京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

リストランテ野呂 ランチセット+嶽きみフリット

2024年08月31日 07時51分00秒 | 日記
 8月23日は、京都アスニーで「室町時代の朝廷と幕府」の講座を聴講し、その後のランチはいつもの(?)"リストランテ野呂"さんへ。







もう20回近くは通っているでしょうか?
ここのイタリアンはホント美味しいです。

今回はオーナーシェフの野呂浩美さんの出身地の青森のブランドとうもろこし"嶽きみ(だけきみ)"が入荷したとお聞きしたので飛んで(?)来ました。



いつも先頭に立って腕を振われている野呂浩美さんです。

















ランチセットは肉の魚から選べますが、僕はいつも魚を頼みます。

かぼちゃの冷製スープ

ただのかぼちゃとは思えない甘さです。
人間の味覚は食材が冷たいと甘さを感じにくくなっているらしく、冷製でこれだけ甘いのは、暖かいスープにするとより一層甘さを感じると思います。

後でお聞きするとひとつのかぼちゃの苗からは複数の花が咲きやがて実になりますが、こちらで使用されているかぼちゃはひとつを残して後は間引くそうです。

季節の野菜

野菜にマスカルポーネチーズをアクセントにバルサミコ酢で仕上げられていて、さっぱりと頂けます。

嶽きみのフリット シンプルに塩で

今日のメインです。(?)

フリットの中には甘みが凄い"嶽きみ"がいっぱい入っています。

これだけの甘みに合う調味料は"塩"しかない感じです。
塩でより一層甘みを増した"嶽きみ"、、、
ホント美味しいです。

写真では皿に3個ですが、京都仲間のKさんとご一緒したので一人前をシェアしました。

今日のパスタ

茹で具合といい、具材との絡みといいプロの仕事ですね。

僕はアラビアータが好きなのでたまに野呂さんにお願いして作って貰います。

魚のフライ カレーソース添え

真鯛に鱧、真鯛の燻製クリームコロッケ

この日も35°を越す猛暑日、、、
カレーソースが胃を刺激するのでしょうか?
美味しく頂きました。

最後にアイスコーヒーを頂き、満足なランチセットでした。



これから、この日だけ御本尊さまが御開帳される洛西にある十輪寺へと向かいます。









京都迎賓館文化サロン 第10回漆工芸〜螺鈿〜

2024年08月30日 08時00分00秒 | 日記
 8月22日、中立売休憩所で昼食を取り、次に予約していた「第10回 京都迎賓館文化サロン 漆工芸〜螺鈿〜」に参加しました。



京都迎賓館は、平安建都1200年記念事業として府市経済界一体となり誘致要望活動が行われ、国において平成17年(2005)に建設されました。

建物や調度品には、数寄屋大工、左官、作庭、截金、西陣織など、数多くの京都を代表する伝統技能が用いられています。

海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただく施設として、内閣府において運用されていますが、平成28年から、外国からの賓客の接遇に支障のない範囲で一般公開されています。

正面玄関






2回目ですが、日本の和の建築技術、伝統工芸の第一者が持てる技術の全てを結集した素晴らしい施設です。

玄関の扉には樹齢700年の欅の一枚板が使われ、多くの建築資材には今や入手困難な材料が惜しみなく使われています。

聚楽の間







聚楽の間は京都迎賓館のロビーとして位置付けられ、晩餐会や大臣会合などが行われる際に、随行員の待合となるなど多目的に使われています。

夕映の間









大臣会合などの会議や立礼式のお茶のおもてなしや晩餐会の待合として使われています。









今回の文化サロンでは北村繁氏による螺鈿の実演がありました。
細い金切を使い非常に神経を使う繊細な技術です。

お父さまは漆工文化財の人間国宝・故北村昭斎さんです。 

藤の間











京都迎賓館で最も広い部屋で洋食の晩餐会や歓迎式典の開場として使われています。

櫛型にテーブルを並べた宮中晩餐会方式で約60名、ホテルの宴会場のように円卓を並べると約120名の会食が可能だそうです。

舞台では舞や能、事の演奏、雅楽が披露されます。

舞台の扉には、人間国宝だった故江里佐代子さんによる見事な截金細工が施されています。

また、壁面装飾は、日本画家の鹿見喜陌(さかみきよみち)氏の下絵を基に川島織物が綴織りの技法で織り上げたものです。

縦3.1m、横16.6mもの大きさです。

桐の間









和食を提供する「和の晩餐室」です。
最大で24名までの会食が可能で京料理が振る舞われます。

京都の有名和食店8件が順番で料理を提供されるそうです。

庭園









庭園は古くから日本人の住まいに貫かれた伝統「庭屋一如(ていおくいちにょ)の思想で作庭されています。











廊橋は京都迎賓館の東西の建物をつなぐ橋です。



和舟

海外からの賓客に日本文化「舟遊び」を楽しんで頂けます。



2011年11月18日~20日には、ブータン王国のジグミ・ケサル国王陛下及び同王妃陛下が「舟遊び」を楽しまれました。

東京赤坂にある迎賓館も国宝に指定される程に素晴らしい施設ですが、京都迎賓館も日本の伝統工芸の翠を集めた日本らしい素晴らしい施設です。




京都御苑 中立売休憩所 檜垣茶寮

2024年08月29日 08時22分00秒 | 日記
 8月22日のお昼は京都御苑内にある中立売休憩所内にある食事処「檜垣茶寮」に立ち寄りました。









京都御苑にある休憩所の中のひとつで、ゆっくりと食事が頂けます。

気候の季節にはテラス席で頂くのも御苑の緑が楽しめていいものです。

国民公園協会の「檜垣」さんが運営されています。











注文したのは「海老と旬菜の天ぷらざるうどん(冷)」。

味は有名店には負けますが、手軽に京料理が頂けるのは有難いです。



食事処の反対側にはお弁当の販売もあり、購入して店内で頂く事も出来ます。

次に予約していた「第10回 京都迎賓館文化サロン 漆工芸〜螺鈿〜」に参加する為に清和院休憩所へと向かいます。



京都御所 参観

2024年08月28日 09時26分00秒 | 日記
 8月22日は、久しぶりに京都御所を参観しました。





受付で手荷物検査を受け御所内に入ります。

最初に目にする建物が「御車寄(おくるまよせ)」です。
儀式や天皇との対面のために参内した者を迎える玄関です。
公卿や殿上人などごく限られた者だけしか使うことが許されません。

この様に、御所では身分や位により様々な制約があり完全な身分による格差社会?です。









諸太夫の間


参内した者の控えの間です。

格式の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と襖絵にちなんで呼ばれています。


右に行くほど格式が高く、身分に応じて部屋が決まっていました。

部屋の格は畳縁の違いなどにも反映されています。

虎の間・鶴の間を使用する者は車寄から参入するが、桜の間を使用する者は左の脱石から参入しました。






承明門から紫宸殿が見えます。



建礼門

御所の南向きにある正門で最も格式の高い門です。
天皇皇后両陛下をはじめ、外国の国賓クラスの方のみ使用が許されています。



紫宸殿

京都御所の正殿で、新天皇の即位の礼など重要な儀式が行われます。

安政2年(1855)に時の帝・光格天皇の強い要望により、平安時代の建築様式・規模で再建されました。



普段は見えないですが、中には天皇の御座「高御座」、その脇には皇后の御座「御帳台」が置かれています。







清涼殿


平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇の日常のお住ましとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式ここで行われていました。


天正18(1590)年に、御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。

伝統的な儀式を行うために、平安中期の建築空間や調度が古制に則って伝えられている。




小御所


鎌倉時代以降建てられるようになった御殿で、江戸時代は武家との対面や儀式の場として使用されました。


明治維新の際には、将軍に対する処置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名です。


昭和29(1954)年に焼失し、昭和33(1958)年に復されました。






御池庭

池を中心とした池泉回遊式庭園です。
右手には"欅橋"が架り、庭園の前面は州浜です。





御常御殿


清涼殿内に設けられるようになっていた常所が、天正18(1590)年に殿として独立したものです。


天皇のお住まいであるとともに、南面に上段・中段・下段を備えて儀式や対面の場としても使われていました。


内部は、神器を納める剣璽の間,寝の間等15室からなっています。






江戸時代に再建されたとは言え、「光る君へ」を彷彿させる平安王朝の雅さを感じる京都御所です。

こんな素晴らしい施設が通年公開され、しかも無料で参観出来るのは有難い事です。

なお、各建物の説明は、設置されている駒札から転載させて頂きました。

次にいつもの?食事処へと向かいます。











崇道神社 洛北

2024年08月26日 07時42分00秒 | 日記
 8月20日、JR東海「そうだ 京都、行こう。」夏のキャンペーン寺院"蓮華寺"を拝観後、東側に隣接して鎮座されている崇道神社をお詣りしました。







桓武天皇の実弟で皇太子でもあった早良親王(さわらしんのう)をお祀りする神社です。



創建の経緯については駒札にあるように、早良親王は兄である桓武天皇から長岡京造営の責任者である藤原種継の暗殺に関与したと廃太子の上、京都の乙訓寺に幽閉され、後に淡路に流罪に処されます。









無罪を訴えながら10日間の断食の上に淡路島へ配流の途中に亡くなりました。
ご遺骸はそのまま淡路島へと送られ、埋葬されました。
延暦4年(785年)の出来事です。

その後、桓武天皇の身辺に次々と凶事が発生します。
陰陽師によって早良親王が怨霊となって祟っているとされました。

親王の祟りをおさめるために創建されたのが崇道神社です。
神社名の"崇道"は早良親王死後に贈られた諡号「崇道天皇」に由来します。

史上最強の怨霊とされ、ここ崇道神社をはじめ上・下御霊神社や白峯神宮などにお祀りされています。





当時、科学技術や医療の発達など全く無かった当時には天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、のちに御霊信仰に発展していきました。

この日は参拝者は誰もおらず、より一層に当時の"史上最強の怨霊"をなんとか静めたいとの思いを感じます。





御本殿の手前には摂社である伊多太神社が鎮座されています。

伊多太大神は湧き水・農耕の神様で当地の氏神様です。

かつての伊多太神社は洛北唯一の古社で、延喜式内社でもあり、現在地の400mほど西に位置する、かなり大きな神社だったようです。
しかし、こんな洛北の地にまで影響があったのですね。
応仁・文明の乱(1467-1477年)で焼失し衰退してしまいます。

しかし、明治16年(1883年)に再興され、明治41年(1908年)には崇道神社に合祀されました。



少し東に向かうと八瀬の地があります。
都からは北西の鬼門の方角に位置します。
都を守護する為にあえてこの地に創建された神社です。