三)は代々に長井氏惣領を撃ち殺して長井家を乗っ取り、さらに斎藤一族に成り上がった。」

これによると、親子2代に渡っての美濃国の国取りだったことが分かります。

大河でも義龍が道三の実子であるのか自身の出生に思い悩む場面がありました。

「信長公記』によると「(長良川の戦いが終わり)これより後、新九郎"はんか"と名乗る。古事あり。唐にはんかという者、親の頸を切る。それは父の頸を切って孝となるなり。。今の新九郎義龍は、不幸重罪恥辱となるなり」とあります。

道三の実子でなければ、義龍自身が親殺しの代名詞のひとつ「范可」の名に改めることはしないはずであり、義龍は道三の実子であったと思われます。

永禄2年(1559)に義龍は一色に改姓しています。土岐頼芸の子ならば土岐に改姓するはず。

また、戦国時代、子が父を追放することはあっても殺すことは珍しい。
道三殺しの不可解さを説明するために後世に創作された事も考えられます。

⑴斎藤道三は油売りから身を起こし、一代で美濃国の主にまでのぼりつめた。
→親子二代に渡って美濃国を取った
 油売りから身を起こし、、は後世の創作
 か?

⑵義龍は道三の実子か?
→義龍の長良川の戦いの後の行動を見る
 限り、土岐頼芸の子ではなく道三の実子
 である。

⑶聖徳寺の会見で道三は信長の器量を
 見抜いていた。
 斎藤家は信長に滅ぼされることを予言。

内容の濃い講義内容で8月30日から再開される「麒麟がくる」が益々楽しみになってきました。

斎藤道三の虚像と実像① 呉座勇一先生

2020年07月24日 08時08分00秒 | 日記

 7月18日は朝日カルチャーの講座で呉座勇一先生の講座がありました。

日本中世史がご専門で新書では空前のヒット作となった「応仁の乱」の著書です。

今回は、今年のNHK大河「麒麟がくる」で登場した斎藤道三についての講座です。
大河では本木雅弘さんが演じていた道三が凄くかっこよく、道三のイメージがすっかり変わってしまった感があります。

しかし、文献を中心に考察を重ねられ、作家の方々の小説や新説を次々と論破されまさす。
その切れ味の良さが呉座先生の特徴だと思います。

①江戸時代の斎藤道三像

『信長公記』の著書として知られる太田牛一「大かうさまくんきのうち」(1610年頃)によると道三は山城国(今の京都)西岡の出身で美濃国(今の岐阜)で長井藤左衛門に仕え西村と名乗る。やがて主の首を切り、長井新九郎と名乗る。

やがて美濃国の守護大名土岐頼芸(ときよりのり)に仕え斎藤道三と名乗る。土岐殿御息二郎殿を婿に取り毒殺。次に御舎弟八郎殿を婿に取り、切腹させ、大桑(おおが)を乗っ取り候き。とあります。

『堂洞(どうほら)軍記』では、「斎藤山城守と申すは、その昔、都において賤しき笠張りにて有りける人に生まれ、、、」とあります。

『美濃国諸旧記』には「斎藤道三という者あり。その由緒を尋ねるに、元来その祖先、禁裏北面の武士なり、、、その子左近将監基宗、その子道三なり。』
とあり、幼少の頃から優秀で基宗にたいそう可愛がられたようです。
11歳の春に出家させ、京都妙覚寺の日善上人の弟子となり法蓮房と号します。
しかし、還俗し、西岡に帰京し、『奈良屋又兵衛という者の娘を娶り妻となし、彼の家名を改め、山崎屋庄五郎と名乗りで燈油を商いす』とあり、ここで初めて油売りの事が出て来ます。
しかし、この古文書も道三の時代から約100年後に書かれたもので真偽の程は定かではないのではないでしょうか。

②斎藤義龍の実父は土岐頼芸なのか?

太田牛一の『大かうさまくんきのうち』(1610年頃)では「一男新九郎、二男孫四郎、三男喜平次として、兄弟三人これあり。惣別、人惣領たるものは、必ずしも心が緩緩として穏当なるものに候。道三は知恵の鏡も曇り、新九郎は 者(ほれもの)とばかり心得、弟二人を小賢しく利口の者かなと崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら官を進め、これによって弟ども勝に乗ってはばかり、新九郎を蔑ろに持て扱い候。よその聞こえ無念に存じ、十月十三日、作病を構え、奥へ引き入り、平臥候し、、」とあり、病を口実に、弟二人をおびき寄せて謀殺します。

大河ではこの場面も印象的でした。 

山鹿素行『武家記紀』(1673)
「正利稲葉山に在城し、入道して道三といい、土岐が妻を妻とす。この妻、土岐が所にて懐妊の子を、山城守の所にて産めり。これ義竜という。その弟孫四郎・喜平次新五郎、三人あり。道三、義竜をうとみ、孫四郎・喜平次を愛し、これを跡に立てんとす。義竜遺恨を存じ、、、」とあります。

また、熊沢正興『武将感状記』(1716)や『美濃国諸旧記』にも同様な記述があり義龍は土岐頼芸の子であった可能性があります。

大河でも義龍が自分の出生に悩み、父道三に詰め寄るシーンが印象的でした。

今では考えられないですが、平安時代以降には自分の妻を部下に譲る風習があったのですね。

③聖徳寺の会見(『信長公記』)

時期については不詳。信長公記には"四月初旬"とのみあります。織田家の事情から考えると、織田信秀が死去した天文21年(1552)3月以降と考えられます。天文23年に信長が今川方の村木砦を攻める際、居城の那古野城を清州織田家に攻められないよう、道三に援軍を出してもらっているので、それ以前に会見を行っているのが自然で天文21年ないし22年4月の出来事で信長19歳か20歳の時のようです。

家臣から信長の"たわけぶり"を聞いていた道三は会見場に来る時の信長が歌舞伎者から、髷を直し正装に着替えて会見場に現れます。あまり会話もなく湯漬けを食し盃を交わしたそうです。

会見後、道三は信長の帰りを見送りますが自分の軍の槍より信長軍の槍の方が長いことに気づき不機嫌になります。
道三側近の猪子平介(高就)に『されば無念なること候。山城のこどさ、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候』と述べ、早くも信長の器量を見抜いていたようです。

内容が凄いので以降は続編に書きます。

六勝寺 ①法勝寺(ほっしょうじ)

2020年07月22日 08時42分00秒 | 日記
 昨年から朝日カルチャーセンターの講座で、同志社女子大教授の山田邦和先生の「歩いて学ぼう 京都の歴史」を受講しています。

現在の岡崎周辺には、平安時代後期から室町時代にかけて天皇や上皇の御願寺が六ヶ寺建立され法号に「勝」が付くことから六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)と呼ばれています。

法勝寺は白河天皇の御願により承暦元年(1077)に建立されました。
時の左大臣藤原師実による寄進です。
六勝寺中で最大の規模で今の京都市立動物園はその南側半分に当たります。

観覧車がある場所には高さ約80mを誇る八角九重の塔が聳えていました。
東寺の五重塔が約55mの高さですから如何に巨大な塔だったのかが想像出来ます。

発掘調査では、多くの発掘成果がありました。
基壇の基礎部分は大きな石と粘土で何層にも地盤が強化されている地業跡(じきょうあと)や瓦も発掘されました。
それまで、屋根は檜皮葺か柿葺と考えられていただけに関係者には意外な発見だったようです。但し、出土した瓦の数が塔の規模には合わず少ない出土だったようで屋根に関して瓦葺きだったのかどうか再考の余地があるようです。

当時の基壇を取り巻く石材が動物園内に展示されています。

また、二条通を挟んで向かい側には法勝寺金堂基壇の高まりを見る事がで出来るのみです。うどんやそばの名店"権太呂"の東側付近です。

京都アスニー内にある京都市平安京創生館には当時の復元模型が展示されています。

北から南の方向です。


反対に南から北の方向です。


華やかに見える平安時代ですが庶民の生活は苦しく、疫病の流行で多くの死者が出る時代でもありました。

六勝寺周辺を巡った時の写真が見当たらず、今回は写真が少ないです。
宜しければ2月14日の記事をご覧下さい。











並河靖之七宝記念館

2020年07月21日 09時16分00秒 | 日記
 並河靖之七宝記念館は何度か記事にしていますが年2回企画展をされています。
春季特別展はコロナの影響で公開開始が遅れたため、8月23日まで公開を延長されています。



この記念館は明治・大正期に七宝家として活躍した並河靖之の住居兼工房を営んだ建物です。

受付を終えると狭いですが展示室があり見事な七宝の作品の数々が展示されています。

国内よりむしろ海外への輸出品とし欧米で重宝されたようです。

展示室の扉を開けると七宝制作を詳しく説明した旧工房の展示室、七宝を焼成する旧窯場があります。
作業工程はそれぞれの工程の専門家の手を経て製作されます。





その際に大量の水が必要で明治23年(1890)竣工の琵琶湖疏水の水が初めて工業用として一般の建物に引かれました。
使って水を再利用し、庭園に引き込み作庭したのが七代目小川治兵衛(植治)です。
見出しの写真にある記念館のお隣が植治の自宅で馴染みの仲だったのでしょうね。
今も11代目がお住まいです。







面積は広くはないものの、施主並河靖之の意向を組んだ庭園になっています。
伽藍石や石燈籠などは庭園に比べ大振りな物が使われています。



鞍馬石をくり抜いた一文字型の手水鉢を地面から浮かんでいるように配置しているのも面白い工夫です。





室内の応接間は海外からの賓客との商談も兼ねていた部屋で、通常の日本家屋より高く作られ、雪見障子も椅子に座った位置から庭がよく見えるように設計されています。
当時、高価だった硝子がふんだんに使われていて、室内は非常に開放感があります。



工房の屋根瓦には"並"を図案化した意匠が施されています。







明治27年(1894)に落成した建物は商家の典型的な町屋造りの"表家造"です。

店舗と主屋のふたつの建物を玄関で繋いでいるのが特徴です。