京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

京都大原 寂光院

2020年02月28日 08時36分00秒 | 日記
 寂光院の歴史は古く、推古2年(594)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建されたと伝わる古寺です。

寂光院は壇之浦の戦いで平家が敗れ、ひとり救われた建礼門院徳子(平清盛の娘)が長楽寺で剃髪、出家後、隠棲したお寺として誰もが知るお寺です。




平成12年(2000)5月9日、放火による火災で本堂は焼失し、ご本尊さまの地蔵菩薩立像は大きな損傷を受けました。
しかし、胎内仏はほとんどが無事で、その一部は宝物殿で見る事が出来ます。







本堂東側の四方正面の池の手前には豊臣秀吉が寄進した南蛮鉄製の雪見灯籠が置かれています。





また、本堂前西側の庭園は「平家物語」当時のままで、汀の池越しに諸行無常の鐘、汀の桜、千年姫小松があります。



年に一度くらいの割合で収蔵庫の特別拝観があり、旧ご本尊さまの地蔵菩薩立像が拝観出来ます。
これ以上に劣化をしないように処理され、現在も国の重要文化財指定を受けているのは凄い事です。







建礼門院の庵跡です。
平家物語によると後白河法皇がお忍びで行幸され建礼門院とお会いしたそうです。
身内を全て失い平家一門の菩提を弔う日々、彼女の心中はいかがなものだったのでしょうか?





茶室"孤庵"です。
まだ入室した事がありません。春や秋には呈茶をして頂きたいものです。 





上の写真は"建礼門徳子大原西陵"

下の写真は大原バス停から寂光院の間にある"朧の清水"です。
建礼門院徳子が剃髪・出家し、寂光院に向かう際に立ち寄り清水に写った我が身を嘆き悲しんだと伝わります。

平清盛の娘として生を受け、やがて高倉天皇の中宮として入内、安徳天皇を出産されました。
国母として順風満帆な生活を送られていた我が身の変わりように"諸行無常"を感じられた事でしょう。









京都大原 勝林院

2020年02月27日 07時58分00秒 | 日記
 三千院を参拝後、近くにある勝林院を訪ねました。





駒札にあるように勝林院は1013年に寂源(じゃくげん)により創建されました。
その後、来迎院が建立されると多くの僧侶が集まり、天台声明(てんだいしょうみょう)を研究研鑽する寺院となりました。

声明とはお経などの仏典に節を付けた仏教音楽のひとつです。





ご本尊の阿弥陀如来坐像は丈六の阿弥陀さまで1168年、勝林院住職顕真が法然上人を招いて念仏の教えについて問答を交わしました。(大原問答と言われています。)

法然上人は念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できることを経典を引用しながら説きました。するとご本尊が光を放ち、法然上人の方が正しいことを証明しました。
この事により勝林院の阿弥陀さまは「証拠の阿弥陀」と通称されるようになりました。





大原問答には熊谷次郎直実が同行し、駒札のようなやり取りが法然上人との間であったようです。





現在の本堂は、江戸時代後期1778年に再建されたもので総欅造りで屋根は柿葺です。
随所に施された彫刻は素晴らしいものがあります。

再建から250年近くなり随所に傷みが目立つようになって来ています。
今まで無かったブルーシートが随所にかけられ、屋根の傷みが激しいのも残念です。

檀家さんや信者さんを持たない寺院だけに修復の費用を捻出するのは容易な事ではないようです。
一口2千円から寄付を募られています。



京都大原 三千院

2020年02月26日 08時37分00秒 | 日記
 2月20日は、よみうり天満橋文化センターの【「隠れ里」を訪ねて】で京都大原を訪ねました。
最初に天台宗五箇室門跡寺院のひとつ三千院を訪ねます。

三千院は伝教大師最澄の時代に比叡山に建立された"円融坊"が起源とされ、その後、移転を繰り返し「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」と呼ばれていました。

明治4年に現在の大原に移転し「三千院」と改称しています。

しかし、大原三千院の名を有名にしたのは何と言ってもデューク・エイセスの"女ひとり"ですね。









受付を終え順路を進むかと安土桃山から江戸時代初期の武将で茶人でもある金森宗和が改修した池泉鑑賞式庭園聚碧園(しゅうへきえん)が広がります。

さらに順路を進むと門跡寺院特有の建物宸殿があり、ご本尊の薬師如来さま(秘仏)がお祀りされています。
その前には池泉回遊式庭園が広がっています。桜🌸が終わる頃には石楠花が往生極楽院を背景に咲き誇ります。




また、苔の大海原には彫刻家杉村孝氏作のわらべ地蔵が参拝者を温かく迎えてくれます。





三千院の顔とも言える往生極楽院には阿弥陀如来坐像と脇仏の観音菩薩・勢至菩薩菩薩さまが今にも人々を救済すべく前屈みにお座りになっています。(大和坐り)
こちらの三尊はともに国宝です。
丈六の阿弥陀さまをお祀りする為、天井は舟底天井になっており、創建当時は極彩色の絵で彩られていました。




円融蔵の展示室で復元模写を見る事が出来ます。







聚碧園の南にある朱雀門です。

春の桜・石楠花、初夏の紫陽花・新緑、秋の紅葉とそれぞれの四季を楽しめるお寺です。



同志社大学周辺の遺跡・文化財

2020年02月23日 08時59分00秒 | 日記
 同志社大学今出川キャンパス周辺に歴史上さまざまな遺跡や文化財が存在し魅力あるエリアです。





京都御苑の北東、今の同志社女子大学のある場所は五摂家のひとつ二條家邸跡にあたります。





幕末期の井戸跡が発掘され復元保存されています。





烏丸今出川の交差点を北へ向かうと薩摩藩二本松藩邸跡の碑と駒札があります。
幕末期に薩摩藩は相国寺からこの土地を借り受け藩邸を造営し、その後の重要な拠点となります。





さらに北へ向かうと相国寺の境内地西端に築かれた石垣が復元展示されています。
南北400mとあるように広大な境内地だった事がわかります。



相国寺は応仁の乱で激戦地となり放生池は戦死者で埋め尽くされたと言われています。





重要文化財指定の彰栄館。京都市内2番目に古い煉瓦建築物。設計は、D.Cグリーンです。





重要文化財指定の礼拝堂でプロテスタントの煉瓦造りの礼拝堂として日本最古の建物です。





重要文化財指定のハリス理化学館。かっては工学部の教室として利用されていましたが現在はギャラリーとして公開されています。





重要文化財指定のクラーク記念館。現在もキリスト教主義教育の場として利用されており、館内にあるクラーク・チャペルは結婚式場としても使われています。





重要文化財指定の有終館。
かっては図書館として使われていた建物です。昭和3年(1928)に失火で内部を焼失しましたが、当時、京都帝国大学教授武田五一の助言のもと内部を鉄筋コンクリート壁で補強改修されました。







新島旧邸。
大学の東を通る寺町通沿いにあり京都市の有形文化財に指定されています。

外貨はアメリカのコロニアルスタイルですが内装には和のテイストが見られます。
新島八重が茶道を嗜んでいた影響もあるのでしょうか?
大河ドラマ"八重の桜"放映時には多くの見学者が詰めかけました。













琵琶湖疎水記念館

2020年02月22日 08時44分00秒 | 日記
 琵琶湖疎水記念館は京都市が琵琶湖疎水竣工100年を記念して平成元年8月に開館した施設です。



屋外にも多くの展示物があります。









大津市三保ヶ関にある取水口辺りは京都市の飛び地になっています。




第一疎水の建設費は当時の金額で125万円。今の貨幣価値で1兆円。最近の国家プロジェクトでは明石海峡大橋の建設費に相当する巨大公共事業でした。







最初の難関は長等山を貫く2436mのトンネルの建設でした。工期を短縮する為にシャフト(立坑)を2本掘り、計6ヶ所から掘り進められました。
ダイナマイトは活用されたものの、全ての作業は人力で行われました。





疎水の建設目的として、当時の京都府知事北垣国道は「起工趣意書」の中で7つの目的を公表しています。
①製造機械
②運輸
③田畑の灌漑
④精米水車
⑤防火
⑥井泉
⑦衛生

しかし、明治21年(1888)主任技師田邊朔郎と財界から高木文平が水力利用調査の為、アメリカへ渡米します。
コロラド州に出来たアスペン水力発電所を視察し、街には街灯が灯り、電車が走っている光景を目の当たりにします。
帰国後、直ちに北垣に設計の変更を進言します。
それを受け入れた北垣の英断がその後の京都の発展に大きく寄与します。


明治23年(1890)4月に第一疎水が完成し、翌年11月に第一期蹴上発電所が完成し、送電を開始します。
明治30年(1897)に初めて黒字化します。
しかし、第二疎水が完成するまで発電量は限界に達し電気使用料収入は頭打ちになります。第一疎水の水量が少なかった為です。

明治37年(1904)に第2代京都市長に就任した西郷菊次郎は明治39年(1906)3月、「京都市三大事業」の実施を公表し、そのひとつ第2疎水の建設を明治41年11月に着工、明治45年4月に完成します。
第二疎水の完成と第2期蹴上発電所の完成で発電量が増加します。


(資料はお世話になっている富永正治さまから頂いた資料を添付させて頂いております。)

水力発電への計画変更がなければ収支が好転する見通しは無く、疎水は大きなお荷物になっていたと思われます。







明治45年(1912)には御所を火災から守るための御所水道も完成しています。
古写真にあるように疎水の水圧だけで紫宸殿の屋根まで届いています。

蹴上船溜にある御所水道ポンプ室は京都・奈良国立博物館を設計した片山東熊の設計です。田邊朔郎の姉が片山東熊に嫁いでいるので彼らは義兄弟になります。

最近ようやく国の登録有形文化財に指定されました。








しかし、モータリゼーションの波には勝てず昭和23年(1948)11月には蹴上インクラインが休止、昭和26年(1951)9月には疎水船が運行を休止しています。

今も京都を潤いつづける琵琶湖疎水、若き技師田邊朔郎、疎水計画を実行に移した北垣国道、精密な設計を行った島田道生に注目が当たり、もっと光りが当たって欲しいと思います。