明日香村の一角に天武・持統天皇の御陵があります。
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檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)と呼ばれるこの御陵は説明板にあるように天武・持統天皇夫妻が合葬された陵墓です。
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今は鬱蒼とした小山になっていますが、元は、基壇は八角形で五段構造、頂上部は寺院の仏塔のようになっていたと推定されています。
古代の古墳の被葬者が確定しない中、この陵墓だけが唯一、天武・持統天皇おふたりの陵墓と確定しています。
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持統天皇が天皇として初めて火葬され、この御陵に葬られてから約500年後の鎌倉時代の文暦2年(1235)に盗掘に遭っています。
その際、調書が作られているのです。
やがてその調書も行方がわからなくなります。ところが明治に入り、その文暦2年の盗掘調書が発見され、陵墓内の状況が日本書紀に残るおふたりの埋葬状況と一致した事から檜隈大内陵がおふたりの陵墓と確定しました。
鎌倉時代の盗掘、その調書がなければおふたりの陵墓を巡って今も論争が続いている事でしょう。
なんとも皮肉な結果ですね。
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また、この陵墓の位置関係にも注目です。
おふたりの悲願だった日本最初の都城"藤原京"のメインストリート"朱雀大路"の真南に当たります。
藤原京の繁栄を願うおふたりの強い意志を感じます。